第5話
帰りのホームルームが終わるや否や、私は立ち上がった。
茜もすぐに立ち上がり、私のあとをついてくる。
さっきの約束通り、あのクレープ屋へ向かうつもりだった。
「行こっか」
「うん、はやくしないと並ぶよ」
そんな軽いやりとりを交わしながら教室を出ようとした、そのときだった。
「
背後から、低い男の声がかかった。
担任の
角刈りで、肩幅が広く、胸板も厚い。
スーツの上からでも分かるほど筋肉質で、体育教師のような威圧感がある。
けれど実際には、現代文を担当する国語科の教師だ。
「……体調は大丈夫なのか? 授業中、気分が悪くなって退室したと、榊原先生から聞いたぞ」
「……大丈夫です」
必要最低限の言葉だけ返して、私は視線を外した。
葛西先生は、普段はもっと砕けた口調で話すはずだった。だが今日の声には、どこか妙な湿り気があった。
「……そうか。何かあったら、いつでも相談してこいよ」
その言葉に、なぜか背筋がぞわりとした。
――気持ち悪い。
左耳の奥で、キン、と薄い耳鳴りがした。
視界の粒子が、ざわりと逆立つ。
教師としての
反射的に焦点を合わせて、彼の心にピントを合わせた。
次の瞬間、脳裏に――
細い
それは、私だった。
葛西先生の妄想のなかで、私はあられもない姿を
息が詰まる。
私が今まで
教師が生徒に、そんな感情を抱くなんて、あってはならないことのはずなのに――
私は、もう驚きもしなかった。
「……失礼します」
冷たく言い捨てて、私は廊下へと出た。
振り返ることなく、足を速める。
その後ろで、茜が静かに一礼して、私に追いついてくる。
「葛西先生、凛花には……優しいよね」
茜が小さく笑って言った。
「どうかな?」
私は軽くはぐらかす。
「……それより、急ご」
⸻
夕暮れの風が、街の
駅前のロータリーを抜けた先、小さな公園の角にそのクレープ屋はあった。
白を基調にしたワゴン車型の店舗。
窓際にはドライフラワーが飾られ、ピンクのガーランドと電飾が、まるで絵本のページを切り取ったような世界を作り出していた。
ハートの形をした黒板メニューには、チョコバナナ、ベリーベリーチーズ、ティラミス&ナッツ……甘くて可愛い響きが、カラフルなチョークで書き連ねられている。
周囲には制服姿の女子高生たち。
スマホを片手に、笑い声を上げたり、写真を撮ったりしていた。
どこか浮かれた空気に包まれながらも、その中心にあるクレープ屋だけは、きらきらと
「わー、もう並んでる!」
茜が駆け足になって、列の最後尾を見つける。
私たちもその後ろに続いた。
前には、ペアルックの大学生カップル。
後ろには、部活帰りの中学生たち。
甘い匂いと油の香り、そして高揚した心音のようなざわめきが、私たちを優しく包み込んでいく。
「ねえねえ! 凛花は何にする?」
「……そういうの、あんまり分からないから、茜に任せる」
「えっ、任されちゃうの? じゃあね……」
茜の目が、黒板メニューを見つめてきらきらと輝いた。
「まず間違いないのはチョコバナナだけど、見た目の映えならベリーベリー系。
ティラミスは季節限定で、ナッツ入りで香ばしいし……あ、でも最近人気なのは焼きマシュマロクレープなんだって」
彼女はまるで、私にプレゼンをするみたいに、矢継ぎ早に喋りながら手振りまで添えている。
その姿を見て、私はふっと笑ってしまった。
……普通の女子高生って、きっとこういう感じなんだろうな。
やがて、店員さんに呼ばれて順番が来た。
茜は迷いながらも、最終的に「一番映えるやつ二つと、この桃ソーダも二つください!」と元気に注文し、クレープが二つと、桃のソーダを受け取った。
グラデーションの底には小さなゼリーが沈み、長いストローの間を泡がのぼっては弾ける。
「わ……」
私は自然と声を漏らしていた。
クレープのクリームはふわふわで、
クレープとソーダを手に、公園の奥にある白いベンチに二人で並んで腰掛ける。
沈みかけた陽射しが、芝生の端をやわらかく染めていた。
「かわいー!」
茜は、手にしたクレープを背景に、スマホを構えてパシャパシャとシャッターを切った。
指先が器用に角度を変え、光の入り方まで確かめながら夢中で撮っている。
「凛花は撮らないの?」
「私は……いい」
「えー? あ、じゃあさ――クレープとわたしと、一緒に写真撮ろ? ほら、こっち寄って」
差し出されたスマホと、ほんの少しだけ近づく茜の肩。
戸惑いながらも、私は頷いた。
「ほら、もっとこっち寄って」
茜の声に促され、距離がさらに縮まる。
甘い生地の香りと、茜の髪からふわりと漂うシャンプーの匂いが混ざり合い、胸の奥がくすぐったくなる。
そのとき、肩に回された茜の指先が、一瞬だけわずかに強くなった。
スマホの画面に、クレープと私たちの顔が並んで収まった瞬間――
「撮りまーす、はーい」
パシャ、パシャ、と軽快な音が続けざまに響いた。
茜は撮ったばかりの画面をこちらへ突き出し、興奮気味に「見て見て!」と笑った。
思わず私も覗き込み、ふっと口元がゆるむ。
二人並んだ顔と、きらびやかなクレープ――なんだか本当に普通の高校生みたいだ。
「……この写真、SNSにはあげないでね」
「もちろん」
茜は軽く肩をすくめて、悪戯っぽく笑った。
「凛花はそういうの苦手だもんね〜?」
「うん……ありがとう」
「でも、写真はLINEに送るね?」
そう言うと、茜はスマホを器用に操作し、私の端末に軽快な通知音が響いた。
画面に映るのは、笑顔の私と茜、そして色とりどりのクレープ。
ほんの数秒前のことなのに、写真の中の私たちはまるで別世界にいるみたいで――胸の奥が、じんわりと温かくなった。
「食べよっか」
「うん」
包み紙をそっとめくると、甘く香ばしい生地の匂いがふわりと立ちのぼる。
ひと口かじれば、表面はほんのりパリッと、中はしっとりと柔らかい。
濃厚な生クリームが舌の上でとろけ、甘酸っぱい
チョコソースがその甘さをやわらげ、ナッツの香ばしさが後を引く。
――ああ、幸せって、きっとこういう瞬間のことを言うんだ。
そのとき、手元のスマホがふるりと震えた。
画面に浮かんだのは――インスタのダイレクトメッセージ。
送り主は、すぐ隣に座っている茜だった。
『今日も凛花と一緒にいられて幸せ♡』
……あれ?
たった今、LINEで写真を送り合ったばかりなのに。
しかも、こうして目の前で一緒にクレープを食べているのに、わざわざ今?
ほんの一瞬、首をかしげる。
でも、まあ……茜って時々こういうとこあるし。
視線を向けると、茜は口いっぱいにクレープを頬張りながら、指先だけは器用にスマホを動かしていた。
何を打っているのかは分からないけれど、表情はいつもと変わらない。
私はひとつ肩をすくめて、もう一口クレープをかじった。
さっきまでの甘さが、ほんの少しだけ重く感じた。
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