きみが死ぬ運命の11月18日、僕はヒーローになる
ヲワ・おわり
第1話 僕だけの聖女
灰色の世界だった。
僕、
僕が通う私立
この学園を支配しているのは、目に見えない、しかし絶対的な法則だ。
――スクールカースト。
生まれ持った容姿、コミュニケーション能力、所属する部活動、そして親の財力。そういった無数の要素が複雑に絡み合い、僕たちは入学して数ヶ月も経たないうちに、自らの「階級」を暗黙のうちに悟らされる。頂点に君臨する者、その周りに集う者、そして僕のように、その他大勢として風景に溶け込む者。
そして僕は、そのピラミッドの限りなく底辺に近い、中位の下。いてもいなくても誰も気にしない、教室という名の風景に溶け込む、ただの背景の一部。それが僕の立ち位置だった。
自己肯定感、という言葉がある。僕のそれは、地面に落ちた埃よりも低い場所を漂っている。だから、僕はいつも息を殺して生きている。カースト上位に君臨する、
今朝もそうだ。荘厳な校門をくぐり、僕は俯きがちに歩いていた。僕の世界は、僕のつま先と、その数メートル先の地面だけで構成されている。それが、僕にとっての安全圏だった。
「――おはようございます!」
その声が聞こえた瞬間、世界に、色が灯った。
まるで、モノクロ映画の途中で、突如として極彩色のシーンが差し込まれたかのような、鮮烈な衝撃。太陽のような、と陳腐な表現しかできないのが悔しい。だが、彼女の声を表現するのに、それ以上に的確な言葉を僕は知らない。僕の足が、意思とは関係なくぴたりと止まる。恐る恐る顔を上げると、彼女がいた。
校門の脇に立ち、登校してくる生徒一人ひとりに笑顔で挨拶をしている。彼女の周りだけ、朝の柔らかな陽光がスポットライトのように降り注いでいるかのようだった。艶やかな黒髪が風に揺れ、白い肌は陶器のように滑らかで、澄んだ瞳は僕のような淀んだ存在が覗き込むことすら許されない聖域のように思えた。
僕は、そんな彼女の姿を、いつも少し離れた場所から盗み見るのが精一杯だった。彼女のような完璧な存在が、僕のような風景の一部に気づくはずもない。それでいい。いや、それがいいんだ。彼女が、あの太陽のような笑顔で、そこにいてくれる。ただそれだけで、この息苦しくて退屈な世界にも、ほんの少しだけ価値があるように思えた。
憧れと、焦がれるような想い。そして、決して手が届かないという、身を焼くような劣等感。その二つが混じり合った複雑な感情を、僕は「崇拝」と名付けて、心の奥の神棚にそっと祀っていた。
彼女は僕のような存在には、きっと気づきもしないだろう。
それでいい。それで、十分なんだ。
彼女が、あの完璧な笑顔で、そこにいてくれる。それだけで、この灰色で息苦しい世界にも、まだ価値があるような気がした。
彼女は僕のような存在には、きっと気づきもしないだろう。
それでいい。それで、十分なんだ。
彼女が、あの完璧な笑顔で、そこにいてくれる。それだけで、この灰色で息苦しい世界にも、まだ価値があるような気がした。
僕は再び俯くと、心臓の鼓動が少しだけ速くなっているのを感じながら、足早に校舎へと向かった。彼女という太陽からから逃げるように。近づきすぎて自分が溶けて無くなってしまうのが怖かった。
◇
教室という空間は、階級社会の完璧な縮図だ。
授業前の喧騒。教室の真ん中では、風間蓮を中心としたグループが、昨日のテレビ番組か何かの話で馬鹿騒ぎをしている。彼らはこの教室の支配者だ。窓際の席では、成績優秀者たちのグループが、静かに、しかし確固たる存在感を放ちながら、次の授業の予習や、高尚な話題に花を咲かせている。
そして、そのどちらにも属さない僕のような生徒たちは、教室の隅の方で、まるで空気のように存在感を消している。僕は自分の席で、小さなクロッキー帳を開いていた。誰にも見せることのない、僕だけの世界。窓の外を流れる雲の形や、教室の窓ガラスに反射する光のプリズムを、ただ淡々と鉛筆で写し取っていく。描いている間だけは、息苦しい現実から解放される気がした。
一限目の現代文の授業。気だるい空気が教室に満ちる中、教師の乾いた声が僕の名前を呼んだ。
「――では、この時の主人公の心情を、桜井、説明してみろ」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。全ての視線が僕に突き刺さるのを感じた。僕は慌てて立ち上がり、緊張で上ずる声を必死に絞り出す。
「え、あ…その、主人公は、友人に裏切られたと感じ、深い、絶望と…孤独を、感じていたの、ではないかと…」
かろうじてそれだけ言うと、教室の支配者――風間のグループから、くすくすと嘲笑が漏れた。「声ちっさ」。僕の耳にも、そのナイフのような言葉ははっきりと届いた。彼らの嘲笑が、針のように僕の背中に突き刺さる。顔に、カッと血が上るのが分かった。僕はそれ以上何も言えず、教師の「まあ、そんなところだ。座れ」という言葉に救われるように、椅子に崩れ落ちた。
