車窓の視線
青井空
もし願いが叶うなら、彼女に一目だけでもいいから会いたい。
ぼくは、いつものように高校に通う。――平凡な電車通学。あの時までは。
ぼくの町はこれといった特別な観光名所もなく、ところどころに田園が広がる長閑な場所だ。通う高校は普通電車で4駅離れた中高一貫校。中学までは成績も学年で10位に入っていた。けれど高校2年になってからは、いわゆる「落ちこぼれ」と言うのにふさわしい点数しか取れなくなった。将来の目標が蜃気楼のように、実体のないまま心に浮かぶだけになってしまったからだ。
親は上級官僚で、顔を合わせるたび偏差値の話題になる。それがぼくには虚しい会話でしかない。だから今日も、聞きたくもない英会話をイヤホンで流しながら、いつもの時間に、いつもの電車の手すりにもたれ、ガラス窓の向こうをぼんやり眺めていた。通学で使う普通電車は、通過待ちの快速を待つため発車まで時間がかかる。
そのときだった。向こう側のホームに立つ一人の女子高校生を、ぼくはいつの間にか見つめていた。髪をかき上げる仕草に、鼓動がドラムのように跳ねる。――いわゆる「一目惚れ」という感情なのだろうか。視線はもう、彼女にしか向かなくなっていた。とにかく、彼女の目が見たい。そう願って視線を注ぎ続けたが、無情にも電車は発車する。スピードが上がりホームが遠ざかるにつれ、言いようのない虚無感が胸に押し付けられた。
(もう出会うことも、彼女の姿を見ることもないのだろう)
ぼくはため息をこぼした。
学校の授業は退屈だ。頬杖をつき、黒板をぼんやり眺めながら、今朝の彼女を思い浮かべてしまう。黒髪は長く、顔立ちは整っていて、まさに美人だ。(どうせ、万が一声をかけても振られるんだろうな)と頭を机に伏せる。英語の先生がちらりとこちらを見ては、呆れ顔で見て見ぬふりをする。それも分かっているから、なおさら学校が退屈に思えた。
ぼくには、過去に好きでたまらない女性がいた。勇気を出して世間話や明日の天気の話をした。髪は艶やかに長く、笑顔がすてきで可愛らしい人。彼女にアプローチする男子が他にもいると小耳に挟んだが、短い時間でも話せるだけで、その日の学校生活がバラ色に変わった。
そして心の中に変化が生まれた。(舞ちゃんを、自分の彼女にしたい)と。たぶん、その頃のぼくには自信があったのだ。成績も順調に伸び、性格も明るく保つようにして男友達も増えた。だから告白に躊躇いはなかった。――必ず想いは届く、彼女はぼくの彼女になってくれる。心の底からそう確信していた。
ぼくは舞ちゃんに告白することを決めた。
「今日の放課後、桜田(舞)さんにどうしても伝えたいことがあるんだ。いいかな?」
「……はい」
その返事が小さかったことに、ぼくは気づいていなかった。放課後まで、自分の体が自分の意思で動いていないような錯覚を覚えた。頭の中では、これからのさまざまな妄想がふくらみ、雲にも昇るような心持ちになる。昨日からほとんど寝ないで考えた告白の言葉を、何度も心の中で反復した。
放課後。美しい彼女へと近づく。胸が熱い。いや、はち切れそうに痛い。両手の震えが止まらない。ぼくは一瞬目を閉じ、唾を飲み込んで心を落ち着かせた。
「今日は残ってくれて、ありがとう」
手を震わせながら言う。
「……はい」
「告白する前に、桜田さんに聞きたいことがあるんだけど。――いま、彼氏はいますか?」
「……」
彼女は、首を横に軽く振った。その瞬間、ぼくの胸は言いようのない幸福感でいっぱいになった。――今から思えば、ここでやめておけばよかったのに。
そして、彼女はこう言った。
「私は天野(達也)くんのこと、好きでもありません。だって、全然、私のタイプじゃないし。私は顔が良い人しか付き合いません。私が好きなのは、隣のクラスの佐藤くんですよ。ふふ……。もしかして、天野くん、勘違いしてたの? 私が天野くんのこと好きだって」
ぼくには、その先の記憶がない。時折、夢で思い出してはうなされる。目が覚めたときには、枕が涙で濡れている。その出来事は、過去のぼくに大きなショックと影を落とした。忘れたくても忘れられない過去に縛られている自分が嫌になる。
