《風穴(アビュッソス)に堕ちた言葉》――正しさと正しさの狭間で――

著路

序章

あらすじ

多くの者たちの魂を封じられた“深淵(アビュッソス)”は、ただ静かに、そこに在った。

そして人々は、畏怖と敬意のもとに静寂を与えた。


――だが、それは本当に“静寂”だったのだろうか?


赤魔道士エレネアは、仲間たちと共に、封印をめぐる巨大な運命に巻き込まれていく。


何を守り、何を捨てるのか。

“正しさ”と“優しさ”の狭間で、少女は選ばなければならない。


正義と罪、赦しと希望――

それは、いまを生きるすべての者に問われる、もうひとつの“言葉”の物語。


本格異世界ファンタジー、ここに開幕。


⸻開幕序章・プロローグ⸻

「……君は、信じる者を間違えたんだよ」


その言葉が落ちた瞬間、静寂だった風穴に、再び“揺らぎ”が生まれた。


岩の壁がうねり、空気が震え、忘れ去られた“名前”が地の底でささやいた。


――彼らは封じたのではない。


――語らなかったのだ。


かつてこの地には、風が吹いていた。


それは、死者を蘇らせる風。


生と死の狭間を越えた、祈りの風だった。


だが今、風は止んだ。


王たちは歴史を書き換え、


英雄たちは沈黙し、


残された者たちは、自分たちの“正しさ”だけを信じた。


過去の真実も、未来の希望も、


すべては「正しさと正しさ」の狭間に沈んだ。


だが、誰かがその言葉を拾い上げるなら――


世界はまた、歩みを進めるだろう。


さあ、運命の扉が開く。


封印された記憶、沈黙した英雄たち、そしてその末裔たちの物語が、今――


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⸻序章1:ミノル村の守人⸻

ユタ地方、霧深き山岳地帯の奥に、ミノル村という小さな集落があった。

赤い法衣に身を包んだ魔導士たちが静かに暮らし、代々〈ユタの大風穴〉を監視し続けてきた村――それがミノルである。


ユタの大風穴――

ユタ地方の標高の高い山岳地帯にある断崖にぽっかりと空いた巨大な穴。直径は数十メートルだが、底が見えない。

常に薄い霧が立ち込めており、周囲には風のうねりと低い唸り声のような音が絶え間なく響いている。

草木が生えず、常に冷気が流れ出ている。地元では近づくと「魂が削られる」と恐れられている。


風穴から吹きすさむ風は魂の流れとされ、その深淵は生と死と意味し、上昇と下降、世界の境界を象徴している。

また、ユタ地方の一部では「風穴信仰」があり、魂は死後、風に乗って風穴に還るとされる。

古代には「大精霊フューンが地上と冥界を繋いだ穴」とされ、かつて魔と人の戦が起きた際、フューンが冥府への門を封印するために残した傷跡とされる。

古の魔神の力や意識を封じており、それが周期的に覚醒を試みる。定期的に封印を安定させる儀式が必要で、それを司るのが“守人”。


ミノル村に、ひとりの少女が生まれた。名はエレネア・フィオフェレス。

彼女の両目には、常人には見えぬ深紅の光が宿っていた。


「……この子は、“守人(もりと)”だ」


そう老長が呟いた時、集落の空気が僅かに揺れた。

〈守人〉とは、赤魔導士の一族において数十年に一度だけ現れる“均衡の調律者”――

〈創〉と〈滅〉をその身に併せ持つ、風穴の鍵とされる存在だった。


エレネアが九歳を迎えたある晩、村に黒い風が吹いた。


それは、ロキ=ヴィス ――魔術結社灰蛇(グレイ・ヴァイパー)の異端魔導士による襲撃だった。

もともとグレイ・ヴァイパーは、グリーンパレス王国魔導局の“外郭研究機関として位置づけられていたが、裏では禁書魔術や追放された魔導士たちの隠れ里として活動。

やがて帝国の暗躍部を担うようになり、最終的には「魔導テロ組織」として監視・討伐対象になっている。


グレイ・ヴァイパーにより密かに展開された転移陣を通じて、結社の魔導士たちが村に侵入。

抵抗する者すべてが魔力によって焼かれ、ある者は石化し、ある者は声なきまま消えた。


「お前が……“器”か」


ロキはエレネアを抱き上げ、無理やり転移魔法を行使した。

