第12話
数日後。
休み時間、私は茜と並んで廊下を歩いていた。
くだらないことで笑いながら、先週の渋谷や原宿の話をあれこれ持ち出す。
「ね、またあそこのチュロス食べたくない?」
「うん、あれ美味しかったよね。……でもあの人混みはちょっと」
そんなやり取りをしていると――
「凛花さん!」
背中越しに、はっきりと名前を呼ばれた。
振り返ると、図書委員の――
少し息を弾ませて、こっちへ歩いてくる。
「ごめんね……ちょっと、二人で話せないかな?」
茜が私と先輩を見比べ、笑みを浮かべる。
「えっと……誰?」
茜はそう言って、先輩をじっと見た。
笑っているのに、目だけが冷たい。
「この前、渋谷PARCOの屋上で話してた、図書委員の川北蒼真さん」
私がそう言うと、茜は「あぁ」と短く声を漏らす。
「それなら、わたし、先行ってるね」
明るい声を残して、教室の方へ歩いていった。足取りは、さっきより少しだけ速い。
その後ろ姿を見送りながら、私は先輩の方へ向き直る。
「ごめん。友達、大丈夫だった?」
「大丈夫ですよ」
私がそう答えると、先輩は少し照れくさそうに笑った。
「あの……この前カクヨムで、僕の小説に♡とか⭐︎とか、それにレビューまで書いてくれたよね? 本当にありがとう」
「あ……」
昨夜、ベッドの中で必死に絶賛レビューを書いていた自分を思い出し、頬が熱くなる。
「この『しらりん』ってユーザー、凛花さんだよね? すぐに分かったよ」
「適当に付けちゃったので……」
ユーザーネームを口にされると、照れくさくなって、私は思わず視線を落とした。
彼はふっと笑って、続ける。
「感想、すごく嬉しかった。
まさか、あんなに丁寧に書いてくれると思わなくて」
「え、だって、本当に感動したんですよ。先輩の『彼女は放課後に消える』――情景が鮮明に浮かんできて、時間を忘れました」
私の言葉に、先輩は耳まで赤くして、視線を
「……そんな風に言ってもらえるなんて嬉しい。本当に書いててよかった」
その横顔に、教室までの短い距離が、いつもより少しだけ短く感じられた。
誰かの静かな足音とともに、先輩の思考がふっと頭の奥に流れ込んでくる。
(……もっと凛花さんと話してみたい)
その真っ直ぐな響きが胸の奥をかすめ、理由もなく鼓動が速くなる。
(でも、なんて声をかけたらいいんだろう……え、ええっと……)
「あの」
先輩の思考を断ち切るように、私は口を開いた。
「……良かったら連絡先、交換しませんか? 私……もっと先輩とお話がしたいです」
先輩の目がわずかに見開かれ、頬がほんのり赤くなる。
「え、え!? いいの? ぼ、僕なんかで……よ、良かったら」
その照れた笑顔が、教室へ戻るまでの時間を、さらに短く感じさせる。
互いにスマホを取り出し、QRコードをかざし合う。
画面に『そうま』と名前が表示された瞬間、小さな達成感と同時に、胸の奥で温かいものが広がっていった。
「ありがとう。じゃあまた、連絡するね」
「はい」
先輩が軽く手を振り、廊下の向こうへ歩いていく。
その背中を目で追いながら、私は自分の胸に芽生えたものを言葉にできずにいた。
教室に戻る。次は現代文の授業だ。
教卓では葛西先生がプリントを並べながら、ちらりとこちらを
(白瀬、今日も美人だな……)
席に向かう途中、甲高い耳鳴りと共に、ざらついた男子たちの声が流れ込んできた。
(白瀬……×××の色、どんなだろ)
(あの白い肌……汗の匂いと味は……)
(今日は、下着かな……たぶんピンク)
クラスメイトの男子生徒――
彼らのヘドロのように濁った欲望の色だけがはっきりと伝わってきた。
胸の奥に、ぞわりとした嫌悪が広がる。
さっきまでの先輩とのやり取りが、どれだけ穏やかで清潔なものだったかがより際立つ。
――まるで別世界のようだった。
