第15話 海郎、考える

 その女性が菊菜だと分かった瞬間、様々な思考が凄まじい速さで俺の脳内に渦巻いた。


 なぜ菊菜がここに?

 いや、別人かもしれないじゃないか。

 でも、こっちを見てるぞ。

 てか、今更一体何の用だ?

 もしかしたら、もっと寄越せってことか?

 一応渡すべきものは渡したぞ、あくまでも契約上仕方なくだが。

 まさか、摩衣李のことか?


 そんな錯乱状態にも近い脳内状況であったにも関わらず、俺の口から出た言葉は、


夕飯ゆうめし食いに行くんだけど、行く?牛丼でよければだけど……奢るよ」

 だった。


 そんな俺の間の抜けた言葉に菊菜は、

「……うん」

 と、やや視線を横に外しながら静かに答えた。


(なんだかいつもと違う、かな……?)


 とはいえ、もう四年近く会っていないのだから「いつもと」という表現が妥当か分からないが。

 だが少々疲れ気味に見えるのは確かだ。


 菊菜の横には旅行用の大きなキャリーケースが置いてある。

 出張の帰りなのだろうか?あのバッグを引いて牛丼屋にいくのは煩わしいだろう。


「その荷物、ウチに置いておく?」

「うん……」


 菊菜のキャリーケースを玄関口に置いて、俺と菊菜は歩き出した。牛丼屋へと向かって。


(それにしても、一体何の用だろう?)


 菊菜と並んで歩きながら俺は考えた。

 ちらっと菊菜を見るとうつむき加減で俺の斜め後ろに付いてくる。


(こういう時って俺から聞いたほうがいいのかな……)


 このままでは菊菜から何かを話してくれそうにも思えない。

 俺の正直な感想を言えば、今の菊菜は菊菜らしくない。

 俺の知っている菊菜は、頭が良くて話にもキレがある意識高い系の才女だ。

 多少上から目線のところはあるが、決断も早く行動力もある。


 そういう女性を煙たがる男もいる。だが俺みたいな陰キャ非モテで女性慣れしていない男からすると、そこが却って頼もしく思えたりするのだ。


 だが今の菊菜にはそれが微塵も見えない。

 俺の横にいるのは、覇気がなく自信なさげで頼りなく弱々しい女性だ。


(もしかしたら仕事でなんかやらかしたのかな?)


 牛丼屋に着くとテーブル席に着いた。

「大盛りセットで、いい?」

 俺はろくに考えもせずに、菊菜も自分と同じものを頼むだろうと既にタブレットで注文しながら言った。


「うん……」

 と菊名は答えたが、それを聞いて俺は急に恐ろしくなった。

(やべーー緋之原さんにも普通に大盛りとか頼んじゃったよーー怒ってねぇか?)


 その場の流れで牛丼屋に来てしまったが、そもそも菊菜は牛丼屋に来るようなキャラではない。

 少なくとも食事はファミレスかバーガーショップ、普通は食事メニューもあるカフェにくる人種だ。


 俺は恐る恐る菊菜を見た。

 うつむき加減で表情はよく分からないが少なくとも怒ってはいないようだ。


「あの、牛丼でよかったかな、今更だけど」

「うん……」

 菊菜は下を向いたままで答えた。

 そして沈黙。


(うーーん、どうしたらいいんだろう……)


 菊菜の大人しくてしおらしい様子からすると、俺に後ろめたい気持ちを持っているのかもしれない。当然と言えば当然だ。


 後で資金を出すと言っておきながら、結局は全額俺の負担でマンションを購入した。

 そしてほぼ一方的に離婚を申し出てきて、財産権を主張して支払い分と売却益の半分を要求してきた。


 そして、引き取った摩衣李の養育のことも……いや、摩衣李のことは別だ。

 摩衣李のことは俺の方から感謝してもいいと思っている。


(まあ、もう少し摩衣李のことを気にかけてやってほしかったけど……あ)


 俺は会話の糸口を見つけた気がした。

「あのさ……」

「お待たせしましたぁ、こちら大盛りセットになりますぅ」

 ちょうどいいところで、店員さんが牛丼大盛りセットを持ってきてくれた。


「えっと……とりあえず食べましょう」

 やっと掴んだ会話の糸口が途切れて調子が狂ってしまったが、なんとか取り繕って俺が言った。

「はい……いただきます」


 静かな夕食が始まった。

 一人が長かった俺は、食事は一人でするものというのが体に染み込んでいた。

「一人でする食事は味気ない」とはよく聞く話だ。

 だが今俺は新たな発見をした。

 たとえ二人でする食事でも無言の食事は味気ない。それどころかろくに味も分からない。


(これも、家族というものを知った代償なんだろうか)

 などという一端いっぱしのことを考えたりした。


「あの……」

 俺はさっき思いついた糸口を話そうと試みた。

「はい……」

 菊菜が小さく答えた。


「摩衣李の写真とか動画は、見てくれてた……?」

「はい……」

「そう……」

「……」


(終わってしまった……)


