百年の残響・3・朝のスパーリング

 琴音は、無力さに打ちひしがれ、夜明け前の山下公園のベンチに座っていた。夜の冷たい空気が、彼女の心まで凍らせるようだった


 役禍角との対話を思い返す。


鬼神グウィシンの心を救う方法はあるんでしょうか」

「要は、陰陽道でいう疫神、荒ぶる神だ。はらえないなら、まつってお願いするしかねえんだろな。素戔嗚尊スサノオノミコトみたいなもんだ。祀り。祭りか。考えるか。」


 琴音は、その言葉を何度も反芻していた。自分の力ではどうすることもできない。では、どうすれば彼らを救うことができるのか。夜明けの空が徐々に明るさを増していく中、琴音はただ静かに、その答えを探し続けていた。


 日曜の朝、港に日が昇り始める。汽笛の音が聞こえてきた。


 ベンチに座り込んでいた琴音が、ふと顔を上げると、見慣れた顔が視界に入った。

 朝日に照らされた翠蓮が爽やかな汗をかきながら、こちらに近づいてくる。


「あれ? 琴音じゃん。」


 朝のロードワークに通りかかった翠蓮が、驚いた顔で笑いながら声をかける。となりにはトレーニングウェアに身を包んだ青年がいた。


「翠蓮だー。おはよう。そちらが桜木さんね。昨日も見たよ。邪魔しちゃだめかなっておもってたけど」


 琴音の言葉に、翠蓮は顔を真っ赤にして口をとがらせる。


「もー。見てるなら声くらいかけてよー。」


 琴音の服装を見て、翠蓮が不思議そうに尋ねる。


「なんか装備フル装?なんか事件でもあった?陽介ちんは?」

「今日は、私だけかな。」


 琴音の言葉に、翠蓮は少し不満げに眉をひそめた。


「ふーん。話してくれないんだ。なんか、一人で抱え込んでるっぽいじゃん。ちょっとモヤるから、アーシとスパーしようか。」

「えっ?」


 翠蓮は桜木を振り返り、悪戯っぽい笑顔で言った。


「桜木くーん、ちょっと審判やってちょーだい。」


 流れで、軽くスパーリングをすることになった。

 琴音は、彼女の強引さにも、不思議と抵抗を感じなかった。

 むしろ、このまま重い空気に囚われるよりも、身体を動かせば少しはすっきりできそうな気がした。

 ありがたい申し出だと感じ、さすがに鉄板安全靴は危険なので、脱ぎ、裸足になった。


「ルール。琴音が”靴なし”だから、アーシも"猫なし"でいくね……で、勝ったほうが何か、お願いできる。」

 そう言って、翠蓮もスニーカーを脱ぎ、足の指を広げて地面の感触を確かめる。

(猫なし?足の爪のことか?)桜木は不思議そうな顔をした。


 スパーリング開始。翠蓮はイチダース戦で見せた、鷹爪拳ようそうけんの構えを取り、待ちのカウンター狙い。

 構わず琴音は長いリーチを活かし、ジャブと前蹴りで翠蓮を牽制。

 しかし翠蓮は防御で攻撃を捌きながら、距離を詰めるタイミングを図っていた。

 琴音が右脚を上げ、ムエタイの前蹴ティープを打とうとすると、翠蓮は速く、滑らかに素早く払いのけ、横に回り込んでいなした。

 琴音は体勢を立て直し、ミドルキックを放ち、翠蓮の足を止めようと試みる。

 翠蓮はその脚を掴み琴音の体勢を崩しにかかる。

 接近戦になったところ琴音は翠蓮の後頭部に手をかけ、首相撲からの膝蹴りを狙う。

 翠蓮も負けじと、琴音が伸ばしてきた腕を「鷹の爪」で掴み、関節技に移行しようと試みる。

 互いに掴み合い、相手の一瞬の隙を狙う身体のコントロール合戦が繰り広げられた。

 琴音が少し距離を取った瞬間、迂闊に伸ばしてきたストレートの腕を、翠蓮が素早く掴み、ひねって肩関節を極めた。


「そこまで!」


 桜木の合図でスパーリングは終了した。翠蓮の勝利である。


「勝ったー! 勝てたよー、琴音にー! やったー! なんか勝ち焦ってたよねー」

「くーっ! 悔しい〜。動きがずっとしなやかになってる!」

(それに比べて私は、焦りすぎて動きが固かった。役禍角さんから聞いた話が、まだ頭を支配している…。)


 翠蓮の勝利に、二人は笑顔で健闘を称え合った。


「二人ともすごいな。僕は翠蓮が戦ってるとこ初めて見た。人間ってあんな動きができるんだ。」


 桜木はいつの間にか、翠蓮を名前で呼んでいた。


「じゃあ約束通り、何か一つお願い聞くね、何か奢ろうか」

「にししー。じゃあ除霊を一つ。お願いしようかなと。」

「除霊?」

 翠蓮は笑顔のまま、少しだけ真剣な眼差しを琴音に向けた。

「桜木くんの部屋、なんかいるの。」


 翠蓮の推測では、それはポルターガイストかもしれない、とのことだった。


「部屋で二人で過ごすときに、静かになると、棚の上の物が突然落ちたり、テーブルがガタガタガターって震えたりして……。」


 桜木は困ったように話す。

「前はそんなことなかったんですよ。」


 翠蓮がちょっと不満そうにいう。

「ふたりで、いいムードになって、見つめ合ったときに限って、嫌がらせみたいなのー。」


 翠蓮の「いいムード」の描写に桜木は少し顔を赤らめた。


 琴音は、二人の話を聞いて、思わず口元を緩ませた。自分たちが向き合っているのは、百年前の悲劇と虐殺。それに比べて、この可愛らしい恋に繋がる悩みは、何だか心が温かくなるような気がした。


 翠蓮と桜木の会話を聞いていた琴音は、ふと、ポケットの中に入っている符に意識を向ける。

(自分の力が通用しないって、おちこんだけど、この符が役に立つ場面もちゃんとあるんだ。)

 昨夜、鬼神には効果がないと知った『雷水解』の符。だが、ポルターガイストくらいなら解決できそう。『雷水解』は妖怪・金華猫の憑依すら解放する能力がある。

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