6-5

「はあ、はあ……」


 いつも、ショッキングな未来の映像を見た時は息が上がっている。 

 訪れるかもしれない未来を知って、息が苦しくなる。大したことじゃないよ。あんな記憶。もし本当に現実になるとしても、気にすることない。絶対にこの記憶と同じ未来にたどり着くわけじゃないのだから、気にせず短歌づくりを頑張ればいい——と、頭では理解しているのに、心が痙攣しているようにひりついて、身動きが取れなくなった。


「夕映っ!」


 耳元で鋭い声が聞こえて、身体が時間を取り戻したかのように跳ねる。


「大丈夫か、うなされてたぞ」


「だ、大丈夫……。たぶん、大丈夫」


 自分に言い聞かせるように、瑠伊に大丈夫と繰り返す。


「大丈夫じゃないだろ。夕映、お前震えてるぞ」


 彼の腕が私の肩を抱く。さっき、私が瑠伊にしたのを、逆に瑠伊が私にしてくれた。温かい。だからこそ、泣きそうになる。瑠伊がいま、隣で一生懸命絵を描いているのに、落選してしまうかもしれないなんて……。実際は落選することのほうが多いということはもちろん分かっている。でも、落選した時の映像をリアルに見てしまったいま、その時の彼の心中を思うとやりきれない気持ちがあふれた。そこで初めて自分が想像以上にショックを受けていることを知った。


「大丈夫、大丈夫だって……」


 言葉とは裏腹に、目尻には熱い液体が込み上げて溜まっていく。こぼれ落ちないように、なんとか両目にぎゅっと力を込めるけれど、努力虚しくそれは頬を伝い、私を抱きしめてくれていた彼の肩を濡らしていく。


「夕映、何を見たんだ?」


 事情を察してくれた瑠伊が緊迫した声で問いかける。

 言うか言うまいか一瞬迷ったけれど、言わなければ彼を余計に心配させてしまうことが分かっていたので、口を開く。


「コンテストに落選する夢……。二人とも、すごいショック受けてて、それで……」


 話しながら、横目で彼が描いていたキャンバスを見る。たくさんのユリがダイナミックに描かれていて、その奥に海と、青空に浮かぶ太陽の光が神々しく輝く。鉛筆だけで描かれたデッサンなのに、まるで絵の中の光景が現実に映し出されるみたいに、リアルで美しい。違う気持ちで見たら感動して泣いてしまいそうなほど、彼の絵は素晴らしかった。


「そうか……。気にすることないよ。落選なんて、よくあることだし。仮に落選するんだとしてもさ、二人で一つのものをつくることに、変わりはないだろ? 俺は夕映と最後までこの作品と向き合いたい。それじゃダメか?」


 ダメじゃないよ。

 最後まで頑張りたいよ。

 心ではそう思っているはずなのに、乾いた口からは何の言葉も出てこない。先ほどまでなんとなく頭の中で考えついていた五音と七音の言葉が、バラバラと崩れて記憶から消えていく。


「ごめん、ちょっと……考えたい」


 その一言が、どれだけ瑠伊を絶望させるか分かっていた。なのに、口が止まらなかった。


「……そうか」


 明らかに落胆の色が滲む彼の声を耳元で聞いた。私の肩からすっと腕を外して、今度は正面から私に、「分かったよ」と納得したそぶりで頷く。

 それが彼のやさしさだと分かり、胸がジンと熱くて、針でチクッと刺されたように痛かった。


「でも、俺はやっぱり夕映と作品を完成させて応募したいから、心が回復したら、また考えてみてほしい。俺はいつまでも、夕映を待ってる」

 

 泣き笑いのような切ない表情を浮かべた彼の顔に橙色の光が差す。いつのまにか雨が止んでいた。もし清々しい気持ちでここに座っていたら、私はきっとまた「夕映だ」とつぶやいただろう。雨上がりの空からあふれだす光のベールは美しいことこの上ないのに、心が泣いていたらぜんぶくすんでしまうのだと、この時初めて知った。


「待ってるから」


 私の肩にポンと置かれた手の温もりを感じながら、彼に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 その日のデートはそこでお開きとなった。

 帰りの電車に乗っている間、私はじっと黙り込んでしまっていた。瑠伊が何かを言おうとしてくれているのは分かっていたけれど、私があまりに頑なに表情を強張らせていたから、彼もきっと出かけた言葉をのみこんでしまったんだろう。そのうちきゅっと口を結び、映りゆく外の景色をひたすら眺めていた。


 電車を降りて、改札の前で彼に手を振る。


「じゃあまた……学校か、真白湖で」


 逡巡した様子でなんとかそう言ってくれる瑠伊に、私は「うん……またね」と微笑み返すので精一杯だった。

 

 自宅へと続く道を一人で歩き出す。

 心の中には、不安しかなかった。

 これから私はまた、瑠伊と一緒に過ごした記憶を忘れてしまうのかもしれない。

 彼と過ごす時間が増えるたび、大事な記憶が増えていく。

 だからこそ、記憶を失うのが怖い。

 これまで以上に、失うことを恐れている。

 友達をつくるということはそういうことだったのだ。自分の考えの甘さを痛感して、やっぱり視界が涙に滲んでいく。

 それに……と、ふと自分の胸に右手を押し当てる。

 瑠伊のこと、私は——。


 最初にSNSで話しかけてくれた時に嬉しかった気持ち。

 彼が未来の記憶の通りに真白湖で会った男の子だと分かった時の驚き。

 彼が私にくれた優しさ——を思い返すたびに、胸がずきんと切なく疼く。


 気づいてしまったら、一層心臓が早く動き出す。

 私は瑠伊のことを、友達以上の特別な存在だと思っている。

 気づかないふりをしていた彼への恋情は、思っていたのより何倍も苦しくて、でも甘く溶けそうなほど強く激しいものだった。

 でもだからこそ、大切な彼との記憶がこれから消えてしまうかもしれないということが怖くて、恐れを振り払うように、自宅までダッシュで駆けていた。

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