第27話
職員室は、血の匂いで満ちていた。
鉄のような錆臭さが喉を焼き、吐き気が込み上げる。
いつもなら整然と並んでいる机や書類が、今は違っていた。
白い壁や床は赤黒い飛沫に染まり、散らばったプリントは血で貼りつき、文字の判別すらできない。
規則正しく並んでいたはずの椅子は乱れ、書棚の扉は開け放たれ、垂れ下がったファイルの端が濡れて黒く波打っていた。
昼間は静かで清潔だったこの場所が――いまはまるで、虐殺の痕跡をとどめる牢獄のように変わり果てていた。
その中心に横たわっているのは、もう動かない葛西だった。
はだけた上半身は、山のように盛り上がった筋肉で覆われていた。
だが今は、その胸や肩、腹部に無数の刃の痕が走り、赤黒い穴が点々と開いている。
厚い胸板を貫いた幾筋もの傷口からは血がまだじわじわと溢れ、床に滲んで広がっていた。
誇示するはずの筋肉は、無惨に刻まれて、ただの血塗られた肉塊に変わり果てていた。
開きっぱなしの口の奥には血泡が残り、腕は痙攣の途中で止まったように宙に伸びている。
「人間」と呼ぶのもためらわれるその姿は――何度も、何度も刃を受けて壊された残骸にすぎなかった。
そして、そのすぐ傍で――。
「……大丈夫〜? 凛花」
返り血を頭から浴び、制服の袖まで真っ赤に染めた茜が立っていた。
笑顔だった。
普段と同じ、あどけない微笑み。
けれど、その頬を滴る赤黒い雫が、まるで別の仮面のように張り付いて見える。
「……ぁ……あ、あ……」
喉からかすれた声しか出ない。
助けられたはずなのに――全身が、恐怖で硬直していた。
「はぁ〜危ないところだったね〜。間に合って良かった〜」
茜はいつもの調子で言った。
その足で、横たわる葛西の死体をためらいもなく蹴りつける。
「それにしても、マジでキモいわコイツ。教師のくせに生徒を襲うとか……ホント、死んで良かった」
ぐしゃり、と肉の感触を踏み抜くような鈍い音。その衝撃で、傷口から噴水のように血が吹き出した。
あまりに日常的な口ぶりと、あまりに非日常な行動の落差に、私は息を詰まらせた。
「……ひっ」
喉が震えるだけで声にならない。
心臓が破裂しそうなほど脈打ち、背筋は冷え切っていた。
茜はそんな私の様子に気づくと、小首をかしげて微笑んだ。
「あ、凛花、縛られてるの? 待ってて。すぐ解いてあげるから」
その右手には――さっき葛西を滅多刺しにした血塗れの刃物。
赤黒く濡れた鉄が蛍光灯を反射し、ぎらりと光った。
「や……やめ……」
声にしようとしても、唇からは空気しか漏れなかった。
動けない。逃げられない。
茜はゆっくりと歩み寄り――
一瞬、私の胸元に視線を落とした。
裂かれたセーラー服から覗く下着と胸の谷間。その上で、彼女の瞳がかすかに揺れる。
「…………」
言葉にはしなかった。ただ一瞬、何か熱を帯びたものが走った気がした。
私は呼吸を止め、目を固く閉じる。
次の瞬間。
ぎりぎり、と革が軋む音。
茜が刃をベルトに当て、ノコギリのように前後へ動かしていた。
革がざりざりと削がれ、赤黒い血に濡れた刃が白い線を描いていく。
やがて――ぱん、と乾いた音を立てて、拘束が切り裂かれた。
縛めから解放された瞬間、私は反射的に胸元を掻き寄せた。
裂かれたセーラー服を必死に押さえ込み、背を丸める。
「……っ」
足が震えながらも、私は茜から距離を取った。
椅子を挟むように後ずさり、壁際まで下がる。
「ど、どうして……ここに……?」
震えながら問うと、茜は小首を傾げて、血に濡れた笑顔を浮かべた。
「ずっと見てたんだよ、凛花。……葛西と一緒に職員室に入っていくのも、ちゃんと。だから――それを見て、鍵を取りに行ってたの」
ぞくりと背筋が凍る。
ずっと、見られていたのか。
私は慌ててポケットからスマホを取り出した。
警察に――通報しなきゃ……!