席に着くと、二つ席を挟んだ場所に座る茜がこちらを見て、興味ありげな様子で、顔を向けてきた。
私はわざとらしく肩をすくめて返す。
予鈴が鳴り、葛西先生が教科書を手に取る。
現代文の授業が始まった。
「今日は三島由紀夫『金閣寺』を扱う」
先生の低い声が、ゆっくりと教室の隅々まで染み込んでいく。
「じゃあ……前の段落から、順に読んでくれ」
教科書をめくる音が一斉に重なり、席ごとに区切られた朗読が始まった。
男子の低い声、女子の少し高い声、それぞれの息づかいが活字に熱を帯びさせる。
しかし、その温度の奥に、何か湿った影が混ざっているように感じた。
「この小説は、美の象徴としての金閣を、ひとりの青年僧の視点から描いた作品です」
経歴や時代背景が一つずつ、丁寧に積み重ねられていく。
「彼にとって、金閣は完璧な美であり、触れることも、汚すことも許されない存在でした」
その一節が、やけにゆっくりと耳に落ちてくる。
「しかし、美は永遠には保たれない。やがて彼の心の中に――その美を、自らの手で終わらせたいという衝動が芽生えるのです」
「美しさは、崩れ去る瞬間にこそ、もっとも輝きを増す……そう、彼は考えるようになる」
言葉の一つひとつが、胸の奥にざらついた波紋を広げていく。
美しいものに向けられた視線の奥に潜む、冷たく硬い光。
守ることと壊すことが、同じ根から芽吹いているような――そんな感覚。
……どうしてこんな話を聞いているだけで、身体が反応してしまうんだろう。
心臓の鼓動が妙に速く、額にじわりと汗が滲む。
背筋を小さな寒気が這い上がり、胸の奥に、ゆっくりと形のない不安が広がっていく。
その不安の渦に、微かに混ざる声があった。それは――
【コロス……】
渋谷で聞いた、あの
胸の奥が一気に冷え、心臓が跳ねる。
耳の奥に張り付いたその声は、じわじわと大きさを増していく。
【コロス……コロス……】
低い振動だけが、私の脈と同じ速さで内側を叩く。
周囲の朗読の声が遠ざかり、教室の空気が濃く淀んでいく。
【
自分の名前が、低く濁った声に呟かれた瞬間――ガタッ、と椅子が大きく音を立てた。
反射的に立ち上がった足が、机の脚を蹴って震わせる。
——本当に誰かの声?
私が作っているだけじゃないの?
活字の黒が滲む。チョークとは違う、鉄の匂いが喉に張り付いた。
次の瞬間、視界の奥が暗転し、濃密な映像が奔流のように流れ込んできた。
冷たい闇の中、錆びた鎖が震え、私の手足は硬い枷に締め上げられている。
肌に食い込む冷たい金属の感触が、骨の奥まで届く。
暗がりから伸びる影が、私の肩や腰を乱暴に掴む。
指が押し当てられる位置や重さが、吐き気を誘うほど生々しい。
次の瞬間、鋭い刃が脇腹を抉り、身体から熱い液体が一気に流れ出した。
腕を引き裂かれる鈍い衝撃。
関節が外れ、骨が軋む音が耳の奥で響く。
耳元には湿った呼気が絡みつき、背中を押し潰す圧迫が逃げ場を塞ぐ。
切断の痛みと、皮膚を這う異様な接触が同時に押し寄せ、喉の奥から悲鳴がこぼれた。
首に硬い縄のようなものが食い込み、呼吸が潰れる。
視界の端に揺れる炎が映り、熱と痛みと屈辱が溶け合う。
最後に何かが振り下ろされる影が見え――
……その瞬間、肺の奥から何かが突き上げてきた。
気づけば、私は教室で喉が裂けるほどの悲鳴を上げていた。
耳に飛び込んでくるのは、机を引く音、誰かの椅子が倒れる音、ざわめくクラスメイトの声。
視界の端で茜が立ち上がるのが見えたが、その表情までは分からない。
足元がふらつき、心臓が暴れるように脈打つ。
目の前の光景がにじみ、音が遠のいていく。
「保健室!」
葛西先生の声。
椅子が床を削る音が走った。
次の瞬間、私は机に手をつくこともできず、意識の縁が真っ黒に塗りつぶされていった。
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