第2話 三号、襲来

  商店街を歩く村人たちが緊急避難警報を耳にして足を止めた。


「……なんだ、いったい?」


「……避難訓練の警報か? たしか今日の訓練は緊急避難警報を使うと言っていたが……」


「いや、避難訓練は五時半のはずだぞ……」


 村人たちはこの警報が一体何なのか近くにいた者たちと確認し合った。緊急避難警報をしっかりと聞くために、家の窓を開けたり、外に出たりする者たちも現れた。

 村人たちは、これが本物の警報なのかわからなかった。かつて役場が誤って緊急避難警報を流してしまったことがあったため、村人たちには判断が難しかった。


 十分が経過した。


 一部の人間たちが行動に移し始めた。たとえ誤報であろうと何だろうと念の為に避難所へ行く方が良いだろうと考えた。彼らの中には役場や警察から的確な指示が出るまで待機しているべきではないかと考える者たちもいた。勝手な判断が却って事態を重くする可能性を考慮した心配性の人間たちがこの手の選択肢を取った。

 さらに五分経つと役場も警察も情報が錯綜して対処に窮しているという噂が村中に知れ渡った。村人たちの不安は募っていく一方であった。




 午後四時十五分。


 商店街の電柱に首輪の紐をくくりつけられた柴犬が突然空に向かって吠え出した。威嚇の遠吠えには恐怖の色が滲んでおり、震える脚で右往左往しながら、飼い主の助けを待っている。


 飛翔する大きな黒い影が翼を広げて高度を落とし始めた。異常な速度で急降下して来るそれは、声高に鳴き続ける柴犬を狙って後ろ脚を前に伸ばした。


 犬は吠えた。逃れられない恐怖を飼い主に訴えて、懸命に吠え続けた。黒い生物は大きな翼の羽ばたきがもたらす烈風で商店街のシャッターを激しく振動させて、地面すれすれに滑空し、急接近した。黒い生物の大きな後ろ脚が犬の胴体を捉えた瞬間、か細い悲鳴をあげて遠くへと連れ去られた。


 とてつもない猛風があたりを通り過ぎ、小さな三輪車や植木鉢などがさまざまなものが勢いよく吹き飛ばされた。精肉店の入り口のガラスが飛んできた植木鉢によって破壊され、店内で買い物をしていた柴犬の飼い主の女が飛散したガラス片に驚いて悲鳴をあげた。


 飼い主は精肉店から外へ出た。店の前はまるで台風の通り過ぎた後のように、さまざまな物が散乱している。強風の余韻で近辺のシャッターはいまもなお震えている。電柱にくくりつけていたはずの飼い犬はそこにはいない。


 異様な光景を目の当たりにした女は、怯えながらゆっくりとあたりをうろつき、姿を消した飼い犬を探した。


 甲高い悲鳴が遠くから聞こえてきた。後ろを振り向くと、茜色に染まりつつある空を背に宙を舞う、上半身の千切れた犬の黒い影が遠くにあった。犬はもはや鳴き声を出さず、数滴の血を空に残して、商店街の向こう側の水田に身を投げた。


 愛犬の陰惨な死を目の当たりにした時、飼い主の女は、一連の出来事の原因を村人たちの最も恐れている生物に当てはめた。戦慄を覚える想像をした次の瞬間、女の背後に風を切る音が聞こえ、振り返ったその時、黒い生物の強靭な前脚が彼女の胴を捕まえた。





「避難訓練じゃない……!」


 ミコトは東屋のある駐車場近辺の道路にバイクを急停止させた。丘を降りる道中、異様な物体が空を舞うのが目に入った彼女は、バイクを降りるや否や、ヘルメットを外して東屋を通り過ぎ、崖の手前にかけられた手すりの前まで走って、村の様子を確認した。


 商店街から夕陽を受けて黒くかげる生物が空に向かって高く飛翔した。高度を上げながら商店街の上空を旋回して、その勢いを借りて後脚で捕らえたものを広々とした水田に目掛けて投げ飛ばした。投げられた物体が細長い四肢を持っているのを見て、それが人間であることをミコトは理解した。