村の広場には、赤き血と灰だけが残された。


――この凄惨な事件は、後に「紅の大虐殺」として記録されることとなる。


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⸻序章2:大風穴の崩落と三傑⸻

ユタの大風穴――

その底は視認できぬほど深く、魔力を孕んだ風が常に吹き上げていた。

エレネアはそのまま〈ユタの大風穴〉へと連れ去られ、その深淵に眠る封印を解くための器として利用されようとしていた。


「これで、すべてが始まる……いや、“戻る”のだ」


ロキはそう呟き、封印陣に〈器〉を繋ぎ、禁断の解呪式を開始する。

術式が進行するにつれ、風穴からは不気味な低音が響き始めた。


だが、その時――

空を裂く轟音と共に、三つの影が風穴の祭壇へと降り立った。


「止まれ、ロキ」

「その子を手放せ」

「……貴様の言う“再生”に、未来はない」


その名は〈三傑〉――

魔導戦士ガルマ=フォン=ウェイン、黒の智者ザル=ヴァドル、聖域の刃セラフィム・ノクス。

かつて帝国に抗い、幾多の戦場を制した伝説の三人だった。


激しい戦闘の末、ロキの術式は強制的に断ち切られ、

封印結界は暴走状態に突入した。


「ガルマ、少女を連れて逃げろ!」

「私たちがここを押さえる!」


セラフィム、ザルの叫びを背に、ガルマはエレネアを抱えて風穴を離脱する。

その後、風穴は一部が崩落し、深層に至る通路は全て埋まった。


この事件は「大風穴の崩落爆発」として帝国に記録され、

三傑は消息不明のまま“封印の守護者”として語られるようになった。


🜂🜁🜄🜃


⸻序章3:カヤック村の日々⸻

ユタ山脈の奥深く、人跡まばらな谷あいに、カヤック村はあった。

地図にも記されぬこの村は、ガルマが〈結界〉によって外界から隠した隠れ里であり、かつての同志たちの協力によって維持されていた。


その片隅に、ひとつの小さな家。

そこに、ガルマとエレネアは暮らしていた。


エレネアは名も持たぬ少女だった。

記憶の断片も、感情の輪郭も曖昧で、時折、夜ごとにうなされる。

それでも、ガルマは彼女に「名前」を与え、「笑顔」を教えた。


薪を割り、水を汲み、畑に種を蒔く。

季節のうつろいと共に、彼女の瞳に少しずつ色が戻っていく。

村の子どもたちと過ごす時間の中で、エレネアは言葉を覚え、笑うことを知った。


だがその穏やかな日々は、あくまで“仮初のもの”――

少女の体には未だ封印された魔力が眠っており、それを狙う者たちがいつ現れてもおかしくはなかった。


ガルマは剣を手放さなかった。

かつて封印を護った誓いと、少女を守るという覚悟のために。


「お前は、ここで生きろ。……生きる理由は、あとからついてくる」


それが、かつて“戦士”だった男が、少女に贈った唯一の言葉だった。


🜂🜁🜄🜃


⸻序章4:因子の覚醒と連れ去り⸻

カヤック村での生活が五年を迎えた頃――

季節は夏の終わり、空には不穏な雷雲が垂れ込めていた。


その日、エレネアは村の小高い丘にあった古い魔導器の近くで、草花を摘んでいた。

それは、かつて帝国時代に使用されていた気象観測器であり、今ではほとんど機能していないはずの“遺物”だった。


突然、彼女の体が震える。

胸の奥が焼けつくように熱くなり、視界が白く染まった。


次の瞬間――


轟音と閃光が村を包んだ。

周囲一帯の空間が歪み、魔導器が青白い光を撒き散らしながら暴走。

半径数十メートルの土地が吹き飛び、空間が一時的に“魔素飽和領域”へと変貌する。


この事故により、旧式の魔導素測定装置が異常な数値を記録。

その信号は、思いがけず“あの男”のもとへ届いた。


──ロキ。


「……やはり生きていたか、〈器〉よ」


彼はその信号を〈風穴因子〉の発現と見なし、自ら部隊を率いて出撃した。

かつて開封を妨げられた因縁を、今度こそ断ち切るために。


夜明け前、カヤック村の空に黒き飛行艇が現れた。

その甲板から降り立ったロキは、冷たい瞳で村を見下ろす。


「回収対象は一体。生死は問わん。邪魔する者がいれば――排除せよ」


