第2話 ヒーローな僕
一条栞は、生きている。
その事実が、僕の混乱した頭の中で、唯一確かなこととして反響していた。
彼女に挨拶を返せないまま、僕は幽鬼のような足取りで自分の教室へたどり着いた。席についても、周囲の喧騒は遠い世界の出来事のように聞こえる。前の席に座るクラスメイトの背中、窓から見えるありふれた風景、黒板に書かれた今日の予定。そのすべてに、全く現実感がない。まるで、自分と世界の間に、一枚の薄い膜が張られてしまったかのようだった。
あれは、夢だったのだろうか。
旧視聴覚室の、あの惨劇は。
僕の脳が作り出した、最悪の幻覚だったのだろうか。
そう思おうとすればするほど、脳裏に焼き付いて離れない光景がある。虚ろに天井を見つめていた、彼女の瞳。赤黒く染まった床。そして何よりも、僕の手のひらに残る、あの生命の欠片も感じられない、絶望的なほどの冷たい感触。あれだけは、絶対に夢や幻覚ではあり得ない。僕の身体が、僕の五感が、あれを「現実」として記憶している。
僕はポケットからスマートフォンを取り出し、画面を点灯させた。
【11月18日 (月) AM 8:45】
日付を、何度も、何度も確認する。僕は隣の席の、特に親しくもないクラスメイトに、思わず「今日って、11月18日の月曜日…だよな?」と、馬鹿な質問をして、奇妙な顔をされた。
「……いや、なんでもない」
僕はそう言って、再び自分の殻に閉じこもった。
やはり、そうだ。日付は巻き戻っている。僕が体験した「昨日」は、この世界の誰の記憶にも存在しない。僕だけの、孤独な記憶。
授業が始まっても、僕の混乱は収まらなかった。教師の声は、意味をなさない音の羅列となって僕の鼓膜を滑っていく。僕はただ、虚空を見つめていた。
その時だった。
不意に、目の前の光景がぐにゃりと歪み、あの旧視聴覚室の光景が、鮮烈なフラッシュバックとなって僕の脳を襲った。
――カビと埃の匂い。
――西日に照らされて金色に光る、空気中の塵。
――そして、床に倒れ伏す、一条栞。
――虚ろな瞳。
――赤黒い血溜まり。
「うっ……!」
僕は思わず、呻き声を上げていた。息が詰まる。心臓が鷲掴みにされたように痛む。
「桜井? どうかしたのか?」
教師の訝しげな声で、僕は我に返った。クラス中の視線が、僕に突き刺さっている。
「いえ……なんでも、ありません……」
僕はそう答えるのが精一杯だった。
間違いない。あれは、絶対に夢じゃない。僕の魂に刻みつけられた、紛れもない現実だ。
では、なぜ。
なぜ、栞先輩は生きている?
なぜ、僕は朝のベッドに戻っていた?
そして、なぜ、世界は何もなかったかのように、同じ一日を繰り返している?
