第6話

 クレープを食べ終えて、私たちは駅前の公園のベンチで、くだらない話を続けていた。



「あ、見てあの犬。耳にリボンついてる」



「……似合ってる? ちょっと笑ってるように見える」



「そう? 私はちょっと怖いけど」



「凛花って動物苦手だよね」



「別に……えなければ平気」



 茜がくすくす笑いながら、紙カップのストローを軽く回す。



 通り沿いの屋台からは甘い匂いがまだ漂っていて、遠くでストリートミュージシャンの歌声がかすかに聞こえる。

 夕焼けはもう半分以上沈み、ビルの谷間は群青に沈みはじめていた。

 街灯が一つ、また一つと光を落とし、アスファルトの上に長い影を伸ばしていく。



「……そろそろ帰ろっか」



 茜がストローをくわえたまま、空を見上げて言う。

 私もそろそろ電車の時間を気にしはじめていたので、軽く頷いた。

 ベンチから腰を上げ、手に残っていたクレープを包んでいた紙のスリーブを、店の前に置かれたゴミ箱に入れる。



 周りには数組のカップルや、部活帰りらしい学生がいて、誰もがそれぞれの帰路に向かって歩き出していた。



 ……なのに、その時だけ、背後の空気がぴたりと動きを止めた気がした。





「……やっと見つけたぁぁ」





 背筋を撫でるみたいなかすれ声に、私は反射的に振り返った。茜も同じだった。



 そこに立っていたのは、中年の男。

 額にあぶらで束になった髪が張りつき、鼻の下には剃り残しの髭。

 焦点の合わない目が、私と茜を交互に舐めるように動いている。

 片方の口角だけが引きつったみたいに吊り上がって、黄ばんだ襟元えりもとのシャツからはボロボロの紙切れが胸ポケットに飛び出していた。

 靴はすり減り、靴下には穴まで空いている。



 男が指をポキポキ鳴らしながら近づいてくる。

 鼻息と舌打ちが交互に漏れ、甘ったるいガムと生乾きの布、古い油を混ぜたような臭いが押し寄せた。



「な、何ですか……?」



 茜の声が強張こわばる。



 その瞬間、私の耳の奥で――キィィン、と金属を擦るみたいな耳鳴りが響いた。

 次の瞬間、男の頭の中から、ねっとりとした卑猥ひわいな妄想が、吐き出されるみたいに私の脳に流れ込んできた。



――ねばついた舌で皮膚を舐め回すような感触。

 むき出しの歯茎を近づけてくる、にごった笑い声。

 指先が、油にまみれた虫の脚みたいに這い寄ってくる――そんな映像が、勝手に頭の中に押し込まれてくる。



 空気がひどく湿っぽくなり、背中を冷たい汗が一筋伝った。

 喉の奥がきゅっと縮まり、胃の中のものが逆流しそうになる。



 やめろ、触るな……っ!



