第28話
刃が振り下ろされる――。
耳を裂く金属音。机を抉る鈍い衝撃。
直後――。
視界の端で、蒼真先輩の身体が大きくのけぞった。
「……ッああああああああ゛あ゛あ゛ッ!」
絶叫が天井の蛍光灯を震わせる。
刃が深々と脇腹に突き刺さり、温かい鮮血が噴き出して、私の頬を染めた。
「せ、先輩ッ!」
私は駆け寄り、崩れ落ちる彼の身体を支えた。
制服の腹部が瞬く間に濡れ広がり、掌の中で熱い液体がとめどなく溢れてくる。
「だめ……だめ、こんなの……ッ!」
頭が真っ白になった。
震える声しか出ない。
先輩は苦悶の表情で唇を噛み、血の気の失せた顔を私の方へ向けた。
「痛っ……り、凛花、さん……はや……く……」
「しゃべらないでッ! 動かないで!!」
私は上着の裾を掴み、傷口に押し当てる。だが、布が瞬く間に濃く染まる。
その光景に喉の奥がひきつり、涙が滲む。
――その時。
すぐ横で、くつくつと笑う声がした。
【……ふ、ふふふ……イイね……赤イ……温かイ……血】
振り返った瞬間、返り血に濡れた茜の姿が目に飛び込んだ。
刃を握ったまま、楽しげに首を傾げている。
その瞳には光がなく、ただ底なしの欲望と嫉妬だけが燃えていた。
【弱い、弱イ……すぐニ壊れル……オトコなんて……ソレじャア、凛花ハ、守れナイ……】
明るい声の下で、もう一つの声が歯を欠いた歯車みたいに回る。
あどけない口調の奥に滲むのは、人ではない異形の音色。
生暖かい呪いが部屋の隅々まで染み込み、私の胸を焼いた。
「……やめろッ」
この震えは、恐怖ではない。
全身を駆け巡る怒りに、私の歯の根が噛み合わなくなっていた。
「これ以上、先輩を侮辱するなぁッ!!」
喉の奥から裂け出した叫び。
自分でも驚くほど鋭い声だった。
その声に、茜の足が一瞬止まり、返り血に濡れた肩が、ぴくりと震える。
【どウして……? どウして凛花が……そンなコト言うノ……?】
あどけない声と呪詛が重なり、不安定に揺れる。
その隙を逃さず、私は先輩の身体を抱き起こした。
「せ、先輩……! 立てますか……!?」
返事の代わりに、先輩の喉の奥から苦鳴が漏れる。
制服の腹部は真っ赤に濡れ、私の手をすぐに熱と血で染め上げた。
「動かないでください、すぐ……すぐ助けますから……!」
私は必死に支え、職員室の出口へと足を運んだ。
けれど――。
「……ッく……!」
先輩の体重は想像以上に重かった。
男の人の身体を抱えるなんて初めてだった。
足がもつれて前に進めない。
「だ……めだ……凛花……さん」
途切れ途切れに、耳元で先輩の声がした。
「僕は……もう…………きっと……急所……やられた……」
「え……?」
頭が真っ白になる。
支える腕に力が入らなくなる。
「……君だけは……逃げて」
「やだっ……!」
喉から叫びが飛び出した。
涙が一気に込み上げ、視界が滲む。
「嫌です! 置いていけるわけないです! だって……だって先輩は――」
言葉が喉に引っかかる。
けれど、どうしても伝えたかった。
「先輩は……っ! 蒼真くんは……私の彼氏だもんっ!! 私だけ逃げるなんて有り得ないッ!!」
声が震えた。
涙で濡れた頬が熱くなる。
だけど、それは偽りのない本音だった。
「り、凛花、さん……」
先輩が、苦痛に歪んだ顔で、それでも微笑もうとした。
血の気の失せた唇が震えながら、必死に言葉を紡ぐ。
「……ありがとう……その言葉で……も、もう、十分……」
「だから喋らないで……! 死んじゃいやです……!」
嗚咽で声が掠れる。
必死に傷口を押さえても、出血が止まらない。
その私に、先輩は弱々しい声で囁いた。
「……じゃ……助け……呼んで……」
「助け……?」
私ははっと顔を上げた。
すぐ近くの壁に、赤い火災報知器が目に入る。
「こ、これなら……外から助けを呼べる……!」
震える指先でガラスのカバーを外し、力いっぱい押し込んだ。
――カチッ。
乾いた音が響いた。
だが――。
「……え……? 鳴らない……」
どれだけ押しても、警報の音は一向に上がらなかった。
喉が詰まり、背筋が氷のように冷たくなる。
「どうして……どうして鳴らないのッ!?」
絶望しかけた瞬間、蒼真先輩が血に濡れた唇を震わせた。
「…………誰かが……先に…… 制御盤、落としたか……回路、切った……?」
「そんな……!」
脳裏に、葛西が机の引き出しをまさぐっていた仕草が蘇る。