答えの出ない問いが、僕の頭の中でぐるぐると回り続ける。まるで、出口のない迷路に迷い込んだかのようだった。
◇
昼休み。僕は、教室の息苦しさから逃げるように、その場所へと向かっていた。
屋上。
錆びついたドアには『関係者以外立入禁止』の古びた札がぶら下がっているが、鍵がかかっていないことは、美術部のスケッチ場所を探している時に偶然見つけていた。僕はためらうことなくその札を無視し、重い鉄の扉を押し開けた。
途端に、冷たい風がごうっと音を立てて僕の頬を撫でていった。眼下には、僕たちが通う碧翠学園の全景と、その向こうに広がるミニチュアのような街並みが広がっている。どこまでも続く灰色の屋根、その間を縫うように走る道路、ゆっくりと動く車の列。そのちっぽけな世界の光景が、僕の混乱しきった頭を、少しだけ冷静にさせてくれる気がした。
僕は錆びたフェンスに寄りかかり、ポケットからクロッキー帳と鉛筆を取り出した。何かを描くためではない。思考を、整理するためだ。
僕は、誰もいない屋上の真ん中で、一人、必死にこの異常な状況を整理しようと試みた。
まず、事実を書き出そう。
僕はクロッキー帳の真っ白なページに、震える手で書きつけた。
1. 事実①:僕は昨日(?)、旧視聴覚室で、一条栞先輩の死体を見た。
これは、動かせない。あの感触、あの匂い、あの光景。僕の全てが、それを「真実」だと叫んでいる。
2. 事実②:しかし、今日、彼女は生きている。
これもまた、疑いようのない事実だ。僕は今朝、校門に彼女はいた。彼女は、確かに生きて、呼吸をし、僕に微笑みかけた。
3. 事実③:そして今日は、彼女が死んだ日と、全く同じ「11月18日」である。
僕のスマートフォンも、クラスメイトも、それを証明している。
この三つの事実を並べてみると、導き出される結論は、常識的には考えられない、たった一つの可能性しかなかった。
僕は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
映画や、小説や、漫画の世界でなら、何度も見たことがある。
「時間が、巻き戻る」現象。
――タイムリープ。
その言葉を頭の中で呟いた瞬間、馬鹿げている、と自分でも思った。そんな非科学的なことが、この現実世界で起こるはずがない。疲れているんだ。きっと、あの惨劇のショックで、僕の精神は異常をきたしてしまったんだ。
しかし、否定すればするほど、あの絶望的な光景のリアルさが、脳裏に鮮明に蘇ってくる。否定すればするほど、この状況を説明できる他のどんな論理も、脆弱に思えてくる。
もし、本当に。
本当に、僕だけが、時間を遡っているのだとしたら。
それは、一体、何のためだ?
なぜ、僕なんだ?
なぜ、この日なんだ?
答えは、一つしか思い浮かばなかった。
僕が、旧視聴覚室で、彼女の死体の第一発見者になったから。
僕が、彼女の死を、誰よりも深く絶望したから。
だから、運命が――あるいは、神様のような超越的な何かが――僕に、もう一度チャンスを与えてくれたのではないか。
『彼女を、救え』と。
その考えに至った瞬間、僕の心臓が、恐怖とは違う、別の理由で大きく高鳴った。
絶望的な暗闇の中に、一条の光が差し込んだような感覚。
そうだ。これは、罰じゃない。試練でもない。
これは、チャンスなんだ。
僕に与えられた、奇跡なんだ。
僕が、一条栞を救うんだ。
僕だけが、彼女を救うことができるんだ。
その考えは、自己肯定感の欠片も持ち合わせていなかった僕の心に、抗いがたいほどの甘美な響きをもって染み渡っていった。
いつも教室の隅で息を殺し、誰かに助けられることなど期待もせず、ただ風景の一部として生きてきた僕が。
あの、手の届かない、完璧な聖女(ひと)を。
僕が、この手で、救い出す。
僕が、ヒーローになるんだ。
その瞬間、僕の中で、世界が反転した。
さっきまで僕を苛んでいた絶望は、一瞬にして、燃え盛るような使命感と、身震いするほどの高揚感へと変わっていた。眼下に広がるちっぽけな街並みが、まるで僕がこれから救うべき世界のように見えた。
