第13話
目を開けると、真っ白な天井がじわりと視界に
鼻をくすぐるのは、消毒液のつんとした匂い。
耳の奥で、かすかに時計の秒針が刻む音が響いている。
周囲は薄い布地で仕切られ、背中には柔らかいマットレスの沈みと、包み込むような毛布の重み。
――ここは、どこ?
身体を起こそうとした瞬間、腕に絡む微かな汗の匂いと、首筋の鈍い痛みが意識を引き戻す。
その時、カーテンの向こうから椅子のきしむ音がした。
布がわずかに揺れ、誰かの影が近づいてくる。
「あ、気がついた」
淡い光の中から、保健の先生が顔を覗かせた。
白衣の袖口から、冷たい消毒液の匂いがふっと広がる。
「ここは……?」
「ここは保健室よ。白瀬さん、大丈夫?」
落ち着いた声色に安心しかけたが、すぐに胸の奥にざらついた感覚がよみがえる。
――そうだ。あの時、授業中に……あの声が。
その記憶が、ぬめるような重さで全身に絡みついた。
暗闇。鎖の冷たさ。刃が皮膚を裂く感触。
逃げ場のない圧迫と、耳元にまとわりつく湿った息。
そうだ――私は、拘束されながら、身体を
やけに生々しい痛みや圧迫の感覚が、まだ皮膚の奥に張り付いて離れない。
あれは……まさか、本当に――。
「凛花!」
考えが形になる前に、カーテンが勢いよく開かれた。
茜が飛び込むように近づき、そのまま強く抱きしめてきた。
胸元に伝わる鼓動と、髪から漂う甘いシャンプーの匂いが、現実の輪郭を少しだけ戻してくる。
「……本当に心配したんだから! 急に悲鳴あげて倒れるし、顔も真っ青で……」
声が震えている。肩に回された腕の力も、普段よりずっと強い。
私はふっと微笑んで、「ごめん、もう大丈夫だよ」と返した。
「何があったの?」
茜は私の顔を覗き込み、瞳の奥を探るように問いかけてくる。
「ちょっと……急に頭がくらっとして。貧血みたいなものかな。ほら最近、生理とかもすごく重かったし」
それっぽい理由を口にして、笑ってみせた。
本当のこと――あの声や映像のことは、まだ誰にも話せる気がしなかった。
「……貧血だけで、あんな風になる?」
茜の声には、かすかな疑念が混ざっていた。眉がわずかに寄り、目だけが私を捕らえて離さない。
「大げさに見えただけだよ。ほら、私って結構、倒れ方が派手だから。茜も知っているでしょ?」
軽く肩をすくめ、冗談めかしてみせる。
茜はまだ何か言いたげだったが、唇を噛んで飲み込み、私の髪をそっと撫でた。
「……もう、これ以上心配させないでよ。凛花に何かあったら、わたし……」
そこで言葉が途切れる。余韻だけが、妙に胸の奥に残った。
「ありがとう、茜」
そう言って、私も茜の背に腕を回す。
互いに短く抱きしめ合ったそのとき――
「白瀬、無事か?」
低い声とともに、カーテンが開かれた。
葛西先生が立っていた。
視線が私の顔をなぞり、それからほんの一瞬、鎖骨のあたりへと落ちたのを私は見逃さなかった。
「大丈夫か? 突然、気絶したからびっくりしたぞ」
「……ご心配をおかけしました。もう大丈夫です」
できるだけ感情を乗せないように答える。
正直、葛西先生の顔を見るのも気が重かった。
「一度、病院に行った方がいいぞ。今回は、たまたま俺の授業だったから、すぐ対応できたけどな」
その声音には、わずかに誇らしげな響きが混じっている。
まるで自分の手柄を自慢するかのようだった。
「対応……?」と私が首を傾げると、横から保健教諭が口を挟んだ。
「葛西先生が白瀬さんを保健室まで運んでくれたのよ」
「……え?」
「まあ、白瀬は軽かったから大したことはなかったけどな、ははは」
視線が襟元に二拍、止まった。ネクタイの結び目が指で締め直される。
その瞬間、耳鳴りと共に、葛西先生の思念が、ぬめるように頭の中へと流れ込んできた。
(あぁ、最高だった……担いだ瞬間、背中いっぱいに伝わるあの柔らかい弾力……胸の形、大きさまで分かった……ずっと抱えていたかった……)
湿った息づかいまで伝わってくるような、下品な熱を帯びた感想に、背筋がぞわりと逆立つ。
視線を下げると、スラックスの前がわずかに盛り上がっているのが目に入り、喉の奥がきゅっと縮んだ。
――この男、どさくさに紛れて私の胸を触っていたのか。教師という立場を利用して。
一気に、胃の奥からせり上がるような嫌悪感が全身を覆う。
「……凛花?」
私の表情の変化を感じ取ったのか、茜が心配そうに呼びかけてくる。
