天人五衰の預言者

@teratera96

第一章

第1話 出現

 東暦二〇二五年初春。


 西陽を受けた墓石の縁が後光のようにきらめいた。


鹿杜ししもり家』と刻まれた墓石の前に色とりどりの献花が添えられている。暖かい風が吹くたびに桜の花びらが墓石の上に舞い降りた。小高い丘の上の墓地は森閑とした静けさに満ちている。


 鹿杜ししもりミコトは墓石の前で合掌を終えた。彼女は爽やかな声で亡くなった両親に近況を語り始めた。


「義父さん、母さん、今日イツキが帰って来るんだ。墓参りにも来てくれるってさ。先週、第三号が首都に現れて大変だったって言うのに……ほんとに良い子だね」


 この一年間、この国の人間たちは、公的機関が呼称する『新型生命体』という謎の生物に脅かされていた。人間のいる場所に突如現れるこの異形の生物は、いまだに詳しい生態も、人間を襲う理由も解明されていなかった。


 一週間前、新たに出現した新型生命体・第三号によって亡くなった人の数は一五六人に上った。ここ連日、第三号の惨劇を伝えるニュースが報道されており、インターネットでも一般人が撮影した現場跡の動画や写真などが拡散されていた。住宅の屋根の上に転がる下半身を失った男性の遺体や生気を失った蒼白い肌の死体、道路一面におびただしく広がる、悲惨な死に方をした者たちの血痕──。


 ミコトの義父も一年前に第一号に同じように襲われて死んだ。ミコトと母親は奇跡的にその惨劇から逃れることができたが、皮肉なことに母はその数ヶ月後に交通事故というありふれた死に方をした。


 こうして天涯孤独の身となったミコトは今年の春で二十歳を迎えた。


「いま特別警戒体制が発令されていてさ、交通網が半分死んでいるんだ。そんな中でさ、深夜バスやら徒歩やらタクシーやら……とにかく使えるものを片っ端から使ってこっちに来るんだってさ……。あの子、大学の友だちから、大人しそうな女の子だって思われているらしいよ。あははっ、まっさか! あの可愛い見た目に反する行動力をみんな知らないんだからさ! あの子ったら……私のためなら本当にどこまでも頑張ってくれる。……そんな子と一緒にいれるだなんて素敵なことだと思わないか?」


 同性愛者のミコトは、幼馴染の恋人について語るとき、いつも幸福そうな顔をした。つやのある黒いショートヘアが、春の涼しげな風に揺れ、左眼の泣きぼくろのあたりを緩やかにかすめている。黒いスキニーパンツを履き、青いデニムジャケットを羽織る立ち姿は青年のように凛々しい。


 ポケットのスマートフォンが振動した。イツキからメッセージが来たのだ。


「イツキ、もう町に着いたってさ。あの子を迎えに行くとするよ。じゃっ、またあとでね」


 ミコトは立ち上がり、踵を返して、墓地の出口から苔むした石段を降りた。


 背の高い木々に覆われた夕方の石段は薄暗い。石段の両端には小さな石祠が列を成して配置されている。木の葉に光の輪郭を与える午後の陽光は、木々の幹をかすめてミコトの柔らかな頬を金色に彩った


 出口に着くと色褪せた鳥居が現れる。それをくぐって高台まで歩いていくと、そこから鹿山しかやま村を見下ろせた。ミコトはイツキがいると思われる駅のほうを見た。


 その時突如ミコトの身体に不可解な現象が起こった。 


「……っ⁉」


 頭部の奥から背骨に向けて奇妙な激痛が駆け抜けた。視界は霞み、身体はよろめき、皮膚の内側がわずかに膨らんだような感覚が起こった。


 腹の底から沸き起こる不快感に耐えるため奥歯を強く噛み、息を整えようと木製の手すりに手をかけた。敏感になったミコトの全神経は彼女自身に何かしらの警告を発していた。その最中、彼女は遠方の山々から無数の烏の羽ばたきが一斉に聞こえてきた。


 顔を上げると、向こう側の小さな山の尾根から鴉たちが鳴き声を上げながら飛翔する異様な光景が目に入った。鴉たちの大群が山から飛び上がるために、まるで山が不気味に蠢く一体の生き物のように見えた。空は瞬く間に何百羽もの鴉に覆われた。