フェンスを握りしめる僕の手に、力がこもる。
待っていてください、先輩。
僕が、必ず、あなたを救ってみせる。
この理不尽な運命から、僕が、あなたを。
◇
決意は、僕を即座に行動へと駆り立てた。
昼休みが終わると、僕は放課後のチャイムが鳴るのを、今か今かと待ち構えていた。今朝までの、告白への期待と不安とはまったく違う、戦場に向かう兵士のような緊張感。
チャイムが鳴り響くと同時に、僕は鞄を掴んで教室を飛び出した。向かう先は、図書室だ。
戦うには、まず敵を知らなければならない。
図書室の、一番奥の人目につかない席に陣取ると、僕は再びクロッキー帳の新しいページを開いた。これから始まる戦いのための、最初の作戦会議だ。
まず、思考を整理する。
僕はページの真ん中に、大きく『一条栞救出作戦』と書き込んだ。
【分析①:犯人は誰か?】
これが、最も重要で、最も難しい問題だ。
僕の知る限り、一条栞先輩は、誰からも好かれていたはずだ。彼女を恨む人間なんて、想像もつかない。
しかし、それは表向きの顔かもしれない。光が強ければ、影もまた濃くなる。彼女のような完璧すぎる存在を、心の底で妬んでいた人間が、一人や二人いなかったとは言い切れない。
僕は、記憶の糸を必死に手繰り寄せた。
あの時、旧視聴覚室のドアの向こうに感じた、微かな気配。遠ざかっていく、靴音。あれは、誰だったのか? 男か、女か。背格好は? 何も見ていない。何も分からない。
犯人の特定は、現時点では不可能だ。
だが、それでいい。今は、犯人を見つけることよりも、優先すべきことがある。
【分析②:どうすれば救えるか?】
犯人が誰か分からない以上、最もシンプルで、最も確実な方法は一つしかない。
彼女を、犯行現場に近づけさせないことだ。
事件が起きたのは、旧視聴覚室。
あそこに行かなければ、彼女は殺されない。事件そのものが、発生しないはずだ。
そうだ、これしかない。
僕は、具体的な計画を鉛筆で書き連ねていった。
【計画名:聖域防衛作戦】
なんだか、中学生が考えそうな名前だな、と少しだけ自嘲したが、今の僕には、そのくらいがちょうど良かった。
【目的】
一条栞を、犯人の魔の手が及ばない安全な場所へ誘導し、犯行時刻である放課後を無事にやり過ごす。
【ステップ1】
栞先輩に接触し、今日の放課後の約束の場所を変更してもらう。
告白の約束は、僕が持ちかけたものだ。場所の変更を申し出ることに、不自然さはないはずだ。
【ステップ2】
変更場所の理由を、彼女が納得できるように、かつ、警戒心を与えないように説明する。
ここが重要だ。「あなたが殺されるから」なんて、口が裂けても言えない。言ったところで、頭がおかしいと思われるだけだ。自然な口実が必要だ。
【ステップ3】
新たな約束の場所として、最も安全だと僕が判断できる場所を指定する。
そこは、僕が完全にコントロールできる空間でなければならない。
計画を書き終えた僕は、ペンを置き、大きく息を吸った。
よし、行こう。
僕はクロッキー帳を閉じると、決意を固めて席を立った。
目指すは、3年生のフロア。運命をかけた、交渉の始まりだ。
前回、昼休みに訪れた時のような、弱々しさはもう僕の中にはなかった。
僕の目には、「彼女を救う」という明確な目的の光が宿っていた。僕の一挙手一投足が、彼女の生死を分ける。そう思うと、不思議と背筋が伸び、足取りにも力がこもった。
幸運なことに、生徒会室から出てきた栞先輩と、廊下でばったりと出くわした。彼女は一人だった。
「一条先輩! 少しだけ、いいですか?」
僕は、自分でも驚くほど、はっきりと大きな声で彼女を呼び止めた。
「桜井くん。どうしたの、そんなに慌てて」
彼女は、僕の鬼気迫るような様子に、少し驚いたように目を丸くした。
「今日の放課後のお話なんですが……その、場所を変えていただくことはできませんか?」
僕は、単刀直入に切り出した。