彼の命で動く魔導兵と追従者たちは、村の警備をいとも容易く突破していく。


ガルマは即座に剣を抜いた。

五年前の戦いで負傷した身体は、未だに万全ではない。だが、それでも立つ。


「……貴様だけは、許さない……!」


ロキとガルマ、かつての〈三傑〉と対峙した男の一騎打ちが始まる。

だが、かつてのようにはいかない。ロキは明確な意図と準備をもっていた。


「その剣では、私の“計画”は止められんよ、ガルマ」


ガルマの剣は彼の障壁に阻まれ、やがてその身体は限界を迎える。

そして、エレネアは意識を失ったままロキの手に落ちた。


「さあ、帰ろう。君の中にある真理が、すべてを“戻す”鍵なのだから」


その後、カヤック村は〈落雷による自然災害〉として報告され、村の一角は完全に消失。

生き残った者たちは村を離れ、散り散りとなった。


エレネアが再び目を覚ましたとき――

そこは暗く冷たい“研究所の檻”だった。


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⸻序章5:檻の中の目覚め⸻

冷たい金属音。


意識が戻った時、エレネアは硬いベッドの上に横たわっていた。

周囲は無機質な灰色の壁、青白い魔力灯が天井で唸っている。手足は拘束されていないが、空間自体が閉鎖されていた。


ガラス越しにこちらを見つめている男がいた。


「おはよう、エレネアくん。いや、そう呼ばれていたんだよね? 滾ってきたねぇ……うん、目覚めの瞬間というのは、いつだって特別だ」


ロキ。

数日前に村を襲った“あの男”――だが、その声は驚くほど穏やかで、どこか楽しげですらあった。


「ここはね、君のために再稼働させた特別な施設なんだ。旧帝国の“東方研究区画・第六実験棟”。ま、今では私専用といっても過言じゃないけど」


彼は長い指で髪を梳かしながら、愉快そうに笑った。

エレネアは身を起こし、周囲を見渡す。足元に魔法陣――抑制式と転写術式が複合された“監視結界”が淡く光っている。


「君はね……“滾る素質”を持っているんだ。いや、私の言葉で言えば、“器の臨界点”に近い。だから、こうして回収したんだよ」


その瞳が、ふと鋭く細められた。


「……けれど、あの愚鈍な豚剣士が、私の邪魔をしてくれてね。せっかく完璧な採取計画だったのに……ああもう……」


怒気を孕んだ気配と共に、ロキの口調が突如豹変する。


「あの無能の豚野郎がッ!! あのくされ野郎のせいで作業工程が台無しだッ!! 何が“守り抜く”だ、笑わせるなァアア!!!」


拳を壁に叩きつけ、ガラスにヒビが走る。


だが、次の瞬間には深呼吸をひとつ。肩を落とし、再び微笑んだ。


「いけないいけない、私としたことが。感情の制御もまた、観察者の資格だっていうのに……ふふ。ごめんね、怖かったかい?」


エレネアは何も答えない。

ロキは彼女の無言を楽しむように、ゆっくりと指を鳴らした。


「じゃあ始めようか、第一段階。君の“中身”を少しずつ、解き明かしていこう。滾ってきましたねぇ……」


天井の照明が一段階暗くなり、拘束魔法陣が強く輝きはじめる。

ロキの実験が、いま始まろうとしていた。


🜂🜁🜄🜃


⸻序章6:「研究棟の狂気と静謐」――揺らぎの因子――

帝国暦87年


グレイ・ヴァイパー統括区――東方研究区画・第六実験棟内 地下


 無数の術式が床と壁を埋め、中央には、ガラスのように冷たい封印結界の中でひとりの少女が眠っている。名を、エレネア。

開封魔導装置 E-113それが、今の彼女の名だった。


白い実験着。


腕に絡む鎖付きの測定器具。


魔力の測定、刺激、強制覚醒。



異常な脳波を検出すれば電気的なショック、


魔力値が一定基準を超えれば鎮静剤。



記憶は剥ぎ取られ、


感情は押し殺され、


人間ではなく、ただの「器」として扱われていた。



——そして今日もまた、発作と意識障害の波に揺られながら、


彼女は何もない白い天井を眺めていた。



 ロキ=ヴィスは、術式計測装置の針の微細なブレに目を細めながら、薄い声でつぶやいた。



「……今日も、反応は限界値に近い。次の変動で、また“兆し”が現れるだろう」