 水田の近くをうろついていた村人たちは、突然水面から高い水飛沫が生じたのに驚いた。水田に広がる漣の中央に横たわるものを見に恐る恐る近づいていき、肉体を複雑に変形させた遺体を認めた時、彼らは理解が追いつかずに呆然とたたずんだ。


 ミコトは村の上空を舞う黒い生物と、水田地帯で右往左往する村人たちとを見比べた。


「……まずいぞ、みんなまだ気づいていない‼」


 新たに商店街から捕らえられた人間が先ほどの犠牲者と同じように空高くから投げ飛ばされるのを彼女は見た。放物線を描いて空高く放り出された男は、水田に投げ捨てられた遺体を囲う村人の一人の上に墜死した。ふたつの肉体が四散し、肉片や血飛沫のほとばしりを身に受けて、村人たちはようやく上空を旋回する生物の存在に気がついた。


 陰惨な光景を目の当たりにしたミコトは、一瞬イツキの顔が思い浮かんだ。


 そのとき、一つの想念が彼女の内部に強烈な印象をともなって発現した。ミコトの魂に秘された精神の宿痾しゅくあが意識の表面に浮上した瞬間であった。


『救わねばならない』


 彼女はバイクに向かって駆けた。クラッチレバーを握り、チェンジペダルを押し下げ、アクセルを回した。夕陽の光を辷らせた黒いバイクは、幼馴染の恋人を救うために奔馬のように駆けた。


 午後四時十五分。鹿山村に新型生命体・第三号が出現した。







 イツキの捨てたキャリーバッグを横目に村人たちは避難所を目指した。

 

とにかく命が惜しかった。死ではないものの方へとひたすら進んだ。例え親しい者が隣で倒れても彼らは助けようとはしなかった。村人たちを蹴っても踏みしだいても何の罪悪感も湧かなかった。


 イツキは小さな身体をとにかく前へ前へと進めた。視界の端で千切られた人間の左腕が宙を舞うのを見ても、吐き気を覚えて涙ぐみ、嗚咽を漏らしそうになっても、彼女はとにかく走り続けた。


 村人の叫び声が背後から聞こえて来るたび、振り返って一瞥いちべつすると、獲物を見つけ次第急降下して人間を空へ連れ去る三号の姿があった。親しい者たちが次々と投擲され地面に叩きつけられて、見るに堪えないむごたらしい姿に変わり果てた。


 走りながら後方を何度も振り返っていたイツキは、新たに投げ捨てられた物体を見て驚愕した。夕陽に翳る黒い金属は軋んだ音を立てて村人たちの頭上に降って来た。


「く、車っ‼ 車が飛んで来る‼ みんな逃げて‼」


 イツキは叫んだ。だが彼女の声は冷静さを欠いた者たちの耳に届かない。


 イツキは道を外れて広い空き地の草むらの方へそれた。空から半分に千切れた小型自動車が投石のように降って来る。鉄塊に踏みつぶされた瞬間、逃げ惑う犠牲者の悲鳴が途切れたのを耳にし、イツキは身の毛がよだつのを覚えた。


 三号が地上に降り立った。


 筋骨隆々なこうもりを思わせるその風貌は、黒い眼球を忙しなく動かし、大きな耳を翼のように機敏に羽ばたかせている。身体を覆う黒い体毛は夕陽を受けて毛先を金色に逆立てている。


 三号が足をつけたあたりにはおびただしい数の死体が横たわっていた。道端の小さな祠は砕け散り、鎮守の杜の木々までもが、投げ捨てられた廃工場の機械によってなぎ倒されている。


 三号の忙しない視線の動きが止まった。一人の男が半壊した自動車に片脚を潰され、激痛のために大量の涙を流しながら、うつ伏せで這いつくばってそこから出ようともがいていた。恋人の女が男の手を掴んで助けようと躍起になっていた。彼女が全体重をかけて恋人の腕を引っ張るも、身体の使い方も下手であったために尻餅をついた。