「場所を? 旧視聴覚室じゃなくて?」
彼女の眉が、不思議そうに寄せられる。
「どうして?」
来た。想定通りの質問だ。僕は、図書室で練り上げた、完璧な嘘を口にした。
「旧視聴覚室なんですけど……実は昨日、美術部の先輩から、少し気になる話を聞いたんです。最近あそこで、不審な物音がするとか、たまに、知らない人が出入りしてるのを見た、とか……」
僕は、できるだけ心配そうな表情を作って続けた。
「ただの噂だとは思うんですけど、万が一ということもあります。先輩に、もし何かあってはいけないので……。もし、ご迷惑でなければ、別の場所にしませんか?」
僕の言葉に、栞先輩は「そうなんだ……」と呟き、少し考え込むような表情を見せた。生徒会長という立場上、校内の安全に関する情報には敏感なのだろう。僕がでっち上げた、もっともらしい噂話は、彼女の心に効果的に響いたようだった。
それに加えて、僕の必死な様子が、彼女の心を動かしたのかもしれない。「先輩を心配する純粋な後輩」という僕の演技は、完璧だったはずだ。
やがて、彼女は顔を上げ、僕に優しく微笑みかけた。
「……知らなかったわ。教えてくれて、ありがとう。桜井くんは、優しいのね」
その言葉に、僕の心臓がどきりとしたが、今はそれに浸っている場合ではない。
「わかったわ。あなたの言う通りにしましょう。じゃあ、どこにする?」
第一関門、突破。
僕は、安堵の息を漏らしそうになるのをぐっとこらえ、最も安全だと信じる場所を提案した。
「もしよければ……僕が使っている、旧美術準備室ではどうでしょうか。あそこは、僕以外ほとんど誰も使いませんし、中から鍵もかかりますから。一番、安全だと思います」
「旧美術準備室ね。わかったわ」
栞先輩は、あっさりと頷いてくれた。
「じゃあ、放課後はそこで。待ってるね」
彼女はそう言って、僕の肩をぽんと軽く叩き、去っていった。
僕はその場に立ち尽くし、彼女の後ろ姿が見えなくなるまで見送った。そして、誰も見ていないことを確認すると、固く、固く拳を握りしめた。
やった。
運命の歯車を、僕が初めて、自分の手で動かしたんだ。
◇
放課後を告げるチャイムが鳴ると同時に、僕は誰よりも早く旧美術準備室へと向かった。
そこは、旧校舎の一階、美術室の隣にある、窓の小さな薄暗い部屋だ。かつては石膏像やイーゼルの倉庫として使われていたが、今はその役目を終え、僕が個人的なアトリエとして占有することを、美術教師から黙認されていた。
部屋の中には、僕の私物である描きかけのキャンバスが数枚、壁に立てかけられ、使い古した絵の具箱や、油の染みた布が、独特の匂いを放っている。まさに、僕だけの城だった。
僕は、これから戦場となるこの城の隅々まで、入念にチェックした。窓の鍵が、ガチャンと音を立ててしっかりとかかることを確認する。部屋の隅に積まれた古い画材道具の中に、危険なものがないかどうかも確かめた。
大丈夫だ。ここなら、絶対に安全だ。
外から鍵をかければ、誰も入ってくることはできない。僕と彼女だけの、完璧な聖域。
犯人が、間抜け面で旧視聴覚室で待ちぼうけを食らっている間に、僕たちはここで安全に、運命の時間をやり過ごす。
完璧な計画だ。
これから来るであろう栞先輩を待つ間、僕は言いようのない、凄まじい高揚感に包まれていた。自分が、彼女の運命を、世界そのものを、正しい方向へと導いている。そんな、神にでもなったかのような全能感が、僕の全身を駆け巡っていた。
やがて、コンコン、と控えめなノックの音がした。
「はい!」
僕は、弾かれたようにドアを開けた。そこに、約束通り、栞先輩が立っていた。
「お邪魔します」
彼女は、少し遠慮がちにそう言うと、部屋の中へと足を踏み入れた。そして、興味深そうに、僕の描きかけの絵や、壁に貼られたデッサンの習作を見回している。
「本当に、桜井くんのアトリエみたいだね。すごい……」
その感心したような声に、僕の胸は誇らしさで満たされた。僕は、緊張を隠しながら、部屋の中央に置いてあったパイプ椅子を彼女に勧めた。
