8-3

 瑠伊の両親の背中が完全に見えなくなったあと、彼の病室の扉をノックした。


「どうぞ」


 看護師が来たと思ったのか、すぐに瑠伊の声が聞こえた。久しぶりに聞いた彼の声に鼓動が高まる。呼吸を整えて扉をすーっと開けた。


「失礼します……」


 どんな顔をして瑠伊に会えばいいか分からなくて、自分でも分かるくらいに目が泳いでしまった。それでも、気を取り直して扉の向こうのベッドに上体を起こして座っている彼の青い瞳としっかりと見つめる。頭に巻かれている包帯が一緒に視界に入って胸がズキンと痛かった。


「瑠伊、こんにちは」


 何を言えばいいかと迷って、開口一番に出てきたのはただの挨拶だった。

「大丈夫?」も「ごめん」も、まだ伝える勇気がなくて、ただ彼の安否を確かめるべく、瑠伊が「こんにちは」と返してくれるのを待った。


 だけど。


「……誰?」


 一瞬、言葉が脳を素通りした。

 瑠伊の口から発せられたその一言の意味が分からなくて、「は?」と呆けた声がこぼれ落ちる。


「えっと、瑠伊、ドッキリか何か? 私だよ、綿雪夕映。私のせいで事故に遭わせて本当にごめん。それから、助けてくれてありがとう」


 胸の中に広がっていくもやもやとした得体の知れない不安を覆い隠そうと、ここに来る前に考えていたことを捲し立てるようにして伝えた。

 けれど、彼はますます怪訝な表情を浮かべるばかり。


「わたゆき……ゆえさん……」


 頭の中で失くした記憶を掘り起こそうとしているような彼の顔には、自分が過去の記憶を失ったときと同じような戸惑いの色が見える。


「ごめん、ちょっとまだ記憶を思い出したばかりで、頭の中ぐちゃぐちゃで……。えっと、きみは俺の中学の頃のクラスメイトだっけ……?」


「思い出したばかり……? 中学の頃のクラスメイト……?」


 ますます彼の言っていることの意味が分からない。

 瑠伊はいま、「記憶を思い出したばかり」だと言った。

 その記憶って、まさか……。


「瑠伊、もしかして中学生の頃の記憶を思い出したの!?」


 私があまりにも必死な形相で近づいてきたから、彼は「ちょ」と軽い悲鳴を上げる。


「どうやら、そうらしい……。俺も、今朝目が覚めて、中学の頃の記憶があることに気づいたばっかりで、全部の記憶を思い出したかどうか、まだなんとも言えないけど……。でもごめん。きみのことは思い出せない。クラスメイトじゃなくて、隣のクラスの子だったりする?」


「は……それってどういう」


 彼に問いながら、頭の中でひとつの可能性が思い浮かび、警鐘を鳴らす。

 もしかして、事故で頭を打った衝撃で、私のことを忘れてる……?

 いや、そんな馬鹿な。

 だってつい最近まで一緒にいたよ?

 昨日だってメッセージでやりとりしたし、何より瑠伊は、私のことを助けて事故に——。


 驚愕でどんどん固まっていく私の顔を、瑠伊は申し訳なさそうな表情で見つめる。そのよそよそしいまなざしが、自分の想像に正解を告げているようだった。


「はは……」


 ありえないと思うことが現実に起こることも、あるのだ。

 私の記憶障害だって最初は信じられなかった。

 でも実際に突拍子もないことだって起こり得る。改めてそう思い知らされて、全身から力が抜けていくようだった。


「ちょっと、大丈夫!?」


 床にへたり込んだ私を、ベッドの上から瑠伊が心配してくれる。

 そっか……心配はしてくれるんだ。そこは、私のことを忘れても変わらないんだな……。

 絶望感で視界がどんどんぼやけて滲んでいく。

 突きつけられた現実を、もう一度よく咀嚼した。

 瑠伊は中学時代の記憶を思い出した代わりに、私のことを忘れてしまったのだと。




 その後、どうやって自宅に帰ったのか、覚えていない。

 例によって記憶が消えてしまったというわけではなかった。ただ、茫然自失状態で自宅までたどり着いたことだけは覚えている。


 暗い顔をして帰ってきた娘に、母は「どうしたと? 瑠伊くんとは会えた?」と心配そうな声色で尋ねた。けれど、私は母の問いに首を縦に振るだけで、返事をすることができなかった。


「なんで……」


 へなへなと自室の床にへたりこむ。病室で私を目にした時の瑠伊は、本当に私のことを忘れているようだった。

 たったの一ヶ月。瑠伊と過ごした時間は確かに短い。でも、私の中では、この一ヶ月間彼と一緒にいた時間が、あまりにも大切すぎた。

 だからこそ、瑠伊の中から私の記憶がなくなって、言いようもないほど悔しくて寂しくてたまらない。

 こんな場面、未来の記憶にはなかった。

 まかさ瑠伊が私のことを忘れてしまうなんて。

 このまま私の記憶からも、瑠伊と過ごした日々が消えてしまったら……?

 考えるだけで目が眩んだ。窓に映る自分の顔は酷く憔悴していて、慌ててカーテンを閉める。まだ時刻は夕方なのに、まるで真っ暗な夜の底に沈んでいくような心地がした。

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