序章

序章:翼の織り手


 宇宙複合ステーション「アヴァロン」の長い通路を、宗像リョウは一人歩いていた。

 支給されたばかりの真新しい軍服がまだ身体に馴染まず、硬質なブーツが床を打つ音だけが、やけに大きく響く。


 これから対面する新しい上官、一条彩少佐。

 彼女の名は、前線基地の技術士官であれば誰もが耳にする。

 最年少でアヴァロンの司令官の一翼を担う、冷徹にして完璧な指揮官――それが、リョウの持つ数少ない情報だった。

 やがて目的のプレートが掲げられたドアの前にたどり着く。

 リョウは軽く一度まぶたを閉じ、意を決してドアを三度、ノックした。


「入れ」


 凛とした、けれど耳に心地よいアルトの声だった。

 リョウは襟元を正し、入室した。


「本日付で着任いたしました、宗像リョウ技術中尉であります」


 敬礼と共に発した声は、幸いにも上ずってはいなかった。

 執務室は、軍の施設らしからぬ、意外なほど柔らかな光に満ちていた。

 壁一面の巨大な窓の向こうには、漆黒の宇宙に浮かぶ青い地球が、静かな宝玉のように輝いている。

 その光を浴びるようにして置かれた観葉植物の緑が、目に鮮やかだった。

 そして、そのすべての光と影を背負うように、デスクの向こうに一条彩が座っていた。


「宗像中尉か。長旅、ご苦労だったな」


 シニヨンにまとめられた黒髪は一筋の乱れもなく、その黒瞳はリョウの全てを見定めるように、鋭く、そして静かに注がれていた。

 冷徹、という第一印象を抱かせるのに十分な佇まい。

 だが、その声には不思議な温かみが滲んでいた。


「急な人事異動ですまなかったな。前任が……少々、急ぎの身上都合でな」


 一条は理由をぼかして、手元の端末に視線を落としたまま言った。

 その一瞬の間の取り方に、リョウは何か割り切れない事情の存在を感じ取ったが、もちろん口には出さない。


「いえ、構いません。任務とあらば、どこへでも」

「そうか。頼もしいな」


 一条は口元に微かな笑みを浮かべた。


「知っての通り、ここは最前線だ。だが、それだけに設備への投資は惜しまれていない。お前の腕を振るうには、不足のない環境のはずだ」

「はい。事前に資料は拝見しております」

「それなら話が早い。……ちなみに、宗像技術中尉。こちらは知っているか?このアヴァロン基地に配属されている兵士の男女比は、およそ一対五十だ」


 意外な話題に、リョウは一瞬言葉に詰まった。


「はい、そちらも存じております」

「まさか、君の前に五十人の女性が立ちはだかるとは、思わなかっただろう?」


 一条の冗談めかした口調に、リョウの肩の力がわずかに抜ける。


「驚愕しましたが、これも任務と心得ております」

「フッ、真面目だな。まあ、冗談はさておき……」


 一条の声色から笑みが消え、再び司令官としての厳格な響きに戻る。


「ここは最前線だ。宇宙怪獣――“奴ら”との戦いは熾烈を極める。日々の消耗は、君がこれまで経験してきたどの基地よりも過酷なものになるだろう」


 その言葉は、リョウの背筋を再び緊張させた。一条の黒い瞳が、今度は確かな期待を込めてリョウを捉え直す。


「戦線は膠着状態。いや、じりじりと押されている、というのが正確なところか。奴らの進化速度に、こちらの兵器開発が追いついていない。故に、現場の負担は増す一方だ」


 その言葉の一つ一つが、リョウの鼓膜を叩き、胸の奥に眠る決意を揺り起こす。

 パイロットを死なせたくない。

 あの日のような悲劇を、二度と繰り返させない。

 その一心で、彼は軍の門を叩いたのだ。


「貴官は、前任地のエリュシオンでエース機の整備を担当していたそうだな。期待している」

「……はい。私の持てる技術のすべてを、このアヴァロンに捧げる所存です」

「ほう……」


 一条は、端末の画面を指でなぞる。

 そこには、リョウのさらに過去の経歴が映し出されているのだろう。


「若いのに、大した腕だと聞いている。……なるほどな。実家は町工場か」