「どうぞ、座ってください」
「ありがとう」
彼女が椅子に腰かけるのを見届けてから、僕は彼女に背を向け、ドアノブに手をかけた。そして、カチャリ、と内側から鍵をかけた。
その金属音に、彼女は少し驚いたように僕を見た。
「え……?」
「念のためです」
僕は、できるだけ穏やかな声で言った。「ここなら、誰も入ってきませんから」
奇妙な状況に、彼女は戸惑いの表情を浮かべていたが、僕のあまりに真剣な様子に、何も言わずにこくりと頷いた。
「それで、桜井くん。改めて、話って何かな?」
彼女が、本題を切り出した。
そうだ、僕は彼女に、告白をするために呼び出したのだ。だが、今の僕にとって、そんなことは二の次だった。僕の最大の目的は、彼女の命を守ること。
僕は、心臓が喉から飛び出しそうになるのを必死で抑えながら、意を決して口を開いた。
「……先輩に、何かあってはいけないと思ったので。ただ、ここにいてもらえませんか」
「え?」
彼女は、きょとんとした顔で僕を見つめている。
「お願いです。ほんの、少しの時間でいいんです。ここにいれば、絶対に安全ですから」
僕は、ほとんど懇願するように言った。告白の約束を反故にするような、自分勝手な申し出だ。けれど、僕の瞳には、嘘偽りのない、彼女を案じる必死さが宿っていたはずだ。
彼女は、僕のその瞳をじっと見つめた後、ふっと息を吐き、困ったように、でも優しく微笑んだ。
「……わかったわ。あなたが、そこまで言うなら」
彼女は、僕の奇妙な願いを聞き入れてくれた。
二人の間に、少し気まずい沈黙が流れる。何か話さなければと焦るけれど、適切な言葉が何も見つからない。
だが、それでよかった。
彼女が、今、ここにいる。
僕の目の前で、無事に、生きている。
その事実だけで、僕の心は満たされていた。僕はただ、壁の時計の針が、運命の時刻を刻んでいくのを、固唾を飲んで見守っていた。
◇
スマートフォンに表示された時刻が、16時30分を指した。
「前回」、僕が旧視聴覚室で彼女の死体を発見したのは、確かこのくらいの時間だったはずだ。
僕は、時計の画面を睨みつけたまま、身動き一つできなかった。
一分が、一時間のように長く感じる。
部屋の中には、古時計の秒針がカチ、コチと時を刻む音と、僕たちの微かな呼吸の音だけが響いていた。僕の額からは、じっとりと汗が滲み出てくる。
「桜井くん、大丈夫? 顔色が悪いわよ」
栞先輩が、心配そうに僕の顔を覗き込んできた。僕は「だ、大丈夫です」と、かろうじて答えるのが精一杯だった。
16時35分。
16時40分。
時間は、着実に過ぎていく。何も起きない。外も、不気味なほど静かなままだ。
犯人は、旧視聴覚室で待ちぼうけを食らい、諦めて帰ったのだろうか。
そうだ、そうに違いない。僕の作戦は、成功したんだ。
そして、ついに。
時計の針が、16時45分を指した。
もう、大丈夫だ。この時間を過ぎれば、もう危険はないはずだ。
「……やった」
僕は、思わず声に出していた。全身の力が、ふっと抜けていく。
「助かった……!」
心からの安堵のため息が、僕の口から漏れた。僕はパイプ椅子に、どさりと深く腰掛けた。
「え? 何が?」
僕の唐突な叫びに、栞先輩はきょとんとした顔で首を傾げている。
「いえ、なんでもありません!」
僕は、満面の笑みで彼女に返した。心の底からの、純粋な喜びの笑みだ。
「もう、大丈夫です。先輩、僕の我儘に付き合ってくださって、本当に、ありがとうございました」
よかった。
本当に、よかった。
僕が、彼女の運命を変えたんだ。
僕が、彼女を救ったんだ。
僕は、ヒーローだ。
カチャリ、と軽やかな金属音が響き、旧美術準備室の扉が開かれる。僕は、使命を果たし終えたヒーローのような、晴れやかな達成感を胸に、一条栞を促した。
「さあ、先輩。もう大丈夫です。帰りましょう」
