6-3

 午後一時半、カフェを出る頃には少しだけ雨足が弱まっていた。


「お、いい感じだな」


 傘をさして振り返った瑠伊のブロンズの髪の毛がさらさらと風に揺れる。お腹が満たされたおかげか、午前中よりも風が心地よく感じられる。湿気でベタついていた私の髪の毛も、少しだけ落ち着いた。


「『海辺の花さじき』、行く?」


「そうしよ」


 さっき、唯一回れなかったエリアに向かって二人して歩き出す。『海辺の花さじき』はその名の通り、公園の中で海を臨める場所だ。エリアにたどり着くと、さーっと視界いっぱいに広がるユリの花に衝撃を覚えて身体が自然に止まった。瑠伊も、「おお」と感嘆の声を漏らしてゴソゴソとすぐさまトートバッグからキャンバスを取り出す。一面に広がるユリの向こうには、海が続いている。ユリの海と、本物の海と。白、緑、青のコントラストが美しい。晴れていたらきっともっと海の色が綺麗で圧倒させられていただろう。


「ここに決めた」


「え? もう決めたの? もっと考えなくていい?」


「いい。こういうのは直感がすべてだ。俺はここがいいと思う。夕映は?」


 強い意志の宿る紺碧色の瞳に問われて考える。私も、今日いちばんに感動したのはこの景色だと思い知る。こっくりと頷くと「じゃあ決まりだな」と歯を見せて笑った。

 私たちは近くのベンチに移動して、腰掛ける。濡れていたけれど、瑠伊がビニールシートを持ってきてくれていたので、難なく座ることができた。大変準備がよろしいようで。「備えあれば憂いなしだろ」と得意げに胸を反らす彼を、ふと教室にいるクラスメイトと重ねてみた。

 もし瑠伊がクラスにいたら、人気者になるだろうな。

 チクリとした胸の痛みを感じながら、彼が隣で傘を首で挟むようにして持ち、画材を出して絵を描くのをじっと見つめる。まずは下描きをするらしい。鉛筆を寝かせるようにして持ち、サッサッサッと線を重ねていく。景色と手元を交互に見つめる彼のまなざしは真剣そのもの。口を挟もうにもできなくて、二人の間には沈黙が流れる。


「そんなに固くならなくていいぞ」

 

 私の心中を推し量ったかのように、ふっと息を吐きながら言う。視線はじっと手元を見つめながら。


「う、うん。でもなんか、集中してるから」


「それはそうだけど。喋るくらいできる。てか夕映のほうが、短歌考えなくちゃいけないから喋れないか」


「あ、そうだ。短歌」


 彼に言われるまですっかり忘れていた。私が今日、瑠伊とここに来た目的は短歌をつくるためでもあるのだ。

 でも、彼が言うように絵画とは違い、手作業でどうにかなるものではない。黙々と考えなくちゃいけない。しばらくユリと海と鈍色の空を見つめながら、言葉をじっくり思い浮かべた。雨が降っていて……海は晴れている日よりずっと暗い。ユリの花は太陽を求めてちょっと泣いているように見える——って、今考えたらなんだか暗い短歌になりそう。


「……ねえ、瑠伊が絵を描き終えてから考えてもいいかな? 目の前の風景と瑠伊が描く絵は違うでしょ。だから、絵を見て考えたい」


「それはもちろん構わないけど。なんか暇にさせて申し訳ないな」


「ううん。私はここでこうして瑠伊が絵を描くのを眺めてるだけでも楽しいから」


「それなら良かった。でもなるべく普通に話せるようにするよ」


 作業に集中したいだろうに、私の退屈さ加減に気を遣ってくれる瑠伊はやっぱり優しい人だと思う。


「そういえばさ、この間は一緒に勉強してくれてありがとうな。それから、俺みたいなハーフ野郎と仲良くしてくれてありがとう」


 改まってそんなことにお礼を伝えてくれる彼が、健気で愛しい。私なんかよりもずっと素直で、まっすぐで。彼はまるで太陽に向かってシャキッと伸びるひまわりみたいな人だ。


「ううん、とんでもないよ。むしろ訳のわからない記憶喪失女と一緒にいてくれてありがとう」


「ぷっ。訳のわからない記憶喪失女ってなんだよ」


「それを言うなら、ハーフ野郎だって乱暴だよ」


「それはいいの。野郎は野郎だから」


「瑠伊は野郎って感じじゃないでしょ。紳士なんでしょ」


「あ、そっか」


「さっき自分で紳士とか言ってたくせに設定忘れないでよー」


 思わず自分の口から、からからと笑い声がこぼれる。そんな私を見て、彼もつられてククッと吹き出した。


「てかその“野郎”っていうところよりさ、野郎の前に“ハーフ”がついてることのほうが気になるよ。ハーフなのは瑠伊のいちばんのアイデンティティでしょ。それを揶揄するのはなんだかいただけないなーと」


「俺が自分で言う分にはいいでしょ。それに俺、ハーフなのをアイデンティティだって感じたことないし」


「そうなの?」


 なんだかしんみりとした口調だったので、ふと言葉を止めた。彼は依然としてしっかりと手を動かしながらも、瞳の裏では私との会話に集中しているように見える。ひゅっと短い風が吹いて、彼の手元のキャンバスを濡らした。トートバックからティッシュを取り出した瑠伊は、さっと水を拭う。

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