「天理」というよりも「人の和(輪)」を大切に? V.1.1

@MasatoHiraguri

第1話 第0話 天理教とは「日本製仏教」か

  親神様(おやがみさま)のことを語った「中山みき」という実在の日本人女性が生前語ったことが、キリスト教における聖書・イスラム教のコーラン(教団の玄義・教義)に相当する天理教。

  しかし、キリスト教やイスラム教のように「神の教えを厳格・忠実に守れ」ということよりも「人間同士が陽気に・仲良くすることを大切にする」ことをその教義の原点にしているようです。

  今回2025年08月03日(日)、天理教本部で行われた「こどもおじばがえり・マーチングバンド・フェスティバル」、まるで昔の村祭りのように素朴な心で炎天下の一日、老若男女全員参加で楽しんでいる様にそれを見たような気がしました。

 

 「嘘も方便」の仏教とは、まさに「人間の宗教」ではありますが、そおういう「人間臭さ」とはインドから中国までの仏教伝来以降、最後の朝鮮を経由する時に味付けされ・俗物化されたものではなかったか。

  今回の天理教イベントに私は、そんな「変な人間臭さ」ではない、在来種純粋日本人(縄文人)的人の和を感じたのです。


第1話「在来種純粋日本人」感覚を思い出させてくれた


  7月末から8月3日まで、約一週間に亘って繰り広げられる「こどもおじばがえり」という行事の最後に行われる子供マーチングバンド(全国の教区から42チームが参加)。今回私はこれだけを、約一時間半観覧させて戴いただけでしたが、昨今の日本に蔓延する外来種在日韓国人体質にはない、在来種純粋日本人(縄文人)的な雰囲気を味わうことができました。


○ 各チーム、約100メートルの行進、わずか3分間のパフォーマンスのために、1年間かけて手作りの衣装を準備し、笛や太鼓や携帯オルガン、バトン操作を練習してきた。衣装も楽器も素朴でケバケバしさがない。

  行進する人間の(心から楽しんでいる)精神に価値があるのであって、演奏技術や派手な衣装やパフォーマンスを見せるものではない。


○ それらの技倆を競う・勝つということよりも、子供も大人も全員(何らかの役割で)参加する一体感を楽しむ。

  大体からして、優勝も一等賞も景品・賞品もない、自分たちみんなで盛り上げて楽しむ、という競技会。ただただ、各人自分に与えられた役割を忠実に全うすることに喜びを見いだしているかのようだ。

  また、この行事自体は高校野球のように全国的に配信されるわけでもない。自分たち天理教以外の一般人が新聞やテレビで見て話題になるということもない。


○ その意味では、カネにも一般的な社会的名誉にもならない行事に、子供たちは一生懸命になり、道路整備や観客席・審査員席の設営、100個規模の大きな花壇の植え替え等、天理教本部のスタッフ数百人規模の人間もまた一生懸命になって汗水流す。


  それはまさに、私にとって、昔(60~50年前)日本全国どこでも見られた村祭りや町内会の盆踊りのような、(作り物でない)素朴で・純粋な在来種純粋日本人の心を見たかのようでした。


  今回の「こどもおじばがえり」に関しては、天理市内でも、ポスターやお知らせなど、見たことがない。だから、天理教関係者や、私のようにたまたま図書館へ行く時に通る道で見た観客席の設営といった「異変」でそれを知った人くらいしか、このイベントには来ていない。

  観客席の鉄骨が組まれ出したのは6月末から、沿道に並ぶ100近くの花壇(大きなコンクリート製の鉢)の花が植え替えられたのも、ここ2週間(天理高校二部の生徒さんたちが夏休み前、総出でやられていたようです)で。


  一般大衆に公開された行事とはいえ、あくまでも「身内だけの村祭り」。全国から参集した信者さんも天理教本部のスタッフたちも、一年かけて、この身内だけのイベントの準備・研鑽を粛々と重ねてきたのでしょう。

  そして、そんな地味で素朴でピュアな行事であるが故に、私の中にある在来種純粋日本人の感性を呼び戻してくれたのだと思います。


第2話 日本を覆う「在日韓国人体質」


  一方で、在日韓国人体質というのは、大手広告代理店や芸能プロダクションのように、自分たちでは汗水流して働かず、無数の奴隷的な下請けを(こき)使い、中抜きや何重ものコミッション・裏金によって儲けるというスタイルの仕事。大したこともないイベントを広告と宣伝で擬似的に盛り上げて、虚構の利益を手にする。数十億円のカネが消えた「アベノマスク」なんてその一例でしょう。