外の廊下は、窓から差し込む西日で、まるで血の色のように赤く染まっていた。しかし、今の僕にとってその色は、不吉の象徴ではなく、輝かしい勝利を祝福する舞台照明のように見えた。廊下は静まり返り、僕たちの他に人影はない。完璧だ。すべて、僕の計画通りに。
「……桜井くん」
僕の後ろから、栞先輩の少し戸惑ったような声がかけられた。
「一体、何だったの? 正直、少し怖かったんだけど……」
彼女は困惑しながらも、僕を責めるような口調ではなかった。ただ、純粋な疑問として、僕の奇妙な行動の理由を知りたがっているようだった。
僕は、彼女に向き直り、深く頭を下げた。
「すみませんでした。少し、僕が思いつめてて……。でも、本当に、先輩に何かあったらって、心配で……」
核心を巧みにぼかしながらも、僕は精一杯の誠意を込めて謝罪した。僕の瞳には、彼女を案じる純粋な気持ち(と、僕は信じていた)が溢れていたはずだ。
僕のその必死な様子を見て、彼女は深いため息を一つ吐いた。だが、その表情はすぐに和らぎ、どこか仕方ないな、というような、諦めと優しさが入り混じった微笑みに変わった。
「……わかったわ。でも、もうあんな風に、いきなり人を閉じ込めるのはやめてね。心臓に悪いから」
彼女は、そう言って軽く釘を刺しつつも、僕を許してくれたようだった。その微笑みは、僕にとって、何よりの褒章だった。
僕は彼女を守った。そして、彼女も僕の真意を理解してくれた。
僕と彼女の間に、他の誰も入り込めない、特別な絆が生まれた。僕は、そんな甘美な錯覚に、心の底から酔いしれていた。
「じゃあ、私、生徒会室に忘れ物したから寄って帰るわね。桜井くんも、気をつけて」
「はい! 先輩も!」
手を振って去っていく彼女の後ろ姿を見送りながら、僕は勝利の余韻に浸っていた。僕が運命を変えたのだ。この手で、彼女の未来を守り抜いたのだ。
彼女の姿が見えなくなると、僕の心に、一つの黒い好奇心が芽生えた。
――犯人は、どうしただろうか?
僕の計画によって、まんまと待ちぼうけを食わされた哀れな犯人。本来の犯行現場である旧視聴覚室で、標的が現れないことに焦り、苛立ち、そして最終的に諦めてすごすごと引き返していったに違いない。
その無様な姿を、この目で確かめてみたい。
空振りに終わった犯人の、間抜けな痕跡を見て、せせら笑ってやりたい。
それは、ヒーローというよりは、子供じみた悪役のような感情だったかもしれない。だが、死の淵から生還した(と信じ込んでいる)僕にとって、そのくらいの優越感に浸る権利はあるはずだ。
僕は、軽やかな足取りで、旧校舎の廊下を来た道とは逆方向へと戻り始めた。自分の計画がいかに完璧だったか、その最終確認をするために。
◇
旧視聴覚室のドアは、僕が「前回」訪れた時と何一つ変わらない姿で、静かにそこにあった。まるで、これから僕が目にする光景を、嘲笑うかのように。
僕は、少しだけ高鳴る胸を抑えながら、そっとドアノブに手をかけ、扉を開いた。
ギィ、と小さな音がして、部屋の中の埃っぽい空気が廊下へと流れ出してくる。
部屋の中は、静まり返っていた。
誰かが侵入した形跡も、何か争ったような痕跡もない。ただ、西日が長く伸びた影を作り出し、埃っぽい空間が広がっているだけ。
そうか。やはり、犯人は栞先輩がここへ来なかったから、諦めて帰ったんだ。
僕の推理は、完璧に的中した。犯人は、計画が予期せず崩れたことで、犯行そのものを断念したのだ。あまりにもあっけない結末。だが、それが何よりの証拠だった。僕の介入がなければ、今頃この場所は、惨劇の舞台と化していたのだから。
僕は、満足のため息をつきながら、部屋の中を見回した。
その時だった。
ほんの些細な、けれど、一度気づいてしまうと無視できない違和感が、僕の視界の隅に引っかかった。
部屋の奥にある、背の高い古い書架。埃をかぶった文学全集や専門書が、隙間なく詰め込まれている。その、一番下の棚。一冊だけ、不自然に、数センチほど前に飛び出している本がある。
前回、ここへ来た時、あんな風になっていただろうか?