まただ。また、僕の自尊心は、紙くずのように丸められて捨てられた。些細な出来事。彼らにとっては、一分後には忘れているような、取るに足らないこと。だが、僕にとっては、心を深く抉る、忘れられない屈辱だった。僕は再び、硬い殻の中に閉じこもった。
この教室は、僕にとって安全な場所ではない。階級社会の縮図。ここでは、僕は無価値で、取るに足らない存在なのだ。その事実を、嫌というほど突きつけられる。
昼休み。僕は教室の息苦しさから逃げるように、購買で買ったパンを数分で胃に詰め込むと、中庭へと向かった。喧騒から離れた、敷地の隅にある古びた噴水の周りだけが、僕の知る学園内で唯一の安息の地だった。噴水はもう何年も前から使われておらず、水盤には枯れ葉が溜まっている。だが、その寂れた雰囲気が、かえって僕を落ち着かせた。
ベンチに腰を下ろし、クロッキー帳を開く。今日の題材は、この古びた噴水。そして、その苔むした石の表面に、木々の葉の隙間から差し込む木漏れ日だ。キラキラと揺れる光の斑点が、まるで生き物のように見えた。
描くことに集中している時だけは、世界の全てを忘れられる。カーストも、嘲笑も、自分の惨めさも。ただ、僕と、対象と、紙の上の鉛筆の跡だけが存在する。線の強弱、陰影の濃淡。光の粒を拾い集めるように、僕は無心で手を動かし続けた。
「うわ、まだ描いてんの? 地味な趣味だなー、桜井」
背後から聞こえた声に、僕の心臓が凍りついた。僕だけの聖域が、土足で踏み荒らされる。振り返るまでもない。風間蓮とその取り巻きたちだった。
「地味な趣味だよなー、桜井。そんなことしてて楽しいわけ?」
「なあ、何描いてんの? ちょっと見せろよ」
ヘラヘラと笑いながら、風間が僕の隣に乱暴に腰を下ろした。そして、僕が胸に抱えていたクロッキー帳に、無遠慮に手を伸ばしてくる。
「や、やめろ…!」
僕は必死に抵抗した。このクロッキー帳は、僕の世界そのものだ。誰にも、特に彼のような人間には、見られたくなかった。だが、体格で劣る僕の抵抗など、彼にとっては赤子の手をひねるようなものだった。僕の腕が捻り上げられ、小さな痛みが走る。クロッキー帳が、その手から奪われようとした、その時だった。
「――風間くん、やめてあげなよ」
凛として、けれど静かなその声は、場違いなほど澄んで響いた。
場の空気が、一瞬で変わる。風間の動きがぴたりと止まった。僕たち全員の視線が、声のした方へと注がれる。
そこに立っていたのは、一条栞先輩だった。
生徒会の仕事で使うのだろうか、数冊のファイルを抱えている。彼女は、眉をひそめて風間を見つめていた。
「一条先輩……」
風間は忌々しげに舌打ちをすると、僕の腕から手を離した。
「人が一生懸懸命描いてるものを、無理やり見るのは失礼だよ」
栞先輩の言葉は、静かだが有無を言わせない力を持っていた。
「別に、本気で見ようとなんてしてねぇよ。ちょっとからかっただけじゃねぇか」
風間はぶっきらぼうに言い返す。しかし、その声には先程までの威圧感はない。彼が栞先輩に特別な感情を抱いていることは、学園の誰もが知っている噂だった。だからこそ、彼女の前では強く出られないのだ。
「それに」と、栞先輩は続けた。「桜井くんの絵、私はすごく素敵だと思う。人の好きなものを馬鹿にするのは、一番カッコ悪いことじゃないかな」
正論だった。そして、その正論を、この学園の絶対的なアイドルである彼女が口にすることで、それは単なる正論以上の、抗いがたい力を持った。風間の取り巻きたちも、居心地が悪そうに視線を彷徨わせている。
風間は仲間たちに目配せすると、ばつが悪そうにその場を去っていった。
嵐が過ぎ去った後には、静寂と、二人分の気まずい沈黙だけが残された。僕はまだ心臓がバクバクと鳴っているのを感じながら、栞先輩の方を向くこともできずに、ただクロッキー帳を強く握りしめていた。
「あ、あの……ありがとうございます、一条先輩……」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど小さく、震えていた。
「ううん、気にしないで」
すぐ側から、優しい声が返ってきた。見ると、栞先輩が僕の隣にそっと腰を下ろし、穏やかに微笑んでいた。太陽のような、という陳腐な表現しか思い浮かばない。だが、僕の灰色だった世界は、確かにその微笑み一つで、鮮やかな色彩を取り戻していた。
「見せてもらっても、いいかな? さっきの絵」
彼女は、風間とはまったく違う、敬意に満ちた声で尋ねた。僕は、こくりと頷くのが精一杯だった。震える手で、描きかけのページを開いて彼女に見せる。
「……わぁ……」
栞先輩の口から、感嘆のため息が漏れた。彼女は、僕の絵をじっと見つめている。その真剣な眼差しに、僕の胸が熱くなった。
「本当に上手だね。この光の感じ……ただの木漏れ日なのに、なんだか、見てると心が静かになる。私は、こういう絵、好きだな」
好き、だな。
その言葉が、僕の心臓を直接掴んだかのような衝撃を与えた。