  最近では、JRの駅でも電車でも街においても、センスの悪いケバケバしい色合いの広告・空虚な宣伝文句のポスターが氾濫し、60・50年前を知る世代の私たち在来種純粋日本人にとっては、まるで韓国にいるような嘘っぽさ、俗っぽさが巷に溢れる昨今の日本。

  昔の村祭りや盆踊りに、電通や博報堂といった韓国系広告代理店なんて入らなかった。だから、ケバケバしいポスターやマスコミによる(カネばかりかかる割には)安っぽい宣伝・広告もない。やたら、競争を煽ることもなかった。結果として、それらイベントに無駄なカネや時間が一切かからず、素の心で楽しめたのです。

  昔の阿波踊りやねぶた祭りも、基本、地元民・地域住民だけが楽しむもので、むやみやたらと広告や宣伝を打つことで、無理に全国の日本人や外国人を呼び寄せることなどなかったので、カネもかからず地域住民主体の、のんびり・じっくりと楽しめるイベントだったのです。


  在日韓国人体質というのは、やたらと射倖心(偶然の利益を労せずに得ようとする欲心)や競争心を煽り、参加者が汗水流して手に入れた利益をピンハネする、という「ビジネスモデル」。

  そんなハゲタカのような者たちに目を付けられると、田舎町(村)の「歌謡大会」でさえ、役場でその情報を聞きつけた在日広告代理店によって(無駄な)ポスターや様々な広報活動の為に多額の費用を計上させられる、ようになってきている。


  今年の10月に奈良公園で予定されている「韓国芸能人大会」とは、何十億円もかけて、素人程度の歌と踊りしかできない安物の韓国芸能人を呼び寄せ、その学芸会程度のパフォーマンスを糊塗する為に、日本の韓国系大手広告代理店による宣伝プロパガンダ(扇動・洗脳)が行われています。


  そんな作り物・偽物・カネ塗れ・利権まみれの「在日韓国人体質フェスティバル」にはない「子供おじばフェスティバル」のような素の味わい。これこそ、私のような人間にとって貴重な体験でした。

  在日韓国人体質のもつ嘘嘘(うそうそ)しさ、魂の汚らしさが一切ない、手作りの風味・全員が汗水流して無報酬で参加する無の充実感・作り物でない素の楽しみを味わおうとする人々の素朴な心が、天理教徒ではない一般観客である私にまでひしひしと伝わってきて、楽しむことができたのです。


  今年の奈良県とは、せっかくの在来種純粋日本人風味(おじばがえり子供フェスティバル)を、10月の奈良公演の韓国人フェスティバルで帳消しにされてしまうかのようです。まあ私は、韓国系には「なにをやらせても嘘っぽさ」を感じるので、これを見に行くことはありませんが。


続く


以下広辞苑より


天理

天然自然の道理。人為でない天の正しい道理。「―にそむく」→てんり‐じんよく【天理人欲】 


天理人欲

[礼記(楽記)]天の条理と人の私欲。宋代に、二程子から朱熹に至って儒教の重要な概念となり、「天理を存して人欲を滅す」という理欲の弁が主張された。のち朱子学から陽明学まで人欲は否定されてきたが、明末以降、人欲の語が欲望一般を指すようになると、天理にそった人欲が肯定されるようになった。 


天理教

  もと教派神道の一つ。1838年(天保9)中山みきが創唱。親神(おやがみ)の天理王命(てんりおうのみこと)を祀り、欲など八つの悪い心を捨てて神にもたれ、「陽気ぐらし」の理想世界を建設することを教旨とする。本部は奈良県天理市にあり、親神が人間世界を創造した聖地とする。


天理

  奈良県北部の市。近世は宿場町、また市場町。元官幣大社石上(いそのかみ)神宮がある。1888年(明治21)に天理教本部が設置されてから急速に発展。人口6万7千。 


天理大学

  私立大学の一つ。1925年(大正14)創設の天理外国語学校が起源。49年新制大学。天理市。


2025年08月04日(月)

V.1.1

平栗雅人

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