あれはローファーを取り出しただけじゃなかった――あるいは茜が、先に動いていたのかもしれない。
どちらにせよ、この部屋は最初から逃がさない前提で仕込まれていたのか。
その私に、先輩は途切れ途切れの声で囁いた。
「…………図書室……避難用、備品の…………発煙筒が…………代わりに、打ち上げれば……誰かが、気づく……」
「発煙筒……?」
私は息を呑んだ。
今、火災報知器は使えない。
なら――それしかない。
「わ、分かりました……! すぐに助けを呼んできますから!」
涙で滲む視界の中、私は必死に声を張り上げた。
生きるために。
先輩を死なせないために。
けれど――。
【…………無駄】
耳の奥を掠める、冷たい響き。
茜がゆっくりと立ち上がり、血塗れの刃を握りしめたまま笑った。
【無駄よ、凛花……。急所を狙っタかラ……先輩は、そノうち死ヌ】
普段の茜の声と、耳を腐らせるような呪詛の声が重なり合う。
血の滴る刃が、ギラリと蛍光灯に反射した。
私は喉を詰まらせ、震える声で叫んだ。
「……そんなこと、絶対に、絶対にさせないッ!」
そう言い捨てると、私は先輩を床に横たえたまま――職員室の扉へ駆けた。
後ろを振り返らずに取っ手を掴み、勢いよく廊下へ飛び出す。
背後から、ぞるりと這い寄る気配。
【コロス……凛花モ、コロス……】
耳ではなく、頭蓋の内側に直接突き刺さる呪詛。
背中を爪で引っかかれるような感覚に、思わず足がもつれそうになる。
「ッ……!」
喉が震え、冷たい汗が首筋を伝う。
けれど、立ち止まれば終わりだ。
私は唇を噛み、廊下を駆け抜けた。
自分の足音と、遅れて追いかけてくる靴音が混ざり合い、鼓膜を揺さぶる。
図書室。別棟の三階。
そこに、非常用の発煙筒がある。
この階は二階。
階段を上がり、さらに渡り廊下を抜けなければ図書室には辿り着けない。
遠い。けれど、そこへ行くしかない。
後ろを振り返らずに、私はただ走った。
背後で響く殺意の声が、じわじわと近づいてくる。
それは呪詛であると同時に、茜そのものが放つ狂気の足音でもあった。
――ガンッ!
甲高い金属音。
何かが弾丸のように飛んできた。
視界の端に映ったのは、掃除用具入れから投げ出されたバケツ。
「きゃっ――!」
避けきれない。足がもつれる。転倒した。
膝が床に叩きつけられる。
痛みに顔が歪む。
反射的に振り返った瞬間――すぐ傍に茜がいた。
血濡れの刃が振り上げられ、月の光を受けてぎらりと光る。
「――ッ!」
本能が叫んだ。
身体を横へ転がす。
――ザシュッ!
刃が床を裂き、赤い飛沫が飛び散った。
ほんの紙一重で、避けた。
私は息を荒げながら必死に立ち上がる。
足は震えていたが、止まってはいられない。
心臓が破裂しそうな鼓動を抱えながら、再び前へと、走り出した。
階段を駆け上がる。
足音が段を打つ。
荒い息が喉を焼いた。
どうして、こんなことに?
胸が痛いほどに締めつけられる。
私を守ってくれたはずの茜が――どうして、あんな怪物みたいに。
あれは本当に……茜なの?
混乱で思考が絡まる中、私は自分の力のことを思い出していた。
けれど茜だけは、違った。
出会った時からずっと、彼女の声は聞こえなかった。
明るく笑っていても、優しく寄り添ってくれても……彼女の内側は沈黙していた。
なのに――。
【コロス……コロス……】
背後から、耳を蝕む呪詛がはっきりと響く。
まるで茜の声と重なりながら、私を突き落とすように追いかけてくる。
おかしい。
茜の心は聞こえなかったはずなのに……この声だけは、何故こんなに明瞭に聞こえる?
背筋を冷気が走った。
これは茜じゃない。
少なくともいつもの茜じゃない。
――別の、何か。
その考えに辿り着いた瞬間、胸の奥で何かがひらめいた。
私は息を切らし、渡り廊下へと飛び出した。
夜気が頬を打ち、窓の外には街の灯りが遠く瞬いている。
震える足を叱咤し、ひたすら駆け抜け――暗い図書室へ飛び込んだ。
扉を閉めると、室内は一面の闇だった。
昼間は整然と並んでいた本棚が、今は無数の影の壁となって迫ってくる。
鼻を刺す紙と埃の匂い。
外の灯りは届かず、ほんのわずかな非常灯が薄緑に瞬いているだけだった。
震える手でスマホを取り出し、ライトを点ける。
白い光が闇を裂き、棚や机を不規則に照らし出した。
積み上げられた本の背表紙が次々と浮かんでは闇に沈む。
発煙筒は、どこ……?