今まで、絵を褒められたことは何度かある。美術教師や、数少ない友人から、「上手いね」と言われたことは。だが、彼女の言葉は違った。ただ「上手い」という評価ではない。「なぜ好きなのか」を、彼女自身の言葉で、具体的に伝えてくれた。僕がこの絵に込めたかった、光の静けさや、空気の質感を、彼女は正確に感じ取ってくれたのだ。
この人だけは、僕のことを見てくれている。
僕という人間ではなく、僕の描く世界の、本当の価値を理解してくれている。
僕の中で、一条栞という存在が、単なる「憧れ」から、「絶対的な、唯一の理解者」へと変わった瞬間だった。
◇
その日の放課後、僕は美術室にいた。
生徒たちの喧騒が嘘のように遠ざかり、広々とした空間には静寂だけが満ちている。床に落ちた誰かの木炭の粉。イーゼルにかけられた描きかけの油絵。壁際に並ぶアグリッパやブルータスの石膏像。西日が大きな窓から差し込み、それら全てに長い影を落としていた。絵の具とテレピン油が混じり合った独特の匂いが、僕の心を落ち着かせる。
この場所は、僕だけの聖域だ。
僕は昼間のデッサンの続きを描き始めた。噴水の冷たい石の質感、揺れる光の斑点。指先に全神経を集中させる。けれど、頭の中では、昼間の栞先輩の言葉が何度も何度も反響していた。
『私は、こういう絵、好きだな』
その言葉を思い出すたびに、胸の奥が甘く疼く。彼女への想いが、キャンバスに塗り重ねる絵の具のように、僕の心の中でどんどん厚く、濃くなっていくのを感じていた。
「――やっぱり、いた」
不意に、入口の方から声がした。
僕は驚いて筆を止め、振り返った。そこに立っていたのは、制服姿の栞先輩だった。
「せ、先輩……どうして……」
「生徒会の仕事が、思ったより早く終わったから。さっきの絵の続き、見に来ちゃった」
彼女は、少し照れたように、はにかんで笑った。そのあまりに無防備な笑顔に、僕はどう反応していいか分からず、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
「邪魔、だったかな?」
「い、いえ!そんなことないです!どうぞ……」
僕は慌てて彼女を中に招き入れた。彼女は物珍しそうに、きょろきょろと美術室内を見回している。そして、僕のイーゼルの前に立つと、完成に近づいたデッサンを見て、再び感嘆の声を上げた。
「すごい……昼間より、ずっと良くなってる。光が、本当にそこに在るみたい」
「あ、ありがとうございます……」
「ねえ、桜井くん」と、彼女は僕の方を振り返った。「どうして、桜井くんはこんなに細かく世界が見えるの? 私には、ただの噴水にしか見えないのに、君の絵の中だと、すごく特別なものに見える」
彼女の純粋な好奇心に満ちた問いに、僕は少しだけ、自分の殻を破ることができた。絵のことになると、僕はほんの少しだけ饒舌になれるのだ。
「……見てる、というよりは、感じてるのかもしれません」僕は、言葉を探しながら、ゆっくりと話し始めた。「光の粒とか、水の音とか、少し湿った空気の匂いとか……そういう、目に見えないものを、線で拾い集めてる感覚、というか……」
我ながら、気障で、分かりにくい説明だと思った。馬鹿にされるかもしれない。けれど、栞先輩は、真剣な顔で僕の言葉に耳を傾けていた。
「目に見えないものを、拾い集める……そっか。すごいね、詩人みたい」
彼女はそう言うと、ふっと微笑んだ。その笑顔には、昼間の中庭で見せた「生徒会長」の顔ではなく、年相応の一人の少女の素顔が覗いているような気がした。
彼女は、美術室の窓から、夕焼けに染まり始めた空を眺めた。
「私、生徒会室より、ここの方が好きかも。静かで、時間がゆっくり流れてる感じがして。……なんだか、桜井くんが羨ましいな」
――羨ましい。
その言葉は、僕に大きな衝撃を与えた。完璧な世界の住人である彼女が、僕のいる、この薄暗い、絵の具の匂いがする世界を「羨ましい」と言ってくれた。僕と彼女の世界が、ほんの一瞬だけ、交わったような気がした。
そして、彼女は、僕のデッサンをもう一度じっと見つめ、確信に満ちた声で、あの言葉を繰り返した。
「やっぱり、桜井くんの絵、好きだな。君にしか見えない特別な世界が、ここにはある気がする」
――君にしか見えない特別な世界。
その言葉が、僕の中で最後の
心臓が、大きく、痛いほどに脈打つ。全身の血が沸騰するような、凄まじい高揚感。
僕の世界を、僕だけの世界を、認めてくれた。理解してくれた。
この人だ。僕がずっと探していた、たった一人の人は。
この人を、僕だけのものにしたい。
この人に、僕のすべてを捧げたい。
純粋な憧れは、その瞬間、もっと熱く、もっと激しい、仄暗い光を帯びた独占欲へと変質した。僕の視界の端が、じわりと歪む。彼女の輪郭だけが、異常なほどくっきりと見えた。
この想いを、伝えなければならない。
この奇跡を、手放してはならない。
僕は、固く、固く決意した。
◇
栞先輩が「また見に来るね」と言って帰った後も、僕はしばらくイーゼルの前から動けずにいた。美術室には再び静寂が戻ってきたが、僕の心の中は、先程までの高揚感と、それに相反する巨大な恐怖が渦巻いて、嵐のようだった。
僕なんかが、一条先輩に?