 吐き気を必死にこらえ、私は唇を噛んだ。歯の根が鳴るほど強く。



 茜も私の異変に気づいたのか、横目でこちらを一瞥いちべつし、男に視線を向けた。

 そこには、薄く笑みを浮かべた見知らぬ顔。

 だが、その目はどこかで私たちのことをじっと観察してきた者のように、いやにれしかった。



「はぁ、はぁ……き、君たち、よく一緒にいるよね?」



 低く湿った声。ぞわりと背中に鳥肌が立つ。周囲に人が居たが、誰も目を合わせない。



「さっきもあそこのベンチにいたし……ちっ……ま、前からずっと見てたんだ」



 その言葉に、胃の底がさらに冷える。

 茜は眉をひそめ、一歩前に出た。



「用件は何ですか」



「……三人で、今からどこか行かない? はぁ……はぁ……お、おごるからさ」



 軽く言ったつもりなのだろうが、その奥底に濁った熱がにじんでいるのを、私は耳の奥で感じ取ってしまう。



「結構です」



 茜は一切笑わず、静かに、しかしはっきりとそう告げた。

 拒絶きょぜつの響きが、湿り切った空気をわずかに切り裂いた。



「おやおやぁ……ちっ……そ、そんな冷たくしなくてもいいじゃ〜ん。

 俺、君らのこと、ちょっと気になっててさ」



 男はじりじりと距離を詰め、私の表情を覗き込んでくる。



「特に君――はぁ……はぁ……な、名前はなんて言うのぉ?」



 茜が私の腕を取る。

 その指先は、妙に冷たく、でも離そうとすると爪が食い込みそうなほど強い。



「彼女には、あなたに教える名前なんてありません」



 声色は穏やかなのに、目は笑っていなかった。



「へえ……そういう仲かい?」



 男は舌なめずりをし、なおも周囲をうろつく。



 茜は一歩前に出て、私を背に隠すように立った。



「変質者、と叫びますよ?」



 小さくもはっきりとした声が、湿った空気を切った。



「ここ、駅前。交番はすぐそこです。

 お巡りさん、飛んでくると思います。

――あとは、どうなるか分かりますよね?」



 同い年の女の子が、一歩も引かずに大人の男と対峙たいじしている。

 その横顔を見上げたとき、私はふと息をんだ。



 街灯の光を受けた茜の瞳が、どこか金属のように冷たい光を帯びていた気がした。

 なのに、その足は微動だにしない。



――どうしてこんな場面で、怖くないのだろう。



「ちっ……わ、わかったよ」



 男は舌打ちと鼻息を繰り返しながら、低くボソボソと訳のわからないことを呟く。

 その目は時折、私の方へも不気味に泳ぎ――



「じゃ、じゃあまた今度、遊んでね?」



 唇のはしを吊り上げるような笑みを残し、男は足早に人混みの中へと消えていった。





 その後ろ姿を見送ると、膝の力が抜け、私はその場に崩れ落ちた。

 冷たいアスファルトの感触が、急に現実を突きつける。

 遠くでバスのブレーキが軋み、ざわめきがじわりと戻ってきた。



 すぐに茜がしゃがみ込み、私の肩を支えた。



「大丈夫?」



 少し涙がにじみながらも、私はかすかに笑って頷く。



「……ありがとう、大丈夫」



「……なんなのあいつ、本当にキモいんだけど」



 耳元で響く低い声。

 怒っているはずなのに、不思議と冷えた響きが混じっていた。



「ストーカー……? 凛花、あいつ見たことある?」



「……わからない」



「でもさ、私たちのこと、よく見てるみたいな言い方してたよね」



「……うん。本当に気持ち悪い……。もう、この辺り歩けないかも」



 胸の奥にじわじわと嫌悪が広がる。

 あのクレープ屋さんにも、もう行けない――そう思うと、ささやかな楽しみを奪われたようで、少し悲しくなった。



 そんな私に、茜は唐突に言った。





「大丈夫。わたしが、凛花を守るからね」





――同じ言葉を聞いた気がした。

 そうだ。今朝の夢の中で。

 胸の奥が、わずかにざわつく。



「……とりあえず、交番に行ってお巡りさんに相談しよ? 変質者に絡まれましたって」



 茜の言葉にうなずき、私たちは並んで歩き出した。

 舗道を踏みしめるたび、胸の中で先ほどの嫌悪がくすぶる。怖い、というより、薄汚れたものを押し付けられたような不快感――それがじわじわと広がっていく。

 どうして私ばかり、こんな思いをしなきゃならないのだろう。









 交番は、街角の小さな郵便局の隣にあった。ガラス越しに、白い蛍光灯の光が机や書類棚をくっきりと照らしている。

 中に入ると、制服姿の若い警察官が一人、椅子から立ち上がった。



「どうしました?」



 茜が事情をかいつまんで話すと、彼は頷きながらメモ用紙を引き寄せ、ペンを走らせた。



「えっと……場所は駅裏の公園で、時間は――」



 事務的に進む筆記。

 けれど、その合間に、ふと彼の心の声が流れ込んできた。



(まあ……最近こういう案件、多いよな。でもこんな可愛い子たちだったら、声かけられるかもな)



 胸の奥が、きゅっと縮む。



――まただ。



 相手がどんな立場でも、私の見た目に触れる思考は容赦ようしゃなく流れ込んでくる。

 報告の言葉を続けながら、私はその雑音を必死に押しやった。

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