2話 花びらの雨が降る朝
スイレンは小さな溜め息を漏らした。
その顔には年齢に不釣り合いな疲労の色が浮かび、夜の冷気すら拒絶するような静謐さが漂っている。
「……ごめんなさい。あなたには、もう少し先で出会いたかった」
その言葉が意味するものを、ユリは理解できなかった。
だが、次の瞬間。視界の端に“それ”が現れた。
──黒い花。
それは街灯の下、誰もいない歩道の隅に咲いていた。
見慣れぬ黒百合のような花。現実感がないほど漆黒で、不気味に光る花弁が、夜風に揺れている。
「……あれは?」
「“前兆”よ。死んだはずの魂たちが、道標にする印。私たち“視える者”には、それが見える」
スイレンの声は硬く、まるで何かを隠すようだった。
ユリはその言葉に反応しようとしたが、背筋を這うような悪寒が先にきた。
「ここ、危ないわ。早く離れて」
スイレンが手を引く。その瞬間、ユリの頭の中で、声がした。
──”たすけて”
聞き間違いではなかった。誰かが、確かに助けを呼んでいた。
だがその声は遠く、何重にも重なり、まるで壊れた合唱のように響いている。
スイレンは、ユリの腕を掴んだまま言った。
「これ以上深入りしたら、戻れなくなる。……ユリ、あなたにはまだ選ぶ自由があるわ」
「選ぶ……?」
スイレンは苦笑した。
「ワタシたちは、花が咲く前の“種”に過ぎない。どんな花を咲かせるかは、自分次第……なんて、綺麗事だけど」
そのとき、背後から異音が響いた。
ギチギチと歪むような音。花壇の奥、コンクリートの裂け目から──無数の黒い手が這い出していた。
ユリは声を失った。
スイレンが低く言う。
「この世界は、もう始まってるのよ。“終わりの花”が咲く準備は」
そう言って、彼女は懐から一枚の札を取り出した。
「本当は、こんなこと見せたくなかったけど……見てしまったなら、せめて記憶に刻みなさい」
スイレンが札をかざすと、黒い手たちは一瞬怯んだように後退した。
しかし完全に消えることはなく、代わりに、空気がねっとりと歪んでいく。
「ユリ、あなたは──巫女の血を継いでいる」
「……え?」
「もうすぐ“目覚める”わ。そのとき、あなたは知る。自分が“何者”なのか。そして、どんな“結末”を選ぶのか……」
──パチン。
札が燃えた。
一瞬の閃光と共に、黒い花も、這い出す手も、何もかもが消えていた。
ユリは呆然と立ち尽くす。
ただ夜風だけが、騒がしいほどに吹いていた。
「……なんなの、これ……」
「“地獄の入口”よ」
スイレンはそう言い残して、暗がりに消えた。
ユリは一人取り残されたまま、ただ静かに黒百合の花の幻影を見つめていた。
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