それからというもの、ぼくは軽い人間不信に陥った。世の中を斜めに見て、いつも冷めた感情しか抱けなくなった。そんな自分のはずなのに、なぜかあの眩しい女性の姿が脳裏から離れない。学食でご飯を食べているときも、家で夕飯を食べているときも、ずっと彼女の姿が浮かぶ。――いや、忘れたくないのかもしれない。片思いは切なく、時にはどん底に突き落とされると分かっていても、抑えがたい気持ちでいっぱいなのだ。
ぼくは人をこれから普通に愛せるのだろうか。不安な日々を、悶々とした心情のまま送っていた。
それでも、ぼくはまた、いつものように英会話を聴きながら、同じ車両に乗り、車窓から外をぼんやり眺めた。すると、昨日と同じ女性がホームに立っていた。凛とした面持ちで、すらりとしたスタイル。しかし、昨日より表情が暗いようにも見える。(今日はどうしたんだろう。嫌なことでもあったのかもしれない)いつしか、相手のことが気にかかっていた。
話しかけたい。けれど、今のぼくには女性と話す勇気も自信もない。陰から視線を送ることしかできない。おそらく、相手はぼくの存在すら知らないのだろう。もし気づいたら、もう二度と姿を見せないかもしれない。それが今日なのか、明日なのか、ぼくには分からない。――現実としては、車窓から彼女に視線を送る自嘲的な自分がいることだけが、はっきりしている。
そう思い巡らすうちに、電車はいつものように動き出した。けれど、ぼくの心の中は幸せで満たされていた。そうとしか言い表せなかった。
学校でも気分がよかった。普段はくだらないと感じる授業にも、自然と集中できるようになってきた。何と言えばいいのだろう。言葉にしづらいが、アドレナリンのようなものが分泌されている感覚――必死で生きている実感や喜びを、無意識に得たいのかもしれない。彼女に一目惚れしてから、砂場の凝り固まった山が一気に崩れていくような気持ちになった。いつの間にか、彼女への感謝まで芽生えていた。
家に帰り、明日も学校があるから眠ろうとする。けれど、もしかしたらまた彼女を見られるのでは……と胸が高鳴り、寝つきは悪い。それでも苦痛ではない。嫌な気分でもない。むしろ、期待と幸福感に心臓が包まれているようだった。
そして、いつものように目玉焼きとバタートーストを食べ、駅まで歩く。今日はいつもより澄み切った青空。菜の花畑の甘い香りが漂い、気持ちがいい。これまで意識もしなかった草花にも、興味が湧いてきた。心の中で何かが変わり始めている実感があった。
定刻どおり普通電車が到着する。希望の扉が開き、胸の高鳴りを抑えつつ、そっと向かいのホームへ視線を向けた。
(ん? い、いない……。いつもの彼女がいない。どうして……。まさか、ぼくの存在に気づいて、怖くなったのでは)
視界がぼんやり滲み、温かい液体が頬を伝う。下を向いて必死に堪えようとしても、堰を切ったように涙があふれた。横にいたお婆さんが心配そうに「お兄さん、大丈夫?」と声をかけてくれる。ぼくはかすれ声で「はい、大丈夫です」と返した。
そのとき、「現実」という名の衝撃が、心を切り裂いた。何度も(これでよかったんだ)と自分に言い聞かせる。車窓から降り注ぐ春の日差しが目に眩しい。日差しが悲しい涙を乾かしてくれた。――だが、それは「傷ついた」感情ではなかった。あのとき辛辣に振られたときの痛みではなく、寂しさと感謝が入り混じる、複雑な気持ちだった。
もし願いが叶うなら、彼女に一目だけでもいいから会いたい。そして「ありがとう」と伝えたい。以前のぼくなら、「早く童貞を捨てたい」「ファーストキスがしたい」――そんな欲望が心を支配していた。けれど今回は違った。親密になって抱き合いたいという欲望よりも、素直な気持ちで相手と向き合いたい。心の奥底から、強くそう思った。こんな気持ちは初めてだった。過去に現実として「振られた」痛みを経験したことが、契機になっているのかもしれない。さまざまな困難や挫折を越えて、少しだけ大人になれたのだろう。相手を思いやる気持ちが、以前より一歩成長したのかもしれない。
