第9話 全面解除

初夏。

最後の感染者が寛解へとカウントダウンに入った。

長かったトンネルの先に、ようやくゴールが見え始めていた。

利用者も家族も、そして職員も、希望の光を感じていた。


「クラスター」と呼ばれた現場は、壮絶だった。


休憩が15分しか取れない日もざらにあった。

5日、6日連続勤務を強いられることもあった。


濃厚接触者とならないよう、1回の接触時間を極力短縮する必要があった。

その為、これまで「自立支援」を目的にしていたケアも、全て無視した「最速の介助」が優先された。

本来のケアが行えない事に、葛藤する職員も多かった。


オムツ業者に連絡を取り、吸収率が良いパッドを急ぎ納品してもらった。

利用者との接触を減らす為、オムツ交換回数を減らすという苦肉の策を取らざるを得なかった。

他施設の対応例も情報収集し、当施設でも取り入れていった。


業務委託をしているリネン類や衣類の洗濯も、新型コロナウイルス対応に特化した特別な水溶性ビニール袋を取り寄せて対応した。


感染者が病院等へ入院した後の居室は、原則3日間は完全封鎖とした。

3日経過後に清掃・消毒行う運用だった。


コロナ対応期間中、様々な物資が不足した。

特に困ったのがサージカルマスクだ。

街中でもマスクが品薄となり、介護施設でも例外ではなかった。


プラスチック手袋も不足し、代用品として急遽キッチン用のビニール手袋を使用した。

しかし、これでの介助は極めて使いにくく、作業効率も著しく落ちてしまった。


入浴業務が中止となり、清拭対応へ切り替えた。

清拭剤やドライシャンプーを事務へ早急に依頼し、手配してもらった。


あらゆる物が不足し、ケアに支障が出る毎日だった。

それでも、ケアを止めることはできない。

自分たちで工夫を重ねながら対応を続けた。


高齢者施設における新型コロナウイルスの影響は、感染時だけにとどまらなかった。

本当の戦いは、全面解除になった後に始まった。


認知症状が悪化した利用者、ADL(生活自立度)が低下した利用者。

コロナ対応中、全介助が中心になった影響で、職員に頼めば何でもやってもらえると誤解してしまった利用者もいた。

日常生活に深刻な影響を及ぼす変化が、あちこちで起きていた。


コロナ対応が解除された後も、面会方法はオンラインが続いた。

「うちの人が、私の顔を覚えていないみたいなんですけど。」と家族から訴えられることも多かった。


感染症明けの利用者は、特にADLの低下が顕著だった。

元の状態に戻るまで、数カ月のリハビリが必要となった。


半年後、当施設が導入したタブレット端末を活用したオンライン面会が先駆けとして注目され、新聞社やTVの取材が相次いだ。


100年に1度の危機。

世界でも前例のない「新型コロナウイルス」。

どの対応が正解で、どの対応が適切だったのかは、当時は誰も分からなかった。

情報は錯綜し、不足し、パソコンで検索をしても確立した指針には中々たどり着けなかった。


新型コロナウイルスは、「介護の在り方」「家族の絆」「職員同士の信頼」を改めて見つめ直す機会ともなった。

感染者が出たその瞬間から、それまでの日常の全てが止まった。

利用者の日常、家族の日常、職員の日常。

そのどれもが突然、奪われた。

そんな状況下でも、私たちは「今、できること」を考え続けた。


新型コロナウイルスは、今も消滅したわけではない。

2023年5月8日から5類感染症へと移行した。

マスクを外す人も増え、店舗の出入口にあった消毒液、飛沫感染防止アクリル板、ビニールカーテンも撤去されていった。

世間全体が感染症対策の緩和に向かっていった。


2025年現在、高齢者施設でもサージカルマスクの着用は「標準装備」として続いている。


これは一つの介護施設で起きた、ほんの一コマに過ぎない。

自身の命をかけて、新型コロナウイルスと闘い続けている全医療・福祉従事者にリスペクトを送る。

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「2020ブラックボックス=介護施設における新型コロナウイルスのリアル=」 N @7N96

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