あの、学園中の誰もが憧れる、完璧な聖女に?
身の程知らずにもほどがある。今日の優しさも、彼女が誰にでも向ける、たくさんの優しさの中の、ほんの一部に過ぎないのかもしれない。そうだ、きっとそうだ。僕が特別なのではない。彼女が、優しすぎるだけなんだ。
もし、この身勝手な想いを伝えてしまったら?
軽蔑されるかもしれない。気味悪がられるかもしれない。そして、今日手に入れたばかりの、この心地よい関係すら、僕自身の手で粉々に壊してしまうことになるかもしれない。
臆病な僕の心が、激しくブレーキをかける。やめておけ、と。お前には分不相応だと。今のままで十分じゃないか、と。
だが、脳裏に蘇るのは、彼女のあの言葉だ。
『君にしか見えない特別な世界』
彼女は、僕の存在価値を教えてくれた。この灰色の世界で、息を殺して生きてきた僕に、光を当ててくれた。このまま何もしなければ、僕はまた明日から、元のモノクロームの世界に戻り、風景の一部として、卒業までの時間をやり過ごすだけだ。それは、生きながら死んでいるのと同じことだ。
彼女がくれた、この光を、失うわけにはいかない。
砕けてもいい。
たとえ、醜態を晒すことになったとしても。
この想いを、伝えよう。
決意は、恐怖を上回った。僕は震える手で、近くにあったクロッキー帳の新しいページを開いた。そして、まるで重要な作戦計画を練るスパイのように、鉛筆で文字を書きつけていく。
【日時】11月18日(月)放課後。
週末で、心を整える時間が必要だ。それに、週明けの月曜日なら、きっと誰もが少しだけ憂鬱で、油断しているはずだ。
【場所】旧視聴覚室。
美術室では、誰かが来るかもしれない。中庭も人目につく。その点、旧視聴覚室なら完璧だった。旧校舎の一階の一番奥。機材が古くなりすぎて、もう何年も使われていない。少し不気味な心霊の噂さえあるせいで、誰も寄り付かない場所だ。二人きりで話をするには、そこが最適だった。
計画を立てると、じっとしていられなくなった。今、約束を取り付けなければ。僕は美術室を飛び出し、早足で生徒会室へと向かった。幸運なことに、まだ明かりがついていた。
ドアの前で、僕は何度も深呼吸を繰り返した。心臓がうるさくて、自分の呼吸の音すら聞こえない。数分間、ドアノブに手をかけたまま躊躇した後、意を決して、それを回した。
「し、失礼します!」
中には、栞先輩が一人で残って、書類の整理をしていた。僕の突然の訪問に、彼女は驚いたように顔を上げた。
「桜井くん? どうかしたの?」
「あ、あの、一条先輩!」僕はドアを閉めると、彼女の机まで一気に歩み寄った。
「来週の、火曜日の放課後、少しだけ、お時間をいただけないでしょうか。どうしても、お伝えしたいことがあって……」
僕の尋常ではない真剣な様子に、栞先輩は驚きの表情を浮かべたまま、僕の目をじっと見つめ返した。彼女の澄んだ瞳に見つめられると、吸い込まれそうになる。
彼女は、何かを察したのかもしれない。数秒の沈黙の後、静かに、そして優しく頷いた。
「……うん、わかった。火曜日ね。場所は?」
「旧視聴覚室で、待っています」
僕がそう告げると、栞先輩は一瞬、きょとんとした顔をした。
「旧視聴覚室? なんでまたそんなところで……」
その言葉には、当然の疑問が滲んでいた。だが、彼女はそれ以上、深くは追及しなかった。僕の必死な形相から、何かを詮索すべきではないと感じ取ってくれたのだろう。
「わかった。じゃあ、火曜日の放課後、旧視聴覚室で」
彼女は、そう言って僕と約束してくれた。
生徒会室を出た僕は、廊下の冷たい壁に背中をもたせ、大きく息を吐き出した。全身の力が抜けて、その場に崩れ落ちそうになる。心臓が、痛いほど鳴っている。指先が、まだ小さく震えている。
だけど、後悔はなかった。
僕は、僕の人生で初めて、自分の意志で、大きな一歩を踏み出したのだ。
帰り道、空は燃えるような夕焼けに染まっていた。その鮮烈な赤は、いつも見ている灰色がかった風景とはまるで違って見えた。僕の世界が、色を取り戻し始めている。いや、僕自身が、世界に色をつけ始めているのだ。
11月18日、火曜日。
僕の運命が変わる日。
そして、僕が、僕だけの聖女を手に入れる日だ。
その時の僕は、純粋な希望に満ちていた。自分の抱いた感情が、どれほど歪で、どれほど危険なものなのか、知る由もなかった。ただ、一人の少年の決死の恋が、今、始まろうとしていた。
その先に待つ絶望を、まだ誰も知らないままに。
◇
運命の日、11月18日、月曜日の朝。
僕は、アラームが鳴るより早く目を覚ました。窓から差し込む朝日が、部屋の埃をキラキラと照らし出している。普段なら、これから始まる一週間を思って憂鬱になる月曜の朝が、今日だけは、人生で最も重要な日の幕開けのように感じられた。