僕の記憶では、すべての本は綺麗に棚の奥まで収まっていたはずだ。
僕は、まるで何かに引き寄せられるように、その書架へと近づいた。そして、その不自然に飛び出した本に、手を伸ばす。それは、何の変哲もない、古い文学全集の第七巻だった。装丁は擦り切れ、ページは黄ばんでいる。
気のせいか。誰かが以前に読んで、適当に戻しただけかもしれない。僕が「前回」来た時には、気づかなかっただけだろう。
僕はそう思い、本を元の場所に戻そうとした。その時、本の表紙に、微かに黒いインクのような染みが付着していることに気づいた。指でこすってみたが、染みは落ちない。まあ、古い本だしな。僕は、その些細な違和感を、深く追求することなく頭から追い出した。
僕は、自分の馬鹿げた想像を打ち消すように、強く頭を振った。そして、本を元の位置に押し込むと、早足で旧視聴覚室を後にした。もう、ここには用はない。
満足と、ほんの少しの胸のざわめきを抱えながら、僕は自分の「城」である旧美術準備室へと戻った。荷物をまとめて、今日の輝かしい勝利を胸に、家に帰ろう。
僕は、先ほど栞先輩と別れた時と同じように、軽い気持ちで準備室のドアを開けた。
その瞬間、僕は息を呑んだ。
空気が、違う。
さっきまで、僕と彼女が二人きりでいたはずの、あの温もりにも似た空気はどこにもない。まるで、真冬の屋外にでもいるかのように、部屋の中はひどく冷え切っていた。そして、鼻腔をくすぐる、あの匂い。
旧視聴覚室で感じたものよりも、ずっと濃く、ずっと生々しい、鉄錆のような匂い。
「……気のせい、か?」
僕は、震えそうになる声を無理やり押し殺し、自分に言い聞かせた。窓が開いていたのかもしれない。それで、部屋が冷えたんだ。匂いだって、古い絵の具か何かの匂いだ。
僕は、自分の不安を振り払うように、部屋の奥へと足を進めた。イーゼルに立てかけていた、デッサン用の大きな画板を取って帰るためだ。その画板は、部屋の隅にある、背の高い木製の用具棚の前に立てかけてあった。
用具棚に近づいた、その時。
僕は、見てしまった。
棚の足元。床板との、ほんの数ミリの隙間から、何か黒い液体が、僅かに、じわりと滲み出している。それは、まるで影が意思を持って伸びてきたかのように、古い木目の床に、一本の黒い線を描いていた。
まさか。
そんなはずはない。
絶対に、ありえない。
彼女は、栞先輩は、僕と別れて、無事に帰ったはずだ。僕は、この目で彼女が廊下を去っていくのを見たじゃないか。
僕の心臓が、破裂しそうなほど嫌な音を立てて跳ねる。全身の血が、急速に凍りついていく。
僕は、まるでスローモーションの映像を見ているかのように、ゆっくりと、ゆっくりとその場に屈み込んだ。そして、震える指先を、その黒い液体へと伸ばす。
指に触れたそれは、冷たく、そしてぬるりとした粘り気を持っていた。
僕は、恐る恐る、その指先を目の前に持ってくる。
それは、紛れもなく、赤黒い、血だった。
鉄錆の匂いの正体。
部屋を支配する、この冷気の正体。
僕の胸を締め付ける、この恐怖の正体。
すべてのピースが、最悪の形で一つにはまっていく。
◇
僕は、血の気の引いた、真っ青な顔で、目の前の用具棚を、ただ見上げていた。
それは、美術部で代々使われてきた、古い木製のロッカーのような棚だ。人が一人、どうにか体を折り曲げれば、ギリギリ隠れることができるくらいの、大きさ。
僕が、ついさっきまで、栞先輩を「安全な場所に」と、閉じ込めていた、あの場所だ。
ギギギ、と、錆びついた歯車が軋むような音が、僕の頭の中で鳴り響く。
僕は、まるで自分の意志ではない、何か見えない力に操られているかのように、ゆっくりと、その棚の扉に手をかけた。ひんやりとした、古い木の感触。