だが葛西先生……いや、葛西は、その空気の変化になどまったく気づいていないようだった。
「今日は早退しろよ。無理して授業に出てもしょうがないからな。じゃあな」
そう言い残し、気遣っているふうの声音を装いながら、保健室を後にした。
入れ替わるように、保健教諭が心配そうな顔を向けてくる。
「葛西先生の言うとおり、今日はもう帰る? 私から保護者の方に連絡しておくから」
柔らかい声に、一瞬だけ心が揺らぐ。
けれど――すぐに、胸の奥にさっきのざらつきが蘇った。
「……いえ。もう大丈夫です。絶対に帰りません」
宣言するように、はっきりと言葉を置く。
自分でも驚くほど、声は固く、揺れなかった。
横から茜が身を乗り出してきた。
「凛花、無理しない方がいいよ」
眉を寄せ、心配を隠そうともしない表情。
私は少し間を置いてから、ゆっくりと首を横に振った。
「ううん、ちょっとまだ……やり残したことがあるから」
言い終えた瞬間、茜の瞳の奥で、何かがかすかに動いた。
ほんの一瞬、表情が固くなったが、彼女は結局何も言わなかった。
⸻
茜と並んで廊下を歩く。
足音がやけに響くのは、まだ全身に残る緊張のせいかもしれない。
教室の前に立ち、私は深呼吸を一つ。
そしてドアを開けた。
その瞬間、ざわりと空気が揺れる。
教室中の視線が、一斉に私へ突き刺さった。
――そしてクラス中の心の声が流れ込んでくる。
(うわ、本当に戻ってきた)
(あんな倒れ方して……やっぱ病弱キャラだな)
(さっきの悲鳴、マジで怖かったんだけど)
(……泣いてた? でもちょっと可愛い)
(白瀬って、やっぱ変わってるよな)
(あの声……まさか聞こえたわけじゃないよな)
男女問わず、好奇と警戒と、うっすらした軽蔑がないまぜになった感情が、脳の奥にじわじわと染みてくる。
ひそひそと交わされる声と、表に出ない心の声とが、渦を巻いて私を包み込んだ。
椅子に腰を下ろし、深く息を吐く。
そして、視線を順番に巡らせた。
女子からの人気も高いし、本人もそれをわかっているような笑みを浮かべることが多い。
けれど、その裏でいつも私の胸ばかり盗み見たり、下品な好奇心で体の奥の色まで勝手に妄想している最低なやつ。
今も頬杖をつき、気だるげにこっちを眺めているが、その目は間違いなくそういう視線だ。
開いた教科書の陰からも、私の肌や汗の匂いを想像しているのが手に取るように分かる。
怪我をしている女の子が好きらしく、体育でできた私の脚の擦り傷を、気持ち悪いくらい熱心にチェックしている。
人懐っこい笑顔を作る時もあるが、今は机に肘を置き、口元を手で隠してニヤついている。その笑い方を知っている。
授業中に私のブラのラインや首筋をじっと見つめながら、机の陰で不快な身じろぎを繰り返す、どうしようもない男だ。
――真壁遼、御子柴匠馬、小田嶋迅。
そして担任の葛西。
私の中で、この四人はひとつの枠に収めることにした。
胸や肌、匂い、下着……そんな下卑た想像ばかりを絶えず向けてくる、クラスでも群を抜いた連中。
日常の中に紛れ込んだ異物のように、じっと私を観察し、時に舐めるような視線を送ってくる。
そして――あの時、私を頭の中で猟奇趣味で蹂躙していたのは、きっとこの中の誰かだ。
あれは単なる妄想ではない。
息づかい、温度、刃が食い込む感覚――すべてがあまりにも生々しく、実際にやりかねないほどの意志とリアリティを帯びていた。
看過するなんて、とてもできなかった。
だから私は、探すと決めた。
このクラスの中で、私を殺そうとしている人間を。
そして、必ずその正体を突き止める。
「……凛花? どうしたの?」
不意に、隣の席から茜の声がした。
呼びかけに顔を向けると、心配そうな笑みと、どこか探るような視線が返ってきた。
「……何でもないよ」
私は短くそう答えた。
茜の視線が一瞬だけ深く沈む。
笑って見せると、彼女も同じ形の笑みを返した。
教室のざわめきが遠くに霞んでいく中で、私の耳は、目には見えない糸のような思念を手繰り寄せていた。
この中の誰かが、私を狙っている――そう思うだけで、空気が濃く、重くなる。
分からないことはまだ多い。
けれど、この日から私の世界は、確かに形を変え始めていた。
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