10-2
週が明けて、月曜日。
夏休みを目前に控えた今日、周囲は夏休みのきらきらとした予定を話す声で盛り上がっていた。中には「毎日部活ダルい」というような愚痴もあったけれど、仲間と共に部活に専念できる夏は、それはそれで楽しいだろう。
それなのに、私だけが暗い気持ちで席に座っている。先生が来てHRが始まっても、一時間目から四時間目を終えて昼休みを迎えても、眠たい午後の授業のあとも、ずっと一人で暗い海の底に沈んでいくような心地がしていた。
放課後、席を立ってぼんやりとしたまま教室を出る。
いま、保健室に行けば瑠伊に会えるのだろう。彼は昨日病院を退院したはずだ。だから今日は学校に来ているはず。頭では分かっているはずなのに、身体は言うことを聞かない。そのまま下駄箱へと進んでいった。その時だ。
腕を掴まれた。
かなり力が強くて、右腕に鋭い痛みが走る。驚いて腕を掴むその人物に視線を這わせると、向井さんが怖い顔をして立っていた。下駄箱の一歩手前。他の生徒たちが、「なんだ?」という懐疑の目線を向けながら私たちの横を通り過ぎる。校舎から出ていく何人もの背中を見送ったあとで、ようやく彼女が口を開いた。
「なんで知らんふりするの?」
棘のある一言が胸に突き刺さる。彼女の言う「知らんふり」というのが何のことを指しているのか聞かなくても十分理解できたからだ。だからこそ、何も事情を知らない彼女に指摘されて、沸々と怒りが込み上げる。
「昨日と一昨日、瑠伊に会いに行かなかったでしょ? 瑠伊、『俺が何か悪いことしたかな』って落ち込んでたわ。なんで私があんたのことで瑠伊を慰めなくちゃいけないのよ」
今の私以上に怒りを孕んだその声に思わず萎縮しそうになる。彼女の口調からは怒り以外に、悲しみも滲んでいるような気がした。
「向井さんは……瑠伊のことが好きなんでしょ。だったら、瑠伊を慰められて良かったじゃん」
我ながらひどい言い訳だ。そんなことで彼女が良かったなんて思うはずがないって知っているのに。彼女を傷つけるような言葉をわざと選んでしまう自分に嫌気がさす。
向井さんの顔が分かりやすく歪んで、傷ついた表情になった。
私だって、いっぱいいっぱいなんだよ……。
この記憶障害のこと、瑠伊にだけ打ち明けていた。でもその瑠伊は私のことを忘れてしまって、もう誰も私の記憶について知っている人はいない。心細さ、切なさ、やるせなさ。知っている限りの負の感情をかき集めてもまだ足りないぐらい、つらい。忘れてしまった彼との大事な思い出を思うと、心が張り裂けそうだった。
向井さんは口をパクパクとさせた後、ぎゅっと両目を瞑り、私を掴んでいた手を離した。もう関わりたくないとうことだろうか。だったら都合が良い。私もこの場から早く立ち去りたい——そう思いながら、玄関のほうへと視線を移した時だ。
「瑠伊は……瑠伊は、綿雪さんのことが好きなのに、どうして逃げるの!?」
全身で溜め込んでいたものを吐き出すような悲痛な叫びだった。
近くにいた生徒が一斉にこちらを振り返る。だが、そんな彼らの視線も構わずに彼女は続けた。
「綿雪さんは瑠伊に選ばれたのにずるいっ。……私は、どうやっても選ばれないのに! たとえ瑠伊の中学時代の記憶が戻ったって、私たちの関係は永遠に平行線のままよっ。交わることなんてこの先絶対にない。でも……でもさ、あんたは選ばれるじゃん! あんたは瑠伊に好かれるんじゃん! どうして? ずっと瑠伊のそばにいる私じゃなくて、出会ったばかりのあんたがいい思いをするの? ねえ、どうして」
両目に大粒の溜めた彼女が、唾を撒き散らしながら叫ぶ。どれだけ周囲から醜いと思われようが知ったこっちゃないというような大荒れぶりに、私は思わず息をのんだ。
「違う、よ。そんなはずない。だって瑠伊は私のこと忘れちゃったんだから! たとえ前の瑠伊が私を好きでいてくれたとしても、今の瑠伊はもう私のことなんてただの知り合い程度にしか思ってない!」
私も、彼女と同じように叫ぶ。言葉を紡ぎ始めると叫びたくなった。誰にも言えなかった本音を、今向井さんになら言える気がして思い切りぶちまけた。
向井さんは一瞬、驚いたような、切ないような、複雑な表情を浮かべて固まった。無言の時が二人の間を流れる。やがて何かを決意したように、すっと彼女が息を吸い込んだ。
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