やがて、その出来事も良い思い出になりつつあった。それから1週間が過ぎ、ぼくは以前のように自暴自棄ではなくなっていた。学校生活でも、些細な楽しみを見つけて前向きに物事を捉えられるようになった。あの日の朝、彼女に片思いしたおかげで、ぼくの人生観は少し変わったのだ。
いつものように、朝の普通電車のドアが開く。今度はしっかりと車窓の外を見つめた。その瞬間、頭が真っ白になる。1週間前の女性が、明らかにこちらを向いてじっと見つめている。目をそらそうとしても、金縛りにあったかのように体が動かない。視線が、ばちっと合った。何か訝しげな表情――。
気づけば、体が動いていた。この電車に乗らなければ学校に遅れると分かっていた。けれどどうしても、彼女――あの女性に、まず謝りたかった。それから、お礼を伝えたかった。向こうの電車が来る前に、たった一言でもいいから気持ちを伝えたい。ぼくは必死で階段を駆け下り、また駆け上がり、向こう側のホームへ。
周りを見渡す。――いない。電車が到着し、ゆっくり発車していく。その窓の向こうに、こちらを見つめる美しい女性の姿があった。声は届かないと思った。けれど、ぼくは大きな声でその人に向かって、何度も叫んだ。
「すみませんでした!」
次の瞬間、(もう終わったんだ)と目を閉じ、諦めた。だが、悔いはなかった。大声で叫べてよかった。ぼくの顔に涙はなく、ほんのりとした笑顔が浮かんでいた。
翌朝、いつものように朝ごはんを食べ、駅までの20分の道を歩いた。
5月も終わりごろで、少し暑さを感じる。今日も晴天で、ときおり吹く風が心地よい。
アスファルトの裂け目から、小さな黄色い花が咲いていた。そんな花を見ていると、ぼくの心は和んだ。駅に着き、ふと空を見上げようとしたとき、ぼくの体が硬直する。
――目の前に、ずっと憧れ続けていた女性がいる。いま、ぼくの目の前に。
思わず口が開いたまま、呆然と立ち尽くした。
そして、目の前の女性が、ぼくの目を見つめながら強い口調で言う。
「あの、最近、向かい側のホームで私のことをじろじろ見るのは、やめてください」
ぼくの頭は真っ白になり、事実を受け入れるのに時間がかかった。だけど、最初の言葉は無意識にこぼれる。
「ありがとう……」
「……」
美しいその人は、明らかに困惑した表情を浮かべていた。ぼくはふと我に返る。焦点の合わなかった景色が、急にはっきりとした輪郭を取り戻す。
「すみません。ぼくは、あなたのことを電車の窓からずっと見ていました。気分を悪くされたのなら、もう二度と、そのようなことはいたしません」
自分でも何を言っているのか分からないくらい、緊張した声だった。女性は目を横にそらし、軽く会釈をして、ぼくの前から立ち去った。
――もう、これで最後だと思った。だけど、あのすてきな人に嫌われたはずなのに、なぜだか心は澄み切っていた。
実は過去、桜田さんに振られたとき、それまで好きでたまらなかった感情は、一瞬にして激しい憎悪に変わった。あの日から、女性を蔑視することで、憎しみの感情を抑え込んでいた。自分でも制御できないほどの苛立ちのマグマが、胸の奥で噴き上がっていたのだ。
だが、その感情は、小さな自己愛を守ろうとするエゴでしかなかった。今回、片思いだったけれど、真剣に人を愛してみたことで、かけがえのない大切なものを見つけられたのだ。自分のプライドではなく、相手への真剣な想いによって、憎しみという感情は、ぼくの心から消えていった。
そして、いつの間にか、ぼくの表情はおおらかになっていた。
次の朝、自分の運命を変える出来事が起こった。あの女性が、ぼくに話しかけてきたのだ。
「あの、すみません」
「……」
ぼくは唖然として、声が出なかった。
「実は私、あなたのことを……その……いつも、あなたが駅まで歩いている後ろを、少し離れて、こっそり見ていました」
「えっ、ぼくも、あなたのことをずっと見ていました。でも、昨日は迷惑だって……」
「すみません。本当は、とても嬉しかったんです。つい恥ずかしくなって……。私、転校を繰り返していて、友達がいないんです。だから……」
天にも昇るような幸福に、頭がくらくらする。