机の上のカレンダーに付けられた、赤い丸印。それが、僕の決意の証だった。
今日、僕は一条栞先輩に告白する。
その事実を改めて認識した瞬間、心臓が大きく跳ねた。週末の間、僕はこの瞬間のことばかりを考えていた。自室のベッドの上で、天井を睨みながら、来るべき放課後のシミュレーションを、それこそ何百回と繰り返した。
最初に切り出す言葉はなんだろう。「一条先輩、少しお時間いいですか」いや、時間はもうもらっている。「突然すみません」これも違う。もっとストレートに、「ずっと、好きでした」だろうか。いや、それではあまりに唐突すぎるかもしれない。
成功のシミュレーションでは、僕は少し緊張しながらも、誠実に、自分の言葉で想いを伝える。栞先輩は驚いた顔をするけれど、やがて困ったように、でも嬉しそうに微笑んでくれる。「ありがとう、桜井くん。私も、君のことが……」そこまで想像して、僕は布団の中で頭まで被って身悶えした。
逆に、最悪のシミュレーションでは、僕の告白を聞いた彼女の顔から、すっと表情が消える。「ごめんなさい」。その一言が、僕の世界を終わらせる。あるいは、もっと残酷に、「あなたのそういうところ、少し怖いと思っていたの」なんて、僕の本質を見透かしたような言葉で拒絶されるかもしれない。その想像に至るたびに、心臓は氷水に浸されたように冷たくなり、呼吸が浅くなった。告白なんて、やはりやめておこうか。そんな弱気が、何度も頭をもたげた。
だが、そのたびに僕を支えてくれたのは、彼女のあの言葉だった。
『君にしか見えない特別な世界が、ここにはある気がする』
僕の世界を認めてくれた、唯一の人。これは僕の自己満足じゃない。彼女が僕にくれた希望に、僕なりの誠意で応えたいんだ。たとえ結果がどうであれ、この想いを伝えないまま、また灰色の日常に戻ることだけは、もう耐えられなかった。
今日、僕は変わるんだ。
僕はベッドから抜け出し、鏡の前に立った。そこに映っているのは、いつも通りの、冴えない僕の顔だ。寝癖のついた髪、少し不安げに揺れる瞳。僕は何度も冷たい水で顔を洗い、念入りに髪を整え、クローゼットから出したばかりの、皺一つない制服に袖を通した。襟元のホックを留め、ネクタイをきゅっと締め上げる。いつもより少しだけ、ほんの少しだけ、自分の姿がマシに見えるような気がした。鏡の奥の僕の瞳が、期待と恐怖の入り混じった、複雑な色をたたえていることには、気づかないふりをした。
家を出て、いつもの通学路を歩く。
世界が、昨日までとはまるで違って見えた。
道端に咲く名前も知らない小さな黄色い花が、やけに鮮やかに見える。電線に二羽、寄り添うように止まっているスズメの姿に、自分の未来を重ねてみたりする。すれ違う人々の話し声、遠くで鳴り響く踏切の音、頬を撫でる秋の冷たい風。そのすべてが、僕の五感を刺激し、僕が今「生きている」という実感を与えてくれた。世界は、こんなにも彩りに満ちていたのか。僕が今まで見ていたのは、僕自身の心が作り出した、色褪せた幻影だったのかもしれない。
やがて、見慣れた碧翠学園の荘厳な校門が見えてきた。
そして、その先に、彼女がいた。
一条栞先輩。今日も校門の脇に立ち、生徒会役員として挨拶運動をしている。その姿を認めた瞬間、僕の心臓はきゅっと縮こまった。急に、彼女の顔を直視できなくなる。
昨日の約束、覚えていてくれているだろうか。僕が一方的に舞い上がって、彼女にとっては、大勢の生徒の一人から声をかけられた、ただそれだけのことだったのかもしれない。社交辞令で頷いてくれただけで、本当はもう忘れてしまっているんじゃないか。そんな弱気な考えが、またしても鎌首をもたげる。
僕は俯き、彼女の視界に入らないように、校門の端の方を足早に通り過ぎようとした。僕の存在など、気づかれなければいい。そう思った、まさにその時だった。
「――桜井くん、おはよう」
凛とした、鈴の鳴るような声が、僕の名前を呼んだ。
僕は驚いて、弾かれたように顔を上げた。そこには、僕に向かって微笑みかける栞先輩の姿があった。周囲の生徒たちに向ける公的な笑顔とは、ほんの少しだけ違う。親密さを帯びた、柔らかな微笑み。そして彼女は、誰にも気づかれないくらいの、ごく小さな仕草で、こくりと頷いてみせた。
その瞬間、僕にはわかった。
『約束、覚えてるよ』
それは、僕と彼女だけに通じる、秘密のサイン。
僕の胸の中で、不安という名の黒い雲がさっと晴れていく。代わりに、どこまでも青く、澄み渡った空が広がった。心臓が、期待で大きく、大きく高鳴り始める。僕は「お、おはようございます!」と、上ずった声で返すのが精一杯だった。
彼女に背を向けて校舎へ向かう僕の足取りは、まるで雲の上を歩いているかのように軽かった。