どこに置いてあるの……?
机の下、書庫の突き当たり、受付の下――。
私は、片っ端から引き出しを開け、ファイルや用具をかき分けた。
ガサガサと、紙と木が擦れる音が、静寂の中にやけに大きく響いた。そして。
――ガラリ。
閉めたはずの図書室の扉が、開かれる。
冷たい空気が一気に流れ込み、背筋を針で刺されたみたいに硬直する。
【……コロス……凛花コロス……】
耳の奥に直接染み込むような、呪詛の声。
湿った足音が、ゆっくりと図書室に入り込んでくる。
――来た……!
思わずライトを消し、私は書庫の裏へ身を滑り込ませる。
木の棚と棚の間。
埃と紙の匂いに息を詰まらせながら、身体を丸めた。
震える喉を押さえ、呼吸さえも殺す。
――足音が近づいてくる。
硬い床を靴底が叩く。
湿った音。
暗闇の図書室に、そのひとつひとつが異様に大きく響いた。
右の方……?
いや、左の棚を回り込んで……。
はっきりした思考じゃない。
ただ、そこに存在があるという圧。
その気配を頼りに、私は静かに身体を屈めて、棚の陰をすり抜けた。
息が紙埃に触れ、喉がむず痒い。
汗が首筋を伝い、手のひらが冷たく湿る。
【……ドこ〜? 凛花ァ……】
暗闇の中、明るい口調と呪詛の重奏が、すぐ耳元に囁くように響いた。
――近い。すぐそこにいる……!
胸を押さえ込みながら、ゆっくりと次の棚の影へ。
息を吐くことすら、許されない。
闇と闇の隙間を縫い、足を滑らせるように前へ――
ふと、部屋の最奥を見る。
壁際に、小さな金属の棚が置かれているのに気がついた。
普段なら誰も気に留めないほど目立たない、灰色の収納箱。
あれだ……! と、私は確信した。
背後で、茜の足音が響く。
本棚の間を抜けて、闇を舐めるように歩く気配。
私はその気配を
汗に濡れた手で、金属の取っ手を握る。
嫌な音を立てぬよう、慎重に扉を開けた。
中には――透明なビニール袋にまとめられた救急箱、懐中電灯、非常食のパック。
そしてその隣に、赤い筒状の物体が整然と並んでいた。
「あった、発煙筒……!」
喉奥で小さく声が漏れた。
両手で掴み取った瞬間、冷たい金属の感触が掌を満たす。
外へ知らせる唯一の希望――その重みが、ずしりと腕にのしかかった。
これを目立つところで使えば、必ず誰かが気づく。
そうだ、屋上なら――閃光と煙は夜風に乗り、街の外れからでも見えるはずだ。
しかし、どうやって使えばいいのか分からない。スマホで使い方を調べたいが、圏外なので今は使えない。
考えがぐるぐると渦を巻く。
その時――。
――カランッ。
手首が震え、棚の奥に積まれていた金属製のカップが床に落ちた。
乾いた音が、静まり返った図書室に甲高く反響する。
息が詰まる。
次の瞬間――。
【――見ィつけたァ】
闇の奥から、低い呪詛と茜の声が重なり合った。
足音。一気にこちらへと殺到してくる。
本棚をなぎ倒すような勢いで、暗闇が迫った。
「ひっ……!?」
私は慌てて身を翻す。
光の差さぬ通路を駆け出した。
だが、影が背後から伸び、刃がきらめいた。
――ザシュッ。
「っああッ!」
右腕に焼けつくような痛み。
鋭い刃先がかすめ、制服の布を裂きながら肉を切り裂いた。
血がじわりと流れ、二の腕から滴り落ちていく。
視界が白く瞬き、足元がふらつく。
けれど――止まれば、殺される。
背後から、刃が再び振り下ろされる気配。
もう避けきれない――そう思った瞬間、私は渾身の力で両腕を突き出した。
棚の支柱に指を掛ける。
キャスターの付いた単行本棚がわずかに浮くのを感じた――倒すな、揺らせ。
「うあああああッ!!」
――ガタガタガタッ!!
本棚が大きく揺れ、積み上がっていた分厚い書籍が一斉に崩れ落ちる。
硬い背表紙の束が雪崩のように茜を襲い、鈍い音を立てて次々とぶつかった。
「ッ……ぐぅッ!?」
あの異形の声が一瞬、途切れた。
舞い上がる埃が白く煙り、室内は土煙と本の衝突音で満たされる。
――今しかない。
私は震える手で傷口を押さえ、熱い血が掌を濡らすのも構わずに走り出した。
崩れ落ちた本の山を背に、図書室の出口へと、全力で。
肩で扉を弾く。ドアのレールが悲鳴を上げ、廊下の冷気が胸に刺さる。
――まだ、走れる……!
絶対に……負けない……!
心臓を鷲掴みにされるような痛みに耐え、私はさらに上の階段へと足を向けた。
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