「カラスたちが……怯えているのか……?」


 彼女の胸は不安でざわめいた。説明のつかない痛みが心臓に起こる。


 ミコトの奇妙な胸騒ぎを他所に、村役場から村内放送が流れてきた。


『新型生命体・第三号に対する特別警戒態勢に伴い、予定どおり、本日の午後五時半より鹿山村にて避難訓練を行います。住民の皆さま、何卒ご協力のほど宜しくお願い申し上げます』





 鹿山村駅構内にいたイツキにも村内放送の音声が聞こえてきた。


「避難訓練……。ミコトも昨日メッセージで言っていた」


 ベンチに腰掛けていたイツキは、駅の窓を開けて、身を外へ乗り出し、繰り返される村内放送に耳を傾ける。スマートフォンのメッセージ機能を開いて、先日のミコトとのやり取りを見直し、避難訓練の情報を再確認した。


「緊急避難警報を使った現実のシチュエーションに近い訓練、か……」


 そう呟きながら画面の時刻を確認する。


「もうすぐ四時ね。訓練は五時半。それまでにお墓参りを済ませておかなくちゃ……」


 駅の木製の扉を開く音がし、イツキがそちらを振り向くと二人の中年の女たちが入ってくるのが見えた。彼女たちはイツキを見つけるなり、巫部かんなぎさん巫部さん、と心配そうな顔をして足早に彼女のもとへやって来た。


「巫部さん、村に帰って来たのかい? 首都に第三号が現れたんだろう? 大丈夫なのかい?」


「たくさんの人が亡くなったんだって? 大学はお休みになったの?」


「お久しぶりです」


 イツキは立ち上がってから礼儀正しく背を伸ばし、ゆっくりと頭を下げた。


「第三号が現れたのはわたしの通う大学とはまったく違う区域だったので、ほら、このとおり大丈夫ですよ」


 小柄な体格を包む縹色のワンピースの上にクリーム色のカーディガンを羽織り、細い茶色のベルトを巻きつけ、真っ白に磨き上げられたスニーカーを履いている。こうしたつい先日手に入れたばかりの生地の良い服装や、ワンピースの裾から覗かれる艶の良い白い脚を女たちに見せることで、世話好きな女たちの不安を多少和らげた。


「しかし巫部さん、特別警戒態勢が出ている中、わざわざ鹿杜さんの家のお墓参りに来たってことかい?」


「鹿杜さんから来るなって言われなかったの?」


「ふふ、言われましたよ。大人しく首都のアパートで自宅待機をしていたほうが絶対良いって。でも来ちゃいましたけどね。昨日、電話越しでミコトに怒られちゃいましたよ」


 イツキは決まりが悪そうに苦笑する。


「でも実際に来てしまえばこっちのもんですよ。怒られちゃうだろうけど、来ちゃったものはしょうがないって、ミコトも諦めてくれますよ。それに──」


 と、口にしたイツキの声音に神妙な静けさが含まれた。


「あの子はわたしのことを心配していますけど……わたしはわたしで、ミコトのことが心配ですから……」


 ミコトの話題が上がった瞬間、女たちの顔が青ざめた。半年前にミコトの身に起きた悲惨な事件が自分たちの身にも振りかかるかもしれないという恐怖は、いまだにこの村の人間たちの中に残っていた。


「みなさんも覚えているでしょう? ミコトが半年前に行方不明になって……。三ヶ月経ってからようやく発見されたのが、人も入らないような深い森の中で……。しかもかなりの重傷だった。警察の人たちは、ミコトが新型生命体に襲われた可能性があるって言っていますし……。あれだけの大怪我だったんです。もしかしたら後遺症が遺っていても不思議ではありませんから……ね?」


 会話を済ませた後、イツキは女たちに挨拶をし、キャリーバッグを引きずって駅を後にした。長い黒髪を揺らしながら遠ざかっていく彼女の後ろ姿を、女たちは不憫そうに見つめてため息を吐いた。