だが。
画面の右上には、冷たい文字が点滅していた。
――圏外。
それに校内のWi-Fiも切られている。
「……なんで……っ」
絶望が喉に突っかえたその時、茜が軽い声で言った。
「やめといた方がいいよ、凛花」
血の匂いを纏ったまま、茜は笑みを崩さずに続ける。
「もし通報なんかしたら……凛花が捕まっちゃうよ?」
「……え?」
息が詰まる。
震える私に、茜はさらりと言葉を重ねた。
「だって――先生と二人きりで職員室にいて、服までこんなに破けてるんだよ? 警察が見たらどう思うかな……揉み合いになって、凛花が刺したって。先生はもう何も喋れないし、最初にそう思った大人が全部決めるよ」
軽い調子なのに、刃物でなぞられるように冷たい。
背筋を這い上がる戦慄に、心臓が早鐘を打つ。
「……や、やめて……」
頭が真っ白になる。
何をどうしたらいいのか分からない。
通報……? 逃げる……? それとも……。
混乱で足がすくんだ、その時。
――ドンドンッ!
扉を叩く重い音が響いた。
「凛花さん!? 凛花さん、ここに居るの!?」
蒼真先輩の声だった。
「……っ!」
心臓が跳ね上がる。助かった――そう思った瞬間、隣に立つ茜がそちらに顔を向けた。
「チッ……」
普段の彼女からは想像もできない、鋭い舌打ち。
血に濡れた刃物を握ったまま、茜はゆっくりと入り口へ向かい始める。
蛍光灯の下で刃がぎらりと反射し、赤黒い滴が床に落ちていく。
「ま、待って……茜!」
私は咄嗟にその手首を掴んだ。
けれど茜は、振り返りざまに顔を歪めた。
「邪魔しないでッ!!」
鋭い声と共に、力任せに振り払われる。
「きゃっ……!」
身体の均衡を崩し、私は机の脚に足を取られて床に倒れ込んだ。冷たいリノリウムが背中を叩き、肺から空気が抜ける。
その間に――茜が扉へ歩み寄った。
――カチャリ。
金属が回る乾いた音。
彼女はためらいもなく鍵を外し、ゆっくりと取っ手を引いた。
開いた隙間から、廊下の明かりが差し込む。
そこに蒼真先輩の顔があった。赤く上気し、額には汗が滲んでいる。
「な……っ!?」
扉の隙間から見えた先輩の肩が、ぴたりと止まった。血に濡れた茜の姿を見たからだ。
――頭から返り血を浴び、制服はまだらに赤黒く染まり、髪にも飛沫がこびりついている。
その異様な姿を、私は横目で見上げながら息を呑んだ。
「先輩……凛花なら、ここに居ますよ。どうぞ」
その声は、血の臭いに濁った空気を切り裂くように軽かった。
「……っ、凛花さんッ!」
先輩が叫び、部屋へ踏み込む。
そして――彼の視界に飛び込んだのは、職員室の地獄だった。
床も机も血に濡れ、滅多刺しにされた葛西の死体が転がっている。
そのすぐ傍に、まだ刃を滴らせたまま立ち尽くす茜。
「う、あ……あああああッ!?」
耳を裂くような悲鳴が上がった。
先輩の肩が震え、口元を押さえる。
だが耐え切れず、嘔吐した。
酸っぱい臭気が血の鉄臭と混ざり合い、さらに部屋の空気を濁らせた。
「せ、先輩……」
震える声で呼ぶと、蒼真先輩は荒い息をつきながら顔を上げた。
「……り、凛花さんッ!」
私の名を呼び、血溜まりを踏み越えるように駆け寄ってくる。
その視線が一瞬、私の胸元に引き寄せられ――硬直した。
裂かれたセーラー服。剥き出しになった下着姿。
先輩の頬が赤く染まり、咄嗟に顔を背ける。
「ご、ごめん……っ!?」
言うが早いか、先輩は着ていたワイシャツを脱ぎ、私の肩にそっと被せてくれた。
温もりと布の重みが肌を覆い隠し、胸の奥に安堵と羞恥が同時に広がる。
私は震える指でそれを掻き合わせながら、何度も小さく礼を呟いた。
――その時。
すぐ傍でこちらを見ていた茜の視線が、鋭く揺れた。
口元は笑っているのに、瞳の奥にかすかな棘が光っている。
制服姿の私と、それを庇うように隣に立つ先輩を見て――ほんの一瞬、嫉妬の色が浮かんだ。
「……優しいんですね、先輩」
茜は小さく笑った。けれど、その声音には氷のような冷たさが滲んでいた。
「でも……知らなかったでしょ? この変態教師、さっき凛花を襲おうとしてたんですよ」
言葉の刃が突き刺さる。
私は喉を詰まらせ、視線を落とした。
茜は血に濡れた刃を軽く掲げ、にこりと笑う。
「だからわたしが……こうして殺したんです。凛花を守るためにね」
「なっ……」
先輩の目が大きく見開かれる。驚愕と恐怖、そして混乱が入り混じった表情。
その様子に、茜は楽しむように首を傾げた。
「彼女を守れない彼氏なんて、失格ですよ。情けない。凛花がここに連れて来られるまで何も思わなかったんですか?」
刃先を軽く振り、床に赤い滴が散った。
「ですから、先輩。凛花と……別れてください。あなたと凛花は不釣り合いです」
笑顔のまま告げられたその言葉に、私の背筋は氷のように凍りついた。
すぐ隣に立つ蒼真先輩の心が――私の頭に流れ込んでくる。
(……怖い。怖い怖い怖い……! この子……人を殺した……! 次は、僕たち……? 嫌だ、死にたくない。いや、震えるな……しっかりしろ……! 凛花さんを守れ……!)