 そもそも陰キャ非モテの俺は女性との会話が苦手だ。ある種の恐怖心すら抱いている。

 菊菜と俺は元夫婦だ。たが契約結婚という特殊な形での夫婦だった。


 結婚前のお付き合い(と言っていいのか疑問はあるが)の時も結婚後も、ほとんどの場合菊菜が主導して会話が進んでいた。

 ある意味俺はそれに甘えていたとも言える。


 だが今は、その菊菜が全く主導権を握ろうとしてくれないのだ。

 まあ、菊菜に主導権を握ってもらおうと考える時点で駄目なのだとは思うが……


 そんなふうにして、一人頭の中でせめぎ合いながら、味もろくに分からずに牛丼を食べ終えた。


 菊菜も俺が食べ終わって間もなく食べ終わった。

(結構たくさん食べるんだな、緋之原さん)

 などと余計なことを考えてしまった。


「それじゃあ……」

「うん……」

 俺達は立ち上がって出口に向かった。


(このまま帰っていいのかな……)

 アパートへの道を歩きながら俺は考えた。


 ここまでくると、さすがに鈍感な俺でも菊菜は俺に何か話があるのではないかと思い始めてきた。


(アパートの部屋で話していいものかどうか……)


 俺と菊菜は元夫婦だとはいえ、本当に形の上だけの夫婦だった。

 二人の間には夫婦らしいことはほとんどなかった、悲しいことに……


 ならばと思い、俺は少し道を変えることにした。

「あの、コーヒーでも飲んでいかない?食後だし」

 部屋で二人で面と向かうより、多少ノイズがあるほうが話もしやすいだろうと思ったのだ。

「うん……」


 こんな俺でもたまにはカフェというものに足を向けることもある。

 摩衣李を引き取ってからは滅多に入ることはなかったが、一人の頃は好きな本を読みながら長居したものだ。


 店に入るとちょうど奥の席が空いていた。

「こういう所のほうが話もしやすいと思って」

 席に着いて俺が言うと菊菜は顔を上げて心持ち表情を緩めた。

「何か俺に話があるんだと思うけど」

「……」

「まずは摩衣李の話しをしない?」

「……うん」


 俺は菊菜が出て行ってからのことをゆっくりと話し始めた。

 俺自身記憶が曖昧なところもあるので、スマホを取り出して過去のスケジュールを見ながら話した。

 そして、メモリの大半を占めている摩衣李の写真や動画を菊菜に見せながら、摩衣李がどれほど素晴らしい娘なのかを熱く語った。

 その間菊菜は頷きながら「うん」とか「わぁ」と言いながら聞いてくれていた。


「最初は大変だったけど、ユウノさんが来てくれてからは随分楽になってさ……そういえばユウノさんのこと知ってる?」

「え……?」

「家事育児のアンドロイドさんなんだけど、実はAGIアンドロイドじゃなくてさハーフアンドロイドなんだよ」

「ハーフアンドロイド?」

「うん、アンドロイドの身体に脳を移植したんだって」

「ということは……」

「そう、ユウノさんは木綿野ゆうの璃々奈りりなさんだったんだよ、緋之原さんの親戚の」


 菊菜には全くの初耳だったようで、驚いた顔のまま固まってしまった。

「私、璃々奈さんと鞍人さんは助かる見込みがないからって、だから……」

「実際、そうだったらしいよ。助かったのは奇跡だって」

「そうだったのね……よかった」

 菊菜がそっと言った。


 今日菊菜が口にした言葉で、初めて感情がこもった言葉だった。


「そうしたら摩衣李は……」

「うん、今日璃々奈さんと鞍人さんと一緒に引っ越していったよ」

 俺はこみ上げてくるものをグッと堪えて言った。


 菊菜はそんな俺を見ると、

「之々良さん、摩衣李のこと本当にありがとう。そしてごめんなさい」

 と言って深々と俺に頭を下げた。


 改めて菊菜にそう言われるとドギマギしてしまう。

「あ、うん、俺もやれることはやったつもりだけど、どこまでできたか」


 菊菜は頭を上げると真っ直ぐに俺を見た。心なしか震えているようにも見える。


「之々良さん、私……あなたにとても酷いことをしてしまいました」

「緋之原さん……」

「必ず、償います。本当にごめんなさい。今日はそれを言いたくて、来ました」


 菊菜は再び下を向いてしまった。

 俺はしばらくの間何も言えなかった。

 というより、脳みそをフル回転させて様々な可能性を割り出そうとした。

 そしてあることに思い至った。


「あの、緋之原さん、一つ聞きたいんだけど」

「はい」

「この前電話をかけたら繋がらなかったんだけど、もしかしたら……」

「……!」

 菊菜がビクッとして身体を固くした。


(やっぱりか)


「緋之原さん」

「……はい」

「今夜、ウチに泊まってく?」


 ハッとしたように菊菜が顔を上げた。

 そこには驚きとともに今日初めてみせる安堵の表情が浮かんでいた。



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