 男の前に三号が近づいてくる。三号は右手の甲から鎌のような鋭利な刃を出し、光の粒を怪しくすべらせた。


「お、俺に構うな……‼ 早く……早く逃げろ‼」


 男が叫んだ。恋人は恐怖に耐えきれず、一目散にその場から逃げ出した。男は勇気を持って自分から相手を催促したが、恋人に見捨てられた現実に絶望した。


 三号が鎌を振り上げる。男は両手で頭部を覆う。恋人の耳が不快な音を拾う。走る彼女が振り返ると、両腕ごと頭頂部を真っ二つに斬り下ろされた、無惨な男の姿があった。女は悲しまなかった。代わりに沸き起こったのは、自分が助かりたいばかりに罪悪感が生まれないという達観の苦しみに女は襲われた。


 村人たちは南の川を目指した。山に囲まれた盆地であるこの村は、唯一南側に山を持たなかった。その川を越えた先にある街には、新型生命体に対処できる新型生命体対策本部が派遣する隊員たちの駐屯所があった。鹿山村が指定していた避難場所はその街にあった。


 川に架けられた橋の幅が狭い。橋は高さ十メートルを超える岸のあいだに架けられており、簡素な木で出来ていた。村人たちが全力疾走で駆け抜けるため、やや老朽化した橋がたわんで激しく揺れた。それがきっかけでつまずく者が現れ、彼を起こそうとすると後ろからやってくる人たちにぶつかり、橋がごった返しになっていた。


 イツキが橋の手前までやって来た時には、彼女が通れる隙間がまったくなかった。橋の入り口に人だかりが出来ており、イツキは焦燥感に襲われた。


 彼女は再び背後を顧みると、第三号がもう一度空に舞い上がっていくのが見えた。三号は橋とは正反対の方角へと飛んでいき、その先にある電話交換所の鉄塔の上空を旋回した。


 その一部始終を目にしたイツキは、橋を渡ろうとする者たちに大声で警告を発した。


「こ……ここにいちゃダメ‼ 三号が、三号がまた何か──‼」


 イツキの声は、後ろから走って来た男が彼女にぶつかったためにかき消されてしまった。もう間に合わないと悟ったイツキは、這いつくばりながらその場から急いで離れた。村人たちの一部は彼女の警告に気付き、三号の姿を目にしてすぐに、橋から離れて逃げていった。


 三号の前腕によって抉り取られた電話交換所の鉄塔の鉄骨が、橋の上で立ち往生する人間の上に投じられた。村人たちは長さ八メートルにも及ぶ鉄塊に押しつぶされ、崩れた橋は川底へ落ちて大きな水柱を築き上げた。


 行く先をなくしたイツキは再び走り出した。息が切れ、脚元がふらつき、つんのめって地面に倒れた。


「はぁ……はぁ……っ‼」


 息も絶え絶えになり、額から大きな汗の粒がコンクリートの道に黒い影を落とした。立ち上がってもう一度脚を動かそうとしても、左足が痙攣して動かない。酸っぱい唾が口内を満たす。逃げ出したくても身体が言うことを聞かず、焦燥感が募るばかりだった。


 聞き覚えのあるエンジン音が聞こえてきたのはその時である。背後を振り向いた彼女の視界に入ったのは、バイクに跨ってやって来たミコトの姿である。


「ミコト……!」


 バイクを急停止させてヘルメットのシールドを上げる。


「乗れ!」


 ミコトに手を引かれて後ろに乗ってイツキは彼女の腹部に手を回した。


「は、橋が壊れたの……! もうここから川を越えられない……! どうしよう……⁉」


「なら旧道を行く! 遠回りになるけれど、山道のトンネルを潜れば三号から撒けるかもしれない! 行くぞ‼」


 ミコトが即決するや否や、黒いバイクは二人を乗せて急いで走り出した。

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