百年の残響・4・チョニョ鬼神

 桜木のマンションは、野毛にある2DKの一室だった。

 桜木が鍵を開け、翠蓮と先に入り、電気をつけた。


「おじゃまします。」


 琴音が玄関から入ろうとして、目を見開いて固まる。

 無造作にボサボサを束ねたちょっとむさ苦しい髪型の、メガネをかけた、ゆるい服装の推定アラサーの女が、膝の上にはノートパソコンを乗せ、部屋の天井ににあぐらをかいて上下逆に座っていた。


「いるいるいるいる、いるいるいるいる!」


 琴音は、ただただ震えながら、そう繰り返すことしかできなかった。

 この霊は、ムンダル鬼神とは違う。怨みや無念は感じない。しかし、その強烈な存在感と、あまりにもリアルな姿が、琴音の恐怖を掻き立てた。


「琴音?どうしたの?」


 翠蓮は、琴音の顔色を見て、心配そうに尋ねた。桜木もまた、困惑した表情で首を傾げた。彼らには、目の前にいる霊の姿は、全く見えていなかった。


「あら、見えるんだ?」


 浮いてる女の問いに、琴音はただコクコクと頷くことしかできなかった。


「白石琴音です。あの、あなたは? 」


 琴音が勇気を出して語りかける。翠蓮と桜木は誰と会話をしているのかと訝しげに天井をみている。面倒くさそうな顔をして、アラサー女が答える。


「キム・ハユン。てか、私は、ここで一人でBL小説創作してただけの何の悪さもしない喪女よ。あの男の子より、私のほうが先に住んでたんだけど。」


 その言葉に、琴音は息をのんだ。

 琴音は、一年も前に作った「䷃」と書き込まれた符を取り出した。この符を使う日が来るとは思ってもいなかった。この符は周囲の者に把握しがたい状況を認識させる符である。


「……山水蒙さんすいもう」琴音が唱えた。


 部屋の空気が一変する。湿度が高くなったかのような、重く粘りつくような感覚。

 同時に、翠蓮と桜木の表情が変わった。翠蓮は眉をひそめ、桜木は驚きに目を見開いた。


          ・


 ハユンを目の当たりにした翠蓮が、思わず口を開いた。


「なにこのオバはん。」


 その言葉に、ハユンは顔をしかめる。


「オバハン…? これでもまだ二十代よ。ああ、そうね死んでから三年経つからもう三十路。しくしく。」


 ハユンは涙を流すような仕草をしながら、翠蓮たちを睨みつけた。


「ねー、なんで邪魔するの~?」

「うるさい! リア充、リア充爆発しろ~!!」


 ハユンは叫ぶ。そして桜木を見て語り掛ける。


「一人寝で寂しく、思いわずらってた頃のあなたにはシンパシーを感じていたというのにー。」

「え、僕のこと見てたんですか。」

「ええ、全部。ひとり布団の中でしてたことも含め。」


 ハユンの容赦ない告白に、桜木は顔を真っ青にして言葉を失った。


「大丈夫。桜木君のこと、アーシは全部うけとめられるから、ね。」


 翠蓮は落ち込む桜木の手を、両手で包み込むように握りしめ、優しく慰める。桜木の表情が複雑に和む。


「あー、全くーっつイチャイチャイチャイチャ、爆発しろ~!!」


 ハユンの怒りの叫びに呼応するように、部屋のテーブルがガタガタと軋む音を立てた。

 説明するより、早いだろうと、ハユンを見える化した琴音は少し反省し、頭をかかえた。


「ええと、ハユンさん。ここから別の場所に移っていただくことはできますか?」


 琴音は恐る恐る、ハユンに問いかけた。


「……他に居場所がないので、無理です。」


 ハユンはぷいと顔をそむける。


「大船のお寺…とかではどうでしょうか?」


 琴音が提案すると、ハユンは顔をしかめた。


「Wi-Fi入らないとことかありえない。」


 その言葉は、彼女が死んでからも、インターネットという繋がりを求めていた、孤独な魂の叫びのように聞こえた。


(比丘尼師匠に相談して、お寺にWi-Fiを引いてもらえるかな……難しそうね。)


「わかりました、どうあってもダメなんですね。」


(このままでは、彼女の執着が強まり、本格的な霊障を引き起こすかもしれない。)

 琴音はきっぱりと言う。ハユンを説得することは諦めた。


「い・や・で・す・!なんでこんな小娘に従わなきゃならないのよ!」


 ハユンが癇癪を起こしたように叫ぶ。


「ハユンさんが何に執着しているのかはわかりません。でも、あなたの執着を解放します。それがあなたのためになると思います。」


 琴音はポケットから昨夜作った符を取り出した。その気配に気づき、ハユンが強張る。


「何すんの!」


 琴音は準備していた除霊の卦術を発動する。


「……雷水解らいすいかい!」


 符が消失し、琴音の左手に光が宿る。その手をハユンにかざした。


「いやだーっ!!絶対に、絶対に消えないからねー!」


 ハユンの叫びとともに、効果なしに雷水解の光は霧散して消える。琴音は呆然とする。


「ほほほはは、私はこう見えてもチョニョ・グウィシンよ。邪神の端くれよ、そんなもので祓えると思って!」


 チョニョ鬼神グウィシン──その言葉に、琴音は目を見張った。


「あなた、私と同じね。なら伝わるかしら……私は生きてたときから、老処女ノチョニョって蔑まれてたのよ。わかる?この生涯、誰に愛されることもなく、幸せを味わえなかった辛さ!どうせ愛されるわけもない存在。」


 ハユンは自分を卑下しながら、絞り出すように琴音に自身の深い悲しみと怒りをぶつけた。

 その言葉は、単なる八つ当たりではなく、生前抱え続けていた孤独と絶望が凝縮されたものだった。

 琴音は、その言葉の重みに、まるで自分の胸に突き刺さるような痛みを感じた。

 人には理解されない孤独。愛されぬままの人生。

 それは、ハユンという「グウィシン」を形作る、悲しい真実だった。


          ・


「ただいまー。」


 琴音が帰宅すると、母親の美琴が玄関で出迎えた。


「お帰りな……。」


 美琴は言葉を失う。琴音に憑いてきたのは、ボサボサの髪の毛を束ねただけの、無造作な見た目の女性の霊だった。


「この方、どうしたの?」

「いろいろあって、居場所がないっていうから、連れてきちゃった。うち、Wi-Fiもあるし。」

「お父さんの部屋、空いてるよね。居場所だけでいいって。」


 琴音の言葉に、ハユンが申し訳なさそうに美琴に頭を下げる。


「あの、ごめんなさい、キム・ハユンです。ご迷惑はおかけしませんので……。」


 ハユンは、霊になってもなお、人との関わりに不慣れな、どこか寂しげな表情だった。

 美琴は少し考えてから、優しく微笑んだ。その眼差しには、娘の行動を理解し、受け入れる深い愛情が宿っていた。


「わかったわ、いいわよ。でもハユンさん、ちょっとあとで、リビングに来て。」

 その言葉には、「あなたとじっくり話がしたい」という、静かな意志が込められているようだった。


 琴音は、母親がハユンの存在をすんなりと受け入れてくれたのが、本当にありがたかった。



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チョニョ・グウィシン

https://ja.wikipedia.org/wiki/処女鬼神

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卦術演算系(Diretor’s Cut) 大電流磁 @Daidenryuji

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