行方不知

チョコしぐれ

 

──俺がここに来て、もうすぐ一週間になる。

誰も近づかない、古ぼけた廃工場の一区画、管理番号B-205。

ここなら、警察の目を逃れられるはずだった。


錆びた鉄骨の隙間から差し込む午後の光は淡く、埃が舞う空気に溶けている。

機械の腐った油の匂いと、カビの湿った臭いが混じり合い、鼻を突く。

足元には散らかった鉄片とボロ布。ここでの生活は最低最悪だ。


部屋には電気は通っていない。懐中電灯の明かりだけが俺の世界を支配している。

時折、どこからか機械音が響き、風のざわめきと入り混じるが、誰のものか分からない。


ここにいるのは俺だけだと思っていた。


しかし──隣の区画、B-206から、夜になると生活音が聞こえてくる。

木が擦れる音、微かな話し声、時折かすかな咳。

気のせいだと思おうとしたが、俺の神経はすり減っている。


「誰かいるのか…?」


そんな疑念が頭を巡る。

俺は逃げている。誰にも見つかりたくない。

なのに、隣に“誰か”がいるのかもしれないなんて考えるだけで、背筋が凍った。


夜が更けると、工場はさらに静寂に包まれる。

外の街灯の明かりも届かず、真っ暗闇が支配する。


懐中電灯の光を頼りに、俺は床に散らばった新聞紙を丸めて灰皿代わりにし、タバコに火をつけた。

煙が鼻を刺激するけど、こんな状況じゃ気にしている暇もない。


「隣の声、また聞こえたか…」


耳を澄ますと、微かな生活音が壁の向こうから聞こえてくる。

ただの気のせいかもしれない。

誰かがここにいるなんて、あり得ない。


だが、それは理屈で押さえ込めるものじゃなかった。

何か、俺の知らない何かがそこにあった。


その音は、単なる風のざわめきや動物の足音とは違った。

人の気配、生活の痕跡が確かにそこにあったのだ。


懐中電灯の光を壁に向けて揺らす。

揺れる影が壁に踊る。

まるで俺の背後にも何かいるみたいに、冷たい視線を感じる。


「やめてくれ……俺はここで静かに暮らしたいだけなんだ」


そう呟くと、突然、隣の区画の壁の薄いパイプから、かすかに呼吸のような音が聞こえた。

それは明らかに、何か生きているものの息遣いだった。


俺は心臓がバクバク鳴るのを抑えられず、その場にへたり込んだ。

この工場にいるのは、俺だけじゃない。


その夜、俺は初めて録音機を取り出した。

音を記録して、真実を確かめるために。


録音機をセットしてから、俺は身を潜めて音を拾うのを待った。

懐中電灯の明かりを消して、耳を澄ます。


しばらくは、ただの風の音と工場の軋みだけが聞こえた。

だけど、午前2時を回った頃、異変が始まった。


機械音が突然止み、代わりに壁の向こうからかすかな声が録音機に入った。


「……おい、レン……」


俺の名前を呼ぶ低い、だるそうな男の声だ。


続けて、女のすすり泣くような声。


「ねえ、そこにいるの……?お願い、出てきて……」


誰だ、こんな時間に?声は近い。だが壁の向こうは空き区画のはず。


さらに録音は続く。


「……ここにいるの、わかってる。逃げても無駄よ……」


冷たく、冷酷な響き。確信を持って迫ってくるような声だった。


そして、録音の最後に、明瞭な音が入る。


ドンドンドン……


ドアを強く叩く音だ。


俺は全身が凍りついた。


「こんなところで……何をしている……?」


男の声が最後に囁く。


録音を再生し終わったあと、俺は顔を上げて隣の壁を見つめた。


そこには確かに“誰か”がいる。


録音機の再生ボタンを切ったあと、しばらく俺はその場に座り込んだ。

壁の向こうから聞こえた声は、もう単なる気のせいなんかじゃない。


「逃げても無駄よ」——この言葉が頭から離れなかった。


俺はこの廃工場に身を潜めている。警察から逃げている身だ。

それでも、こんな隣人がいるなら、もうどこにも逃げられないんじゃないかと思った。


その日から、俺の生活は一変した。


隣の区画B-206から聞こえる音は増えていった。

誰かが歩き回る音、壁を叩く音、時には低いうめき声や笑い声。

俺の神経は徐々に擦り減っていく。


夜中に寝ていると、壁の向こうから囁くような声が聞こえた。


「レン……レン……」


まるで名前を呼ばれているようで、目が覚める。


最初は無視していたが、だんだん声が大きくなり、言葉もはっきりしていく。


「出てきて……一緒に遊ぼう」


声の主は誰なのか、姿は見えない。

でも確実に“そこにいる”ことはわかっている。


俺は何度も引っ越そうと考えた。

でも、警察はすぐに俺を探し出す。

逃げる場所はここしかない。


日中は近くの公園やコンビニに行き、人目を避けながら最低限の生活をする。

けれど、夜になると必ず隣の声が聞こえる。


ある晩、ふと壁の隙間から隣の区画を覗こうとしたら、影がこちらを見ていた気がした。


俺は咄嗟に身を引っ込めたが、その目は今でも忘れられない。


“俺は、もう完全に監視されている。”