 助手たちは誰も言葉を発さなかった。ロキが発する圧力は、常に場の空気を均質化し、まるで空間までも封印してしまうかのようだった。


 結界の中で、エレネアのまぶたがかすかに揺れる。


 眠りは、もはや眠りではない。ただ抑圧され、押し込められた「目覚め」の連続。


 内部で渦巻くマナが時折、形を持って漏れ出し、空間にひび割れを走らせる。



 そのたび、ロキは無表情のまま、指先を動かす。結界が再調整され、力は抑え込まれる。



 何度目かの抑制が行われた直後——。



「報告します。風穴第七区画の研究担当として、新たに一名が配属されました」


「……誰だ」


「ルシアナ・ルフェリエル、元・大魔導官です」



 ロキの手が止まった。


 数秒の沈黙。


 その名には、かつて帝国機関の中でも“均衡を担う異端”として知られた者の響きがあった。


 秩序にありながら、秩序を壊す選択を恐れなかった女。



「……彼女が、来るか」



 風穴第七区画、観測制御室——。



 ルシアナ・ルフェリエルは、到着したばかりの端末に指を滑らせながら、静かに息を吐いた。


 黒と白、正反対の色が調和する衣の裾が、床に触れて波紋のように広がる。



「この術式……“彼女”に使うには、あまりにも重すぎるわ」



 彼女の銀白の髪が揺れる。双眸には、夜明けと黄昏が同居するかのような光が宿っていた。



 そのとき、制御装置が警告音を鳴らす。


 風穴の中心部、結界が震えている。


ユタの大風穴。

人々が「魂が削られる」と恐れるその場所には、

魔の時代を封じるために刻まれた“古の封印”が存在した。


「フューネ・ナーヴ=ヴァルト」


——古語で、「眠れる風の心臓」と呼ばれた。――そこは“聖域”と呼ばれながら、誰一人として祈ることを許されない場所だった。


「眠れる風の心臓」は、いま再び目を覚まそうとしている。


 ——エレネアのマナが再び暴走を始めていた。



 彼女は「起きてしまう」。


 このままでは、また“破壊”が起きる。



「やめて……やめて……いや……ッ!」



 結界の内側、声にならない叫びが漏れる。目覚めかけた意識は、自らの力を恐れ、内部から自壊しようとする。


 だが、そのとき——。



「……エレネア・フィオフェレス」



 誰の命令でもない。


 ルシアナは、結界の目前まで静かに歩を進めると、囁くようにその名を呼んだ。



「あなたの力は、誰かに奪われるものではないわ。……聞こえる?」



 結界の波動が止まる。



 ガラスのような結界の向こう、少女の瞳がわずかに開かれる。


 その瞳に初めて映ったのは、研究員でも魔導官でもない、“人の目”だった。



 ——わかってくれる。


 その直感に、涙が滲む。



 ルシアナはその様子を見届けながら、背後のロキに背を向けることなく言った。



「ロキ。あなたの研究は、確かに進んでいる。でも……その先にあるのは、彼女の破壊だけよ」



 ロキは何も言わなかった。ただ視線を下げ、術式データを確認し続けていた。……指先が、一瞬だけ止まった。



 ——その目が、何を見ているのか。


 それを、ルシアナは見抜いていた。



 数日後。


 ルシアナは、一枚の偽装通行証を懐に忍ばせながら、エレネアの封印室の結界式台に細工を施し始めていた。


 すべては、あの一瞬で決めたのだ。


「——さあ、行きなさい。あなたの生は、誰にも奪わせない。もし誰かがそれを汚そうとするなら、そのときは、私がこの手で、世界ごとでも止めてみせる」



 風穴が静かに揺れた。


 始まりの波動が、静かに、確かに満ちていく——。



夜明け前の研究所は、不気味なまでに静かだった。


 普段なら結界の鼓動が微かに響くはずの空気は、今やひと息ごとに張り詰めている。


扉が開いたのは、その日の午後だった。


足音は迷いなく、静かに近づいてくる。


研究者の足取りではなかった。


 ルシアナは監視魔眼の死角を縫って、エレネアの拘束室へと向かっていた。


 手には偽造された通行符と、解除済みの封印魔導石。