大丈夫だ。きっと、うまくいく。
今日、僕の運命は、間違いなく変わる。
◇
運命の放課後までの時間は、永遠のように長く感じられた。
授業の内容など、まったく頭に入ってこない。現代文の教師が熱弁する文豪の苦悩も、数学の教師が黒板に書き連ねる複雑な数式も、僕にとっては遠い異国の言葉のように、右の耳から左の耳へと通り過ぎていくだけだった。
僕の意識は、常に窓の外と、教室の壁にかかった時計とに向けられていた。
窓の外では、雲がゆっくりと流れていく。あの雲の形は、なんだろう。僕の未来を暗示しているのだろうか。時計の秒針は、まるで重たい鎖を引きずっているかのように、のろのろとしか進まない。カチ、コチ、という無機質な音が、僕の焦りを煽るように教室に響いていた。
「――では、この問題、桜井」
不意に名前を呼ばれ、僕は我に返った。歴史の授業だったらしい。目の前の教師が、怪訝な顔で僕を見ている。
「は、はい!」
「この時代の農民の暮らしについて、資料から読み取れることを述べなさい」
「え、ええと……」
僕は完全に上の空だった。教科書のどこを指されているのかすら分からない。僕はしどろもどろになりながら、口から出まかせを言った。
「……皆、希望に満ちて、明日を夢見ていたと、思います」
教室が、どっと笑いに包まれた。飢饉と重税に喘ぐ農民の暮らしについて、何を的外れなことを言っているんだ、と。教師は深いため息をつき、「もういい、座れ」と吐き捨てた。
いつもなら、この屈辱に顔を真っ赤にして、一日中引きずっていただろう。だが、今日の僕にとっては、そんなことは些細な出来事に過ぎなかった。僕の頭の中は、栞先輩と、旧視聴覚室のことで、もうはち切れんばかりに満たされていたからだ。
昼休み。
教室の喧騒を背に、僕は一人、廊下の窓際でパンをかじっていた。胸がいっぱいで、味なんてほとんどしない。新たな問題が、僕の心を占めていた。
放課後の約束、もう一度、念を押すべきだろうか?
いや、あまりしつこくしたら、がっついていると思われてしまうかもしれない。彼女をうんざりさせてしまったら元も子もない。でも、このまま何も確認せずに放課後を迎えるのも、不安で心臓に悪かった。もし、彼女が急な生徒会の用事を思い出して、約束を忘れてしまったら?
迷いに迷った末、僕は意を決した。後悔するくらいなら、行動しよう。僕は食べかけのパンを鞄に押し込むと、未知の領域である、3年生のフロアへと向かった。
2年生のフロアとは空気が違う。上級生たちの姿はどこか大人びて見え、彼らの闊歩する廊下は、まるで僕のような下級生を拒絶しているかのようだった。僕は壁際をこそこそと進みながら、3年A組の教室をそっと覗き込んだ。
いた。
栞先輩は、教室の窓際で、友人たちと楽しそうに談笑していた。その輪の中心で輝くような笑顔を浮かべる彼女は、やはり僕の知る世界とは違う場所にいる人のように見えた。僕があの輪の中に入っていくことなど、到底できそうにない。
どうしようか。声をかけるタイミングが見つからない。僕は廊下の柱の影に隠れるようにして、ただひたすらに、彼女が一人になる瞬間を待ち続けた。まるで、獲物を狙う肉食獣のような、あるいは、ストーカーのような自分の姿に、ふと嫌悪感がよぎる。だが、もう引き返せなかった。
チャンスは、唐突に訪れた。
彼女が「ちょっとお手洗い」と言って、友人たちの輪から離れたのだ。今しかない。
僕は柱の影から飛び出し、彼女が通りかかる廊下の先で、何でもないふりをして立ち止まった。心臓が、ドラムのように激しく鳴り響く。
「あ、あの、一条先輩……!」
僕の声に、彼女は少し驚いたように足を止め、僕の姿を認めると、柔らかく微笑んだ。
「桜井くん。どうしたの? わざわざ3年の教室まで」
「いえ、その……大したことじゃないんですけど……今日の、放課後のことなんですけど……」
言葉が、上手く続かない。自分の意図が、あまりにも見え透いていて恥ずかしかった。
僕のそんな様子を、彼女はすべて察してくれたようだった。呆れたり、面倒くさそうな顔をしたりする代わりに、彼女はくすっと小さく笑うと、安心させるように、優しい声で言った。
「うん、覚えてるよ。旧視聴覚室でしょ? 大丈夫、ちゃんと行くから。……楽しみにしてるね」
最後の「楽しみにしてるね」は、ほとんど囁くような声だった。
それが、社交辞令なのか、それとも本心なのか、僕には判断できなかった。だが、そんなことはどうでもよかった。確かな約束の言葉を得て、僕の心は、安堵と、天にも昇るような高揚感で満たされた。
「……! はい、お待ちしてます!」
僕は深く、深く頭を下げた。顔を上げたときには、彼女はもう背を向けて歩き出していた。その軽やかな後ろ姿を見送りながら、僕は固く拳を握りしめた。