「はい。父から、機械との向き合い方を学びました」


 恐縮するリョウの脳裏に、油と鉄の匂いが立ち込める父の背中が蘇る。

 あの無骨で、けれど誰よりも優しい手が、工具の握り方から、金属が発する微かな悲鳴の聞き分け方まで、すべてを教えてくれた。父はいつも言っていた。


「機械は嘘をつかん。応えようとしてくれる。だから、お前も誠心誠意、機械に応えてやらんといかんのだ」と。


「……5年前」


 一条の声が、リョウを追憶から引き戻した。


「“降臨の日”……大規模侵攻で、故郷を」


「……はい」


 リョウは静かに頷いた。

 それ以上、語るべき言葉はなかった。

 故郷を焼き尽くした絶望の色も、空を埋め尽くした異形の群れも、すべては彼の網膜に焼き付いている。

 あの地獄から生き延びてしまった自分が、何をすべきなのか。

 答えは、とうの昔に出ていた。


 一条は何も言わず、ただじっとリョウを見ていた。

 その黒い瞳の奥に、先ほどまでの厳しさが消え、深い、深い悲しみの色が滲んでいるのをリョウは見た。

 それは同情ではない。

 同じ痛みを、あるいはそれ以上の喪失を知る者だけが浮かべることのできる、静かな共感の色だった。


 長い沈黙の後、一条が静かに告げた。


「宗像リョウ技術中尉に、正式な辞令を申し渡す」


 空気が再び張り詰める。リョウは背筋を伸ばし、その言葉を待った。


「君には、本ステーション所属、杉浦咲少尉の専用機『ヘカテ』。及び、神崎ミコト少尉の専用機『アストライア』の専属整備担当を命じる」


「――え?」


 思わず、素っ頓狂な声が漏れた。

 ヘカテとアストライア。アヴァロンが誇る二機のエース機。


 漆黒のヘカテは、量産機ながらエースの超絶的な機動に忠実に応える精密射撃機。

 真紅のアストライアは、パイロットの無茶な要求に限界を超えて応えるがゆえに、消耗が極端に激しいとされる高機動斬撃機。

 どちらも、並の整備士では務まらない、基地の心臓部そのものだ。


「いきなり、二機のエース機を、でありますか……?」

「当たり前だろう?」


 呆然とするリョウに、一条は悪戯っぽく笑いかけた。


「もうこの瞬間から、お前がここの整備班長なんだ。誰がお前以外の人間に任せるものか」


 その固すぎない、信頼を乗せた響きに、リョウは言葉を詰まらせた。

 試されている。そして、信じられている。

 その事実が、驚愕で波立っていた心を、重い覚悟で満たしていく。


「……謹んで拝命いたします」

「結構」


 満足げに頷くと、一条はデスクの引き出しから、一冊のくたびれたファイルを取り出した。


「これが前任者からの引継書だ。よく読んでおけ」


 差し出されたそれを受け取った瞬間、リョウは息を呑んだ。

 それは、単なる書類ではなかった。

 使い込まれて角が丸まり、指の跡で黒ずんだ表紙。

 ページをめくるまでもなく、染みついた手垢と、神経質に何度も書き直されたのであろう文字の圧が、異様な存在感を放っている。

 まるで、前任者の不満と苛立ち、そしてこの任に敗れた者の挫折そのものが、紙という形に凝固したかのようだった。

 リョウは、その奇妙な重さを持つファイルを、両手で確かに握りしめた。

 これはバトンだ。前任者が落とした、重く、そしてあまりに重要なバトン。

 パイロットを死なせない。

 己の技術の全てを懸けて、鉄の翼を完璧に仕上げる。

 それが、故郷を失ったあの日から続く、宗像リョウの戦い方だった。


「宗像中尉」


 一条の静かな声に、リョウは顔を上げる。


「期待している、と言ったな。訂正しよう」


 一条彩は、真っ直ぐにリョウの瞳を見据えて言った。


「お前にしか、できない仕事だ」


 リョウは黙して敬礼した。

 窓の外では、名もなき星が一つ、静かに流れて消えた。


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