 彼女は小さく囁く。


「E-113……来て」



 扉が静かに開き、白い服に包まれた少女が現れる。


 目の焦点は定まらず、体は痩せ細っていた。けれど、足元だけはしっかりしていた。


 ルシアナはほっと息をつき、肩に手を添える。



 「このルートを辿れば、外に出られるわ。時刻のずれと偽装された記録で、最低でも八分は時間を稼げる。結界も、解除しておいた」



 エレネアは震える唇で問うた。


 「あなたは……どうして……私なんかを……?」



 ルシアナは微笑んで、優しく言葉を紡いだ。



 「“なんか”なんて、言わないで」


 「あなたは、“壊された器”なんかじゃない」


 「ちゃんと、“心のある人間”なのよ」


 「私はね……あなたの“心音”を聞いたの。魔導波でも術式でもない、ただの鼓動を」


そう言って、ルシアナはエレネアをしっかりと抱きしめた。


 「……ごめんね。遅くなって」



──崩れ落ちる天井。轟音と共に走る紅蓮の壁。



ルシアナはエレネアの手を強く引き、研究棟の裏通路へと駆け込んだ。剥がれ落ちた壁の向こうで、黒煙が生き物のようにうねり、空間ごと呑み込もうとしている。



「進みなさい、このまままっすぐ!迷わずに!」



だが、エレネアは数歩ごとに振り返る。目に涙を浮かべ、震える唇で何かを言おうとして——。



「行きなさい! 早く!! 振り返らないの!」



ルシアナの声が響いた。まるで母が我が子に叱咤するように。次の瞬間、彼女は叫ぶように名を告げる。



「エレネア!! あなたの名前はエレネアよ! エレネア・フィオフェレス!!」



エレネアの瞳が大きく見開かれる。彼女は何度もその名を反芻し、背を向けて走り出した。涙と炎に背を押されながら、通路の闇に消えていく。



──その背を見送りながら、ルシアナはそっと呟く。



「母として生きるよりも、正しさを選んでしまった私は……たぶん、“母失格”なのかもしれない」



振り返ることなく、ルシアナは結界の起動符を握り潰す。次の瞬間、爆発的な閃光がエレネアの足跡を覆い、彼女の脱出を完全に隠した。



白煙に包まれた研究所に、ひとり立ち尽くす女の影があった。


 警報が鳴り響く中、白衣を静かに脱ぎ捨てると、彼女は手に持っていた小さな魔導具を握りしめる。



 「これは、私が選んだ罰よ……」



 目を閉じ、魔導式封印具を解く。



 次の瞬間、研究棟の東壁が激しく吹き飛んだ。


 白煙と赤い警報灯が辺りを染め、研究者たちの悲鳴があちこちから響き始める。



 火が放たれたのだ。


 ――ルシアナの手によって。



【ロキ視点・直後の場面】



「ルシアナ・ルフェリエル……」



研究棟の高台から、ロキは炎を見下ろしていた。空気が歪み、魔力の渦が残響を上げる。



ロキは立ちのぼる煙を見つめていた。



 「……始まったか」



 隣にいた副官が言う。「報せでは、研究棟の東から火が」



 ロキは風穴の方向に視線を向けた後、ゆっくりと目を伏せて、静かに呟く。



 「……“安らかな死”など、傲慢な者の都合に過ぎない。彼らはまだ、生きたがっている」


 「我らが為すのは、破壊ではない。“命の取り戻し”だ」



 風が吹き、煙の匂いがロキの髪を揺らした。



「……やはり、貴女は“秩序の外側”にいたか」



一瞬、笑みすら浮かぶ。



「けれど、あの子に選ばせたか……ふん、さすがは“調和の魔道士”。」



背後の影に気づいて振り返らずに冷酷に告げる。ロキは振り向かずに言った。



「構わん。捕らえろ。だが、殺すな。……処刑台の上で、“正義”を語らせてやれ」



【数日後・拘束されたルシアナ】


魔導枷に縛られたまま、ルシアナは処刑の時を待っていた。それでもルシアナは毅然としていた。――処刑を目前にしてなお、微笑みさえ浮かべている。

(ロキによって偽りの罪状が流布され、ルシアナは「魔導災害を引き起こした張本人」として断罪されることとなった。すべては支配体制を正当化するため――双子にも、真実は伏せられている。エレネアの名に至っては、存在ごと抹消されていた)


