3 伝承


数日後――


冠着山の麓に広がる、小さな集落「羽尾(はお)」。


遠藤は県警の協力を得て捜索を一時中断し、独自に村人への聞き取りを始めていた。


田に向かう途中の道ばたで、鍬を肩にかけた老人に声をかけた。


「すみません、少しお話を伺っても?」


「ああ……なんぞ?」


「佐藤葵さんという女性について。先日の夜、棚田付近で行方不明になりまして……」


老人はしばし無言で、鍬の柄を地面に突き立てた。


「……月の晩だったかね」


「はい、満月の夜です」


「そりゃあ、なら仕方ねえ」


「……仕方ない、とは?」


老人は遠藤をちらりと見たあと、口を閉ざした。その目に浮かんだのは、あきらめにも似た、古い恐れだった。


「話すなら、庄屋んとこの婆さまがいい。まだ物の区別がつく」


「“庄屋んとこ”……?」


「山の裏手、栗林の奥の一軒家よ。昔は名主だった。今じゃ変わり者って言われてるが、**昔からの“こと”**は、よう知ってらっしゃる。……“池のこと”もな」


「池?」


「抱き岩の裏手にある、ちいさな水たまりのことだよ。……あそこは、いちばん深い」


遠藤は礼を言って、山際の細道を進んだ。


午後4時過ぎ。


薄曇りの空が、棚田の水面を淡く曇らせていた。 案内通りに進んだ先、森の縁に、苔むした石垣と、茅葺の古屋がぽつんと建っていた。


門の前で遠藤が声をかけると、しばらくして、引き戸がきぃ、と開いた。


「……お前さん、見てしまったかい?」


現れたのは、まるで時間から切り離されたような老婆だった。 細く曲がった背、紙のように薄い肌、深い皺の合間から覗く目だけが、鋭く光っている。


「……見たか、と言われると」


遠藤が言いかけると、老婆は遠くの棚田の方をじっと見た。


「“抱き岩”に、立ってたろ。白い影が。あれは“姥”じゃない、“呼び手”だよ」


「“呼び手”? “姥”とは違う存在なんですか」


「“姥”は山に捨てられた者……でもね、“呼び手”は捨てた者の声なんだよ」


遠藤は背筋がぞわりとした。


「どういう意味です?」


老婆はゆっくりと歩き、部屋の奥から、一枚の古い木版画を持ってきた。


煤けた絵には、棚田の上に立つ白い女の影。その足元に、いくつもの手が地中から伸びていた。 さらに、その絵の片隅には、抱き岩の裏手にあると思しき小さな池も描かれており、そこには水