第10話『観測の終わりと、世界の始まり。』
「この結末は、私も……」
途切れたメモの言葉が、私の心に残っていた。
そして、触れることができなかった、もう一人の私の手。
彼女は、すぐそこにいた。私が手を伸ばせば届くほど近くに。
でも、その間に見えない壁がある。
それは、私と彼女を隔てる、時間と主観の境界線。
私は、はやる気持ちを抑えきれずに、是枝先輩の部室へと向かった。
開口一番、私は昨夜の出来事をまくし立てた。
部屋に現れたもう一人の私。進んだ小説のページ。そして、触れられなかった手。
私の興奮した様子に、是枝先輩はいつもの眠そうな目を少しだけ細め、ゆっくりと頷いた。
「見つけたんだな、観波みなも。ついに、君は彼女の存在を**『視覚』**で捉えた」
「はい! あと少しで、触れられそうでした。どうすれば、完全に彼女と出会えますか?」
私の問いに、是枝先輩はホワイトボードの前に立った。
彼が描いた複雑な図形が、私と彼女、そして世界の関係を示しているように見えた。
「君と彼女の境界線を完全に消すには、**『観測の逆説』を極める必要がある」
「観測の逆説?」
「ああ。君は、自分の存在を消すことで、もう一人の君の痕跡を見つけた。だが、完全に彼女と一つになるには、君自身の『存在そのものを、彼女の視点から“観測する”』**必要がある」
彼の言葉に、私は戸惑った。
自分の存在を、もう一人の私の視点から観測する?
それは、どういう意味だろう。
「それは……もう一人の私になる、ってことですか?」
「近いな。君が、彼女の意識の中に入り込み、彼女が見ている世界を、彼女の目で見る。そうすることで、君と彼女の『主観』が完全に重なり合い、分離していた『時間線』が一つになる」
是枝先輩は、そう言って、ホワイトボードの二つの円が完全に重なるように描き直した。
「でも、どうすればそんなことが……」
「それは、君自身が、君が最も君らしくいられる場所で、**『自分を忘れるほどに没頭すること』**だ」
彼が言うには、私が本当に心を許し、時間を忘れて集中できる瞬間こそが、私と彼女の境界線が最も曖昧になる時だという。
その時、もう一人の私との意識の共有が、可能になる。
「例えば、君が昨夜、小説に没頭したように。あの時、君は自分の存在を意識していなかったはずだ。それは、君が『空白』になったと同時に、もう一人の君の意識と繋がろうとした瞬間だった」
私は、昨夜の出来事を思い出した。
小説を読み進めるにつれて、周りの音が消え、物語の世界に吸い込まれていくような感覚。
あの時、私は確かに「私」という意識を失っていた。
「そして、その時に君が『見たい』と強く願うことだ。彼女が見ている景色を。彼女の目を通して、君自身を」
彼は、私の目をまっすぐ見つめて言った。
その目は、いつもの眠そうな目ではなく、強い光を宿しているように見えた。
私は、再び自分の部屋に戻った。
机の上の小説を手に取る。
もう迷いはなかった。
私は、椅子に深く腰かけ、物語の世界へと深く潜り込んでいく。
ページをめくる。一文字一文字を追いかける。
登場人物たちの感情が、まるで自分のことのように心に響く。
時間が、止まったように感じられた。
私の意識は、小説の世界に完全に没頭し、私自身の存在は薄れていく。
そして、私は願った。
もう一人の私が見ている景色を、見たい。
もう一人の私が、私を見ているその瞬間を。
その時だった。
部屋の空気が、震えるように歪んだ。
私の視界が、一瞬にして反転する。
見慣れた自分の部屋が、しかし、少しだけ違う。
本棚の配置。壁に貼られたポスターのデザイン。窓の外の光景。
全てが、微妙に、しかし確かに、**“古い”**のだ。
そして、私の目の前には、私と同じ制服を着た少女がいた。
彼女は、私と同じ椅子に座り、私と同じ小説を読んでいる。
その顔は、私と全く同じ。
違うのは、彼女の目が、今、私をしっかりと見つめていることだった。
もう一人の私が、私を観測している。
彼女の瞳に映る私。それは、私がいつも鏡で見ている自分とは違う。
なんだろう、この感覚は。
自分の存在が、彼女の視線によって、世界に確かに刻み込まれていくような。
今まで感じたことのない、揺るぎない確かな存在感。
「あなたは……私?」
私の声が、彼女の口からも発せられる。
二つの声が重なり、一つの響きになる。
私たちの間にあった見えない壁が、ゆっくりと消えていく。
二つの主観が、一つの世界で、完全に重なり合った。
それは、私の『空白』が埋まる瞬間。
そして、私が、この世界に確かに“存在”する、本当の始まりだった。
『私が消える世界で、君だけが私を観測(み)ている。』 @ruka-yoiyami
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