荘厳な礼拝堂。


白亜の大理石に囲まれた中央には、“浄化の光輪”――かつて古代の魔導教会が“神意”を下す場とした処刑台が、静かに据えられている。



そこに立たされた女、聖女ルシアナ。


聖職者の法衣を脱がされ、腕を封印の鎖で縛られながらも、その姿には一切の屈辱の色がなかった。


むしろ、穏やかでさえある。



背後の席。


絹のローブに身を包み、厳粛な面持ちで儀式の進行を見守る“聖務長官”――ロキがいた。



彼は静かに目を伏せる。


(これでいい。すべては秩序のため。彼女が真実を語れば、双子は――いや、エレネアまでもが……)



その眉間にかすかな迷いが浮かんだ瞬間、左右の補佐官が彼の視線に気づき、無言で頷いた。


(感情に呑まれるな。ルシアナは“汚名”を着せるべきだったのだ)


彼は動かない。


瞬きひとつすら惜しむように、ただその光景を見つめている。



(……これでいい。真実は、誰のためにもならない)



ルシアナが語れば、すべてが覆る。


双子は揺らぎ、秩序は崩れ、そして――“彼女”の存在すら知られてしまう。


それは絶対に避けねばならない。



(ルシアナ……許せ。これは、世界の均衡を守るためだ)



その思考に一瞬の痛みが走る。


だが、ロキは眉ひとつ動かさず、目を伏せた。



――その時、天井の神聖紋章がゆっくりと開いた。



まるで天が口を開いたように、巨大な光陣が現れる。


光は、ただの魔力ではなかった。


幾層にも重なった紋様がゆっくりと回転し、空気の震えとともに鈴の音にも似た金属音を響かせる。



静かに、しかし抗いがたく。


“浄化の光”が降りる。



それは裁きではない。慈悲でもない。


人知を超えた“秩序”そのものの象徴――天の意志を模した神聖なる終焉。



光はまるで薄いヴェールのように、ルシアナの身体を包み込む。


衣が風もないのに揺れ、髪が光に透けて輝く。

その姿はまるで、天へ還る天使のようだった。



ルシアナの視線が群衆の中へと向けられる。


双子の娘、ティアナとサフィア。


幼い二人の瞳が、母の最後の言葉を待っている。



「……ティアナ、サフィ……魔法は“力”じゃない。“選び方”がすべてよ……」



その声は、教会の石壁に反響しながら届いた。



「やだ……ママやだよ……っ!」



鉄柵の隙間から伸ばされる幼い手。


その小さな叫びは、誰にも届かない。



「どれほど拒んでも、あなたたちの中にある光は、闇より強い。……だから――絶対に、自分を見失わないで……」



その瞬間。


光が強く脈打ち、視界を一瞬だけ白で塗りつぶした。



やがて沈黙。


ルシアナの姿はもう、そこにはなかった。



サフィの小さな身体が、その場に崩れ落ちる。



「……サフィ? サフィ、大丈夫?」



ティアナの声にも、サフィは返さない。


ただ、呆けたように光の残滓を見つめながら――



「サフィ……魔法、いらない。サフィ、魔法なんか……いらないよぉ……」



それは、母を奪ったものへの拒絶。


自らの力を否定する、幼き絶望の始まりだった。



この記憶は、今もサフィの夢に時折現れる。


そして後に、彼女の暴走のトリガーとなる。



壇上。


ロキはすべてを見届け、静かに立ち上がった。



その瞳に、もはや迷いはなかった。


否。彼は自らの正義に沈む覚悟を決め、振り返るための道を、自ら焼き捨てたのだ。



感情という名の足枷を断ち切り、信念を――確信へと変えた。



(世界に“理”をもたらすのは、誰かが汚れ役を引き受けたときだけだ)



その冷徹な光を宿した目は、誰も知らぬ未来を見据えていた。


🜂🜁🜄🜃

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