そう思った瞬間から、俺の心は壊れ始めた。


あの声がただの幻聴じゃないとわかっても、俺は完全に信じ切れなかった。

「本当に誰かいるのか?」それとも「俺の頭がおかしくなっているだけなのか?」


答えを出さなければ、このまま精神が崩れてしまいそうだった。


地域の図書館でこの廃工場の歴史を調べた。

過去にこの工場で事故や事件がなかったかを知りたかった。


資料の中で、ある古い新聞記事が目に止まった。


「管理番号206区画で不可解な失踪事件」


数年前、そこにいたはずの作業員が忽然と姿を消したという記事だった。

警察も手がかりを掴めず、行方不明のまま捜査は打ち切られたらしい。


もしかすると、その失踪者の影がまだこの場所に残っているのかもしれない。


俺はその夜、また録音機をセットした。

誰もいないはずの隣から、また声が聞こえるかもしれない。

でも、確かめなければならなかった。


この調査が、俺の運命をどう変えるのかも知らずに――。


翌晩、俺はいつものようにB-206区画に向けて録音機をセットした。

何か手がかりが欲しかった。


録音が始まってしばらくは、静かな工場の空気だけが流れていた。

しかし、午前1時を過ぎた頃、いつもの声とは違う、ざわめきが聞こえてきた。


「――ああ、レン……待っていたよ……」


それは、以前より明瞭で、かつ意味深な囁きだった。


録音機の音声を繰り返し聴くと、声の中にもう一つ、誰かの息遣いが混じっていることに気づいた。


「ここに来て……逃げられない……」


だが、その声は俺のものではなかった。

むしろ、自分が録音の中に“入り込まれて”いるような、そんな錯覚さえ覚えた。


録音が終わり、俺は震える手で再生ボタンを切った。


そして、その時、背後で微かな物音がした。


振り返ると、そこには誰もいない。


「…気のせいか?」


しかし、胸の奥に重くのしかかる違和感。

俺は次第に、自分が“何か”に取り込まれているような感覚に陥った。


数日後、体調は悪化し、夜になると悪夢にうなされるようになった。

夢の中で、俺はB-206区画の暗闇に囚われていた。


声は囁く。


「レン……逃げるな……」


そして気づけば、俺は壁の向こう側にいる自分を見ていた。


それは、俺じゃない“誰か”だった。


俺の存在が、静かに、じわじわと消え始めている——そんな恐怖に怯えながら、俺はさらに調査を続けるのだった。


録音と夢に翻弄されながらも、俺は隣の区画B-206の秘密を掘り下げることを止めなかった。

あの失踪事件の被害者は、一体どんな人物だったのか。


図書館やネット、地元の古老の話まで調べた結果、ひとつの共通点にたどり着いた。


失踪した作業員は「藤原圭一」。

数年前、工場閉鎖直前に消息を絶った男だ。

彼は、異常な孤立感と不安感に襲われていたらしい。


ある夜、藤原は「誰かに追われている」と言い残し、姿を消した。

地元の噂では、彼は“工場の闇”に呑み込まれたという。


俺は、自分と藤原の境遇に不気味な共通点を感じた。

逃げる身でありながら、逃げ場のない場所にいること。


ある晩、録音機に新たな音声が入った。


「レン……ようこそ、僕の部屋へ……」


その声は藤原のものだった。


「僕はここで『存在』を失いかけている。

誰にも見えず、誰にも知られず、ただ消えていく……

君も、もうすぐその仲間だ」


その時、壁の隙間から冷たい風が吹き込み、俺の身体を貫いた。


俺は悟った。


隣人の正体は、ここに囚われた“失われた存在”——

“行方不知”の者たちそのものだったのだ。


今の俺は――誰かの視界には映り、声は届く。

しかし、俺はどこにも「いない」。


俺の声は聞こえるが、触れられず、手に取ることもできず、風のようにすり抜けていく。


幽霊のようだが、死んだわけでもない。

俺はこの世界と、あの隣人の世界の狭間に囚われている。


逃げ続けた因果が、俺をこんな境地に追い込んだのだ。


そして――気づけば、俺は「行方不知」になっていた。


確かに存在はある。

だが誰にも掴めず、誰の記憶にも完全には残らない。


見えているのに触れられず、誰も知らない存在。

それが俺の、因果応報の末路だった――。





















「行方不知(ゆくえしらず)」

それは音もなく存在が消えていくこと。




警視庁捜査一課は先月、複数の容疑で指名手配されていた高野レン容疑者が、東京都内にある廃工場の一区画に潜伏していたとみられるが、その後所在が確認できず、現在行方不明となっていると発表した。


高野容疑者は数週間前からこの廃工場で身を潜めていたとされ、関係者によれば、外部との連絡は一切断っていたという。潜伏場所は工場の奥まった場所であり、錆びついた鉄骨や廃機械が散乱し、建物の劣化も激しいため、警察の捜索は困難を極めている。


近隣住民からは、「夜間に人影のようなものを見た」「レン容疑者と似た人物の声が聞こえたが、近づくと姿が消えた」といった複数の証言が寄せられている。しかし、これまでに具体的な映像や物理的な証拠は確認されておらず、真偽は不明だ。


警察関係者は、「容疑者は極めて危険な状態であることから、市民の安全確保に全力を注いでいる」と述べ、捜査一課では工場周辺の警戒を強化し、情報提供を呼びかけている。



高野容疑者の行方は未だ謎に包まれており、警察は引き続き関係者からの情報収集に努めている。


この事件は、誰かの視界には映り声が届くが、実態はどこにも存在しない「行方不知」という状態に陥った者の物語として、地域社会に深い不安をもたらしている。


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行方不知 チョコしぐれ @sigure_01

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