ギィィ……と、錆びついた蝶番が、断末魔のような悲鳴を上げた。
扉が、開く。
その瞬間、中から、何かが雪崩のように、僕の足元へと崩れ落ちてきた。
「ああ……」
声にならない声が、僕の喉から漏れた。
それは、一条栞だった。
彼女は、狭く、暗い棚の中で、まるで窮屈な箱に詰め込まれた人形のように、不自然な格好で体を折り曲げ、そして今、僕の目の前で、ぐったりと床に横たわっていた。
そして、その頭から。
僕が「前回」、あの悪夢の中で見たのと、全く同じように。
べっとりとした、赤黒い血が流れていた。
虚ろに開かれた瞳は、扉を開けた僕の顔を、ただ、静かに、静かに見つめている。まるで、お前がやったのだと、無言で告発するように。
「あああああああああああああああああああああっ!!」
僕の絶叫が、静まり返った旧校舎に、獣の咆哮のように響き渡った。
僕はその場にへたり込み、腰を抜かし、目の前の信じがたい光景から、逃げることもできずに、ただ震えていた。
なぜ?
どうして?
どうして、こうなるんだ?
僕は彼女を、この部屋に隠した。僕が、ここにいれば安全だと、そう言ったんだ。
鍵も、僕がかけた。僕が開けるまで、誰も入ってこれなかったはずだ。
犯人は、旧視聴覚室で待ちぼうけをしていたはずじゃなかったのか。
いつ?
誰が?
どうやって?
僕が、旧視聴覚室の様子を見に行っていた、あの、ほんの数分の間に?
ありえない。そんなこと、物理的に不可能だ。犯人は、僕がこの部屋を離れるのを、どこかで見ていたとでもいうのか? そして、僕が戻ってくるまでの、あまりにも短い時間で、この部屋に侵入し、彼女を殺し、そして姿を消したとでも?
まるで、僕が彼女を殺すように、僕の行動のすべてが、運命によって、完璧に仕組まれていたみたいじゃないか……。
僕の頭の中で、論理や常識が、ガラガラと音を立てて崩壊していく。
犯人は、超能力者なのか? 壁を通り抜けられるのか?
それとも、透明人間かなにかなのか?
いや、違う。
もしかしたら、この学校そのものが、この世界そのものが、彼女を殺そうとしているのかもしれない。僕がどれだけ足掻いても、どれだけ運命を変えようとしても、世界がそれを許さず、無理やりにでも、彼女を死へと導こうとしているのでは……。
僕の思考は、もはや正常な範疇を逸脱し、オカルト的で、妄想じみた方向へと暴走を始めていた。
僕は、足元に横たわる栞の、虚ろな瞳から目が離せなかった。
そして、自分の手のひらを見た。そこには、さっき旧視聴覚室で触れた、微かな血の染みが、まるで聖痕のように、赤黒くこびりついていた。
僕じゃない。
僕が、やったんじゃない。
僕は、彼女を救おうとしたんだ。
「僕じゃ、ない……」
その言葉を、か細く呟いたのが、最後だった。
目の前の光景が、まるで水面に落とした絵の具のように、ぐにゃりと歪み、渦を巻き、回転を始める。
僕の精神は、二度目の絶望によって、完全に限界を迎えた。
視界が、急速にブラックアウトしていく。
意識が、暗闇の底へと沈んでいく、その直前。
僕は、確かに見た気がした。
開け放たれた旧美術準備室のドアの向こうに、誰かが立っているのを。
その影は、旧美術準備室から出た僕の前に立っていた。
風間、蓮……?
暗闇の中で、僕は落下していく。
どこまでも、どこまでも。
そして、その暗黒の果てで、僕は再び、あの音を聞く。
――ピピピ、ピピピ、ピピピ……。
聞き慣れてしまった、無機質な電子音が、三度目の絶望の朝を告げようとしていた。
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