「しかし、巫部さんも鹿杜さんも大変だねぇ……」


「巫部さん、大学を出たあとは鹿杜さんと結婚するつもりらしいよ。ここ数年でようやく同性婚も認められたからさ。でも鹿杜さんは自分には学歴がないから巫部さんと一緒になっていいものかって、ずっと悩んでいるみたいよ。ほら、鹿杜さんのご家庭、経済状況が良ろしくなかったじゃない? 十五歳から仕事を始めていたし。それにひきかえ、巫部さんは首都の最難関大学に通うような子だからさ……」


「確かにねぇ……。まったく、いまの時代はとにかく若い子たちに都合の悪い世の中だね。格差も酷いし、この前だってとんでもない大地震があったし。おまけに新型生命体の出現ときた……。世も末さね」


「前の三号出現のときも新生部しんせいぶが仕留められずに逃したそうじゃない。……巫部さんの家には申し訳ないけど、天人五衰てんにんごすいの預言者なんてやっぱりあるわけないさ。天の御中てんのみなか理もこの世にあるわけないよ。まぁ、あって欲しいとは思うけど、ね……」







「天人五衰の預言者、か……」


 土手の上の長い道を歩くイツキの呟きから、畏怖の念が引き起こす戦慄の吐息がかすかに漏れた。


 天の御中とは、この国に古来より広く知られている宗教である。その宗教の内容を平たく言えば、迷える人々を悟りに導くためのものである。


 人々の救いを謳う教義があることは、この国の誰もが知っていて、最も親しみのある宗教ではあるが、その難解かつ複雑極まる教えのために、その真髄を理解するものは少ない。


 イツキは、鹿山村の一画に構えた、天の御中を祭神とする由緒正しき神社の娘であった。そうした環境下で育った彼女は、天の御中に関する豊富な知識を持っていた。


 しかし、詳しく知っているが故の精神的な弊害もあった。天の御中の伝承の中に、先刻の世話好きの女たちとの会話で話題に上がった半年前のミコトの行方不明事件と奇妙な関連性を有していたものがあった。


「《八百万やおよろずの神々、天人五衰の預言者を異界へ隠し、天の御中の理に導く》……」


《異界へ隠す》


 言葉にした途端、視界に映るすべての物質が異常に鮮明になる感覚がイツキの内部に生じた。畏怖の存在を想起する際に生じる宗教感覚が彼女をたちまち竦然しょうぜんとさせる。


 気を紛らわして顔を上げると、非常に静かであるが故に、川のせせらぎの音や微風にさやぐ枝葉の音が逆説的に強調される空間が出現した。


 広がる水田、村を囲う山々、廃墟と化した無人の電話交換所、遠くに見える寂れた商店街、そして、広い水田の中にひっそりとたたずむ鎮守ちんじゅもり。閑静な空間の中に全ての物質が輪郭を際立たせて現象するあの感覚。


(半年前、突然行方不明となって、数ヶ月後にようやく山奥で発見されたミコト……。天人五衰の預言者を異界へ隠すという神隠しの伝承……)


 イツキの頭の中に、微笑みかけてこちらを振り向く、十四才の頃のミコトの浴衣姿が現れる。


(六年前のお祭りの日、あの時もあの子は、突然わたしの前から姿を消した……)


 鹿杜ミコトという女と天の御中の伝承。巫部イツキにとってこの二つの存在が、彼女の人生経験における天の御中の証明のように思えることが多々あった。


 それだけでなく、ミコトにはもう一つ秘密があった。それはイツキを含めた一部の人間にしか知られていない、とある奇妙な秘密であった。


(ミコトはほんとうに何者なんだろう……?)


 その時、数百羽にも及ぶ鴉たちの唐突な鳴き声が再び鹿山村の上空で鳴り響いた。先ほどの鹿山村を囲う山々から飛び立った鴉たちではない。さらに遠方の森からやって来た鴉であり、すべての個体が一斉に南へ向かって飛行しているのである。


「……さ、さっきから何? いくらなんでも鴉たちが多すぎる」


 驚いて顔を上げるイツキの側で、川面を叩いて暴れまわる鯉の大群が一様に川下に向かって進み始めた。川下の方角は南である。


 困惑するイツキの肩を今度は二羽の雀が擦過して飛び去った。小さな悲鳴を上げた彼女は、二羽の小鳥の遠ざかる後ろ姿を呆然と見つめた。またしても南の方角である。


(……みんな、何かから逃げているの?)


 それに気がついた時である。

 




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