荒れ狂う恐怖と、必死に押し殺そうとする意志。
その相反する感情が渦を巻き、私の胸までざわめかせる。
先輩は顔を強張らせ、唇を震わせながらも――絞り出すように声を発した。
「……いやだ」
息が掠れていた。けれど、その目は茜から逸らさなかった。
「たしかに……僕なんか、凛花さんに釣り合わないのかもしれない。強くもないし、格好良くもない……」
一度、言葉を噛みしめてから――。
「……それでも僕は、凛花さんを守りたい。絶対に……別れたりしない」
一拍の沈黙が落ちた。
空気が張りつめ、私の心臓の鼓動だけがやけに大きく響く。
先輩……。
胸が熱くなる。涙が滲みそうになる。
それは恐怖でも絶望でもなく――確かに、自分を想ってくれている言葉に心が揺さぶられたからだった。
けれど――。
「……あはっ」
茜が小さく笑った。
その肩が小刻みに震え、笑い声が膨らんでいく。
「あはははは……なにそれ、マジで笑える……!」
笑っているのに、瞳は笑っていなかった。
その奥には、爛々と燃える嫉妬の炎が渦巻いていた。
「釣り合わない? そうだよ。全然釣り合わない! あんたなんて! でも……でもね――」
茜の声が、徐々に震えを帯びていく。
笑みは歪み、頬は引き攣り、口角が異様に吊り上がった。
「凛花に触れるのは……凛花の隣に立つのは……凛花を抱きしめるのは……ぜんぶ……ぜんぶ……わたしだけでいいのッ!!」
その瞬間、耳の奥に――。
【コロス……コロス……】
あの呪詛が、まるで茜の声と重なるように反響してきた。
普段のあどけない声と、冷たく歪んだ低音が、不協和音のように混じり合う。
背筋を氷の刃でなぞられるような恐怖。
私は呼吸を忘れて、ただ目を見開いていた。
茜は刃を握り直し、にぃ、と口角を吊り上げた。
【――じゃア、仕方ないですネ】
声は二重に響いた。普段の茜の明るい声と、耳を蝕む呪詛が重なって。
【先輩……死んでクださイ】
瞬間――。
茜の身体が弾けるように動いた。
血濡れの刃が振り上げられ、真っ直ぐに蒼真先輩へと迫る。
「っ……!」
先輩は咄嗟に腕を構えた。
けれど震える両腕では受け止めきれず、刃は肩口をかすめて机へ突き立った。
木材が裂ける甲高い音。赤黒い滴が机に散る。
「やめてッ!!」
私は声を振り絞り、机を蹴って茜に飛びついた。
だが細い身体は異様な力で振り払われ、床を転がる。
「凛花さんッ!」
先輩が私に手を伸ばそうとする――その背に、茜の影が覆いかぶさった。
振り上げられた刃が蛍光灯を反射し、ぎらりと光る。
時間が凍りついた。
耳には【コロス……コロス……】という囁きだけが木霊している。
「やめろぉぉッ!!」
先輩が叫び、机の上のファイルを掴んで投げつけた。
紙束が宙を裂き、茜の視界をわずかに塞ぐ。
その一瞬。
私たちの目の前で、刃が空気を裂いた。
――ブシャッ。
温かい飛沫が、私の頬に落ちた。
誰の血かを確かめるより先に、世界が一度だけ、暗く瞬いた。
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