自分の教室に戻る足取りは、信じられないほど軽かった。午後の授業は、もはやただの消化試合だ。早く、早く時間が過ぎてくれ。僕は祈るような気持ちで、最後の授業が終わるのを待った。
六限目の授業終了を告げるチャイムは、僕にとって、決戦のゴングのように聞こえた。
「起立、礼、さようなら」
クラス全員の唱和が、スローモーションのように鼓膜に響く。
その号令が終わるか終わらないかのうちに、僕は誰よりも早く席を立ち、乱暴に鞄を掴んだ。
「お、桜井、帰るの早くね?」
背後で、クラスメイトの誰かがそんな声をかけた気がしたが、僕にはもう聞こえていなかった。教室を飛び出し、廊下を走る。目指すは一つ。旧校舎一階、一番奥。
約束の場所、旧視聴覚室へ。
◇
旧校舎の廊下は、新校舎の喧騒が嘘のように静まり返っていた。ひんやりとした空気が、僕の高ぶった神経を少しだけ落ち着かせてくれる。旧視聴覚室は、その廊下の最も奥にあった。使われなくなって久しいその部屋は、生徒たちの間では「出る」という、ありきたりだが効果的な噂が流れており、誰も好んで近づこうとはしない。だからこそ、告白の舞台にふさわしいと、僕は思ったのだ。
ドアの前に立つ。錆びついて赤茶けた鉄製のドアノブが、やけに冷たく感じられた。
僕は一度、大きく深呼吸をした。吸い込んだ空気が、緊張で震えているのが分かる。大丈夫だ。彼女は来てくれる。僕は自分に言い聞かせ、意を決してドアノブを回した。
ギィ、と軋んだ音を立てて開いた扉の向こうには、時間が止まったかのような空間が広がっていた。カビと埃の匂いが、鼻をつく。壁際には、ずらりと並んだ古い映写機や、フィルムが収められた金属製の缶が、墓標のように積まれている。窓から差し込むオレンジ色の西日が、空気中を舞う無数の埃を金色に照らし出し、まるで神聖な光の筋のように見えた。
栞先輩は、まだ来ていない。約束の時間より、少し早く着きすぎたようだ。
僕は鞄を入口近くの椅子に置くと、心を落ち着かせるために、部屋の中をゆっくりと歩き回った。映写機の冷たい金属に触れてみる。壁にかけられた、黄ばんで破れたスクリーンを見上げる。ここで、彼女に、何を話そうか。
『先輩のことが、好きです』
『僕にとって、先輩は唯一の光なんです』
『僕の、特別な人になってください』
頭の中で、何度も何度も告白の言葉を反芻する。そのたびに、心臓が甘く、そして痛く締め付けられた。
だが、時間は無情に過ぎていく。壁の時計の針は、約束の時刻を指し、そして、それをゆっくりと通り過ぎていった。
五分が経った。
まだ来ない。生徒会の急な用事だろうか。それとも、来る途中で友人に引き止められているのかもしれない。
十分が経った。
僕の心に、じわりと不安の染みが広がっていく。掌が、じっとりと汗ばんできた。
十五分が経った。
不安は、明確な焦りに変わっていた。もしかして、場所を間違えた? いや、そんなはずはない。何度も確認した。じゃあ、どうして?
まさか。
――騙されたのか?
からかわれただけだったのか? 僕のような人間の、滑稽な勘違いを、彼女は陰で笑っているのかもしれない。そうだ、そうに違いない。僕なんかが、あの完璧な一条栞先輩と対等になれるはずがなかったんだ。全ては、僕が作り出した、都合のいい幻だったんだ。
自嘲的な笑みが、乾いた唇に浮かびかけた。もう帰ろう。これ以上、惨めな思いをするのはごめんだ。
僕が踵を返そうとした、その時だった。
部屋の奥、巨大な映写台と、壁際に積まれたフィルム缶の、その薄暗い隙間に、何かが見えた。
紺色の、布のようなもの。
見覚えのある、制服のスカートの裾……?
まさか。そんなはずはない。
心臓が、ドクン、と嫌な音を立てた。全身の血が、急速に冷えていく感覚。
僕は、まるで磁石に引かれる砂鉄のように、恐る恐る、その隙間へと足を進めた。一歩、また一歩と近づくにつれて、カビと埃の匂いに混じって、生臭い、鉄のような匂いが鼻腔をかすめた。
そして、見てしまった。
「…………え?」
声にならない、掠れた音が、喉から漏れた。
そこに倒れていたのは、一条栞だった。
彼女の美しい艶やかな黒髪が、べったりと床に張り付いている。そして、その根元から、後頭部から流れたのであろう血が、まるで黒い絵の具をぶちまけたかのように、じわりと、赤黒い染みを作っていた。
いつも僕を勇気づけてくれた、太陽のような笑顔はどこにもない。少しだけ開かれた唇は、血の気を失って青白く、その美しい瞳は、虚ろに天井の一点を、いや、どこでもない虚空を見つめていた。
時間が、止まった。
世界から、音が消えた。
何が、起きている?
どうして、先輩が、こんなところに?
誰が、こんなことを?
