2-4
「ゆえの名前は? ゆえも、本名?」
前に会った時、同じように名前を聞かれて逃げ出してしまったことを思い出す。
あの時は初対面で、しかも彼の人となりがよく分からなかったけれど……。
SNSでやりとりをするうちに、互いのパーソナリティの一部を打ち明けている。
彼とは友達になるのではない。同じ記憶障害という傷を抱えた仲間としてなら、関わってもいいんじゃないだろうか。
ぐっと胸に決意を秘めて、「名前は」と口を開く。
「綿雪夕映といいます。“夕日”に“映える”で夕映です」
「夕映……めちゃくちゃ綺麗な名前だな」
今日一番のまぶしい笑顔を浮かべたルイ——いや、瑠伊が、雨上がりの空の下、雲の切れ間から差し込む日差しに照らされる。真白湖の水面が、空から降りてきた天使の梯子に、きらきらと照り輝く。
「
圧倒されるほど美しい景色が目の前に広がって、口からは吐息が漏れた。
「うわ、ほんとだ! すげえ。俺、最近よくここに来てるけど、こんな景色を見たのは初めてだ」
真白湖を眺めながらうっとりと頬を染める彼を見ていると、私たちはずっと前から仲良しの友達だったんじゃないかという錯覚に陥る。
瑠伊って、本当に記憶喪失なのかな。
見たところ、普通に元気で明るい少年にしか見えない。記憶喪失の人に実際に会ったことがないから、完全に分からないけれど。イメージではもっとこう、後ろ向きというか、辛さが表情やオーラに出ていてもおかしくないと思う。現に私は記憶障害で悩まされて、最近はうつむいて歩いてばかりだ。
「夕映ってさー、記憶障害なんだよな?」
私が考えていたことが彼の口から聞こえてきて、思わずぴくりと肩を揺らす。
「う、うん……そうだよ」
「そうか。もし差し支えなければ、どんな症状か教えてもらえたりする? ちなみに俺は
「中学の頃の記憶だけ……?」
「ああ。変だろ?」
くく、と笑いながら答える瑠伊だが、きっとこれまで記憶がないせいで感じてきた苦労は計り知れない。
それにしても、記憶障害について、ほとんど知識がなかった私にとっては目から鱗だった。
中学の頃の記憶だけなくなってしまうなんてこともあるんだ……。今までの過去が全部なくなっているわけじゃない。それって、どんな感覚なんだろう。
「俺も記憶喪失って聞いて、よくドラマなんかで見るように『自分は誰?』状態になるかと思ってたんだけど、違った。ちゃんと俺、自分が海藤瑠伊だって覚えてたし、家族も、小学校時代の友達も覚えてるんだ。ただ本当に、中学の頃の記憶だけが抜け落ちてて、人間関係もままならない感じ」
まるで欠陥商品だろ? と薄く目を開けて笑う彼に、なんと声を掛ければいいか分からなかった。
「ああ、ごめん。暗い空気にするつもりはなかったんだけどさ。どうしても症状のことを話すとこうなっちまうよな。誰彼構わず話してるわけじゃないんだ。夕映が、同じ記憶障害に悩んでるって知って、ちょっと自分のこと話してみたくなったというか……ほっとしたんだ。同じ悩みを抱えるやつに出会って」
「瑠伊……」
今度は鼻の頭を掻きながら「ごめん」とつぶやく瑠伊。
そっか、そうだよね。
ずっとひとりで抱えてきたんだよね。それを、記憶障害だと話す私が現れたものだから、安心するのは自然のことだ。私だって瑠伊と同じだった。自分の悩みは誰にも打ち明けられないと思っていたけれど、SNS上で同じような症状に悩まされる彼に出会って、安らぎを感じていたんだ。
だからこそ、友達をつくらないと誓った私が、今こうして真正面からこの同級生の男の子と向き合っている。
「あのね、瑠伊」
気がつけば口が勝手に開いていた。私も、自分の症状を話そうと思ったのだ。
「私も記憶障害なんだけど、普通とはちょっと違ってるの。信じてもらえないかもしれないけど、聞いてくれる?」
初めて自ら他人に記憶の話を切り出して、心臓がドクドクと激しく脈打ち始める。
目の前の彼は、瞳をくゆりと揺らした。
「あ、ああもちろん。俺も、話してほしい」
彼のまっすぐなまなざしに「大丈夫だ」と言われているようで、ぐっと奥歯を噛み締める。あの震災の日に、優奈と避難所へ向かう最中に、「大丈夫」と彼女が何度も口にしてくれたことを思い出した。
大丈夫、大丈夫。
ゆっくりと深く息を吐いて吸う。この人はきっと私の話を真剣に聞いてくれるから。出会って間もないけれど、それだけは分かった。
「じゃあ話すね。私も瑠伊と同じで記憶障害なのは本当。でも、いわゆる普通の記憶障害とは全然違うものなの。本当に信じてもらえるか分からないけれど——」
私は瑠伊に、自分の記憶障害の症状について話した。
夜眠りについて朝目が覚めると、過去の一日の記憶が一つ、消えていること。
同時に、未来の記憶を見てしまうこと。
未来の記憶はこれから必ず起こることではなく、不確定で断片的なものだということ。
一度見た未来の記憶でも、その後の生活の中で実際に経験する未来もあれば、そうでない未来もあること。
およそ信じてもらえない話だとは思うけれど、瑠伊は最後まで黙って、私の言葉に耳を傾けてくれていた。
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