「本当に? 夢みたいだ。こんなぼくでよければ、友達になってくれる? いや――友達になってください」
「そんなふうに男の人に言われたのは初めてです。でも……」
「でも、何?」
「あの、私、あと1週間でこの町から引っ越しをします。せっかく、あなたとお友達になれたのに……。すみません」
「謝らないで。そんなことないよ。これから1週間もあるんだから。あっ、あなたの名前を教えてください」
「私の名前は安達 由紀子です」
「ぼくは天野 達也。よく“たっちゃん”って呼ばれています。由紀子だから、“ゆきちゃん”って呼んでもいい?」
「はい。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく」
――もう、二人はすれ違うことのない友達になっていた。
「あっ、学校に遅れちゃいますよ」
由紀子は、ぺろっと舌を出して笑顔で言った。
「ほんとだ、やばい。じゃあ、明日また、この場所で。よかったら30分早く来て、おしゃべりしよう」
「はい。30分早く家を出ます」
二人は手を振り、別々の階段を駆け上がった。ホームで向かい合い、満面の笑顔で見つめ合う。
それは、暖かい陽気に包まれた、すてきな出来事だった。
それから二人は、朝は少し早く来て、楽しくおしゃべりをした。携帯番号とメールアドレス、引っ越し先の住所は、1週間後の月曜日に交換する約束をした。
ぼくは朝だけじゃ満足できず、学校が終わると誰よりも早く下校して、駅のベンチで、彼女が帰ってくるのをひたすら待った。彼女もまた、学校が終わると早足で駅へ向かった。話題は取りとめのないことばかりだったけれど、楽しくて仕方がない時間だった。
そして、運命の月曜日がやってきた。由紀子は翌朝に引っ越しを始める。
けれど、由紀子は悲しさのあまり、学校から家へ脇目も振らずに帰ってしまった。本当は、駅で達也に引っ越し先の住所を書いた手紙を渡すつもりだった。けれど、別れが耐えられず、会わずに逃げるように帰宅したのだ。
――そうとも知らず、達也は夕日が沈んでも、ひたすらゆきちゃんを待った。時計は9時を過ぎ、10時に差しかかる。駅員に声をかけられたが、なんとかごまかし、願うように待ち続ける。
そのとき。こちらへ向かって、一人の女性が走ってくる。――ゆきちゃんだ。
二人は抱きしめ合った。お互いに涙を流し、もう言葉はいらない。駅の階段を降り、少し離れた人通りの少ない場所で、抱きしめ合いながら、熱いキスを交わした。何度も何度も。
そして、ぼくはゆきちゃんから一通の手紙を受け取った。
『私は明日、新しい場所に引っ越しをします。だけど、気持ちはどこにいても一緒です。もしよかったら、文通してもらえませんか。ここに私の新しい住所を書きます。これからも、よろしくお願いします』
そう、ゆきちゃんの手紙には綴られていた。ぼくも、彼女に手紙を渡す。
『たとえ遠く離れていても、気持ちは一緒です。天野達也は、安達由紀子さんを心から愛しています。よかったら、メル友ではなく手紙を交換しましょう。自分なりに、素直な気持ちで書きます。そして、いつの日にか、由紀子さんと結婚したいです。これからも、よろしくお願いします」
お互いの手紙を読み合い、そして、また深いキスを交わした。
今、現在、ぼくのそばには彼女――安達 由紀子がいる。長い月日を経て、彼女と結婚することができたのだ。
ぼくが「誕生日プレゼントは何が欲しい?」と聞くと、由紀子は決まって、こう答える。
「今まで私に送ってくれた手紙が、私の宝物です」
もちろん、ぼくも決まって、こう答える。
「ぼくも同じ。由紀子からもらった手紙が、一番の宝物。
それと――こうして、いつもぼくに笑顔をくれる由紀子がいるだけで、今まで生きてきてよかった。
本当に感謝しています。ありがとう、お互い年を取って白髪姿になっても、由紀子……あのときから、今も変わらず心から愛している。愛しているよ」
車窓の視線 青井空 @aoisorakirei
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