頭が、真っ白になる。思考が完全に停止し、目の前の光景を、脳が理解することを拒絶している。呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、息ができない。視界が、ぐにゃりと歪み始めた。
僕は、まるで操り人形のように、ふらふらと彼女のそばに膝をついた。
震える手を、伸ばす。
彼女の頬に、そっと触れた。
――冷たい。
信じられないほど、冷たかった。まるで、氷か、石に触れているかのようだった。
「……せん、ぱい……? 一条、先輩……?」
呼びかける声は、ひどく震えていた。返事はない。当たり前だ。僕は彼女の肩を掴み、がくがくと揺さぶった。だが、その身体は、まるで中身のない人形のように、ぐったりと揺れるだけだった。
違う。これは、何かの間違いだ。
悪い夢だ。そうだ、僕はまだ、自室のベッドで眠っているんだ。
そう必死に自分に言い聞かせても、手のひらに伝わる彼女の肌の絶望的な冷たさと、鼻をつく甘ったるい血の匂いが、これが紛れもない現実なのだと、僕に容赦なく告げていた。
彼女は、死んでいる。
その事実を、ついに認めざるを得なくなった瞬間、僕の中で何かがぷつりと切れた。
「ああ……あ、ああああああああああああああ!!」
絶叫が、狭い視聴覚室に響き渡る。
パニックの頂点で、僕はふと、強烈な気配を感じた。
ドアの、向こう。半開きになった扉の隙間から、廊下の暗がりから、誰かが、こちらをじっと見ていたような気がした。人影? いや、違う。それはもっと確かな、足音だったかもしれない。コツ、という、硬い靴音が、遠ざかっていくような……。
犯人だ。
犯人が、まだ、近くにいるのかもしれない。
その恐怖が、僕の絶望に満ちた心臓を、さらに強く鷲掴みにした。振り返ることができない。動くことも、声を出すこともできない。金縛りにあったように、ただ、床に広がる赤黒い染みを見つめることしかできなかった。
ぐらり、と世界が傾く。
激しい耳鳴りが、頭蓋骨の内側で鳴り響き、僕の意識を掻き乱していく。視界が急速に白く、そして黒く塗りつぶされていく。最後に感じたのは、手のひらに残る栞先輩の肌の、永遠のような冷たさだけだった。
僕は、糸の切れたマリオネットのように、その場に崩れ落ち、意識を手放した。
◇
暗闇。
冷たさ。
絶望。
永遠に続くかと思われた暗黒の世界で、不意に、聞き慣れた電子音が響き渡った。
ピピピ、ピピピ、ピピピ……。
その音に導かれるように、僕は、はっと目を開けた。
目に飛び込んできたのは、見慣れた自室の、染みひとつない白い天井だった。
「…………は?」
混乱したまま、ゆっくりと身体を起こす。僕は、自分のベッドの上にいた。着ているのは、よれよれのパジャマだ。窓の外は、まだ薄暗い。
悪夢を、見ていたのか……?
額に手をやると、びっしょりと冷たい汗をかいていた。心臓が、まだドクドクと激しく脈打っている。あまりにも、リアルな夢だった。旧視聴覚室の埃っぽい匂い。彼女の虚ろな瞳。そして、手のひらに焼き付いて離れない、あの絶望的なほどの冷たい感触。
僕は、現実と夢の境界線が分からなくなりながら、枕元に置かれたスマートフォンに手を伸ばした。けたたましく鳴り続けるアラームを、親指でスライドさせて止める。
そして、画面に表示された情報を見て、僕は、凍りついた。
**【 11月18日 (月) AM 6:30 】**
「…………え?」
声が出た。
理解できない。理解したくない。
11月18日。それは昨日だったはずだ。僕は、栞先輩の死体を発見して、パニックになって、意識を失って……。あれは、夢だったのか?
頭の中が、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられる。何が現実で、何が嘘なのか、まったく分からない。
僕は、まるで夢遊病者のように、無意識のうちにベッドから這い出し、制服に着替えた。顔を洗い、歯を磨く。日常の動作を繰り返すことで、どうにか正気を保とうとしているようだった。
これは、きっと夢の続きなんだ。
あるいは、あの惨劇こそが、疲れた僕の心が見せた、悪夢だったのかもしれない。そうだ、きっとそうだ。僕は、告白のプレッシャーに耐えきれず、最悪の妄想を夢として見てしまっただけなんだ。
そう自分に言い聞かせながら、僕は家を出た。足が、まるで自分の意志とは関係なく、勝手に学校へと向かっていく。悪夢の続きなのか、それとも悪夢から覚めたのか。その答えを確かめるために。
やがて、見慣れた碧翠学園の校門が見えてきた。
僕は、そこに信じられない光景を見た。
いた。
一条栞が、そこに立っていた。
死んだはずの彼女が。
僕の腕の中で、冷たくなっていたはずの彼女が。
いつものように、生徒会役員として校門の脇に立ち、登校してくる生徒たちに、太陽のような笑顔を振りまいている。友人たちと楽しそうに言葉を交わし、その黒髪を風に靡かせている。
僕が昨日(?)見た、あの絶望的な光景が、全て嘘だったかのように。
彼女は、そこに「生きて」いた。
僕の存在に気づいた栞先輩が、こちらを見て、ふわりと微笑みかけた。
その唇が、動く。
「おはよう、桜井くん」
何も知らない、いつも通りの、優しい声。
その声を、その笑顔を前にして、僕は、それが現実なのか、夢なのか、幻なのか、それとも神様が見せた奇跡なのか、何も判断することができなかった。
ただ、その場に立ち尽くし、目の前で微笑む「生きた」彼女の姿を、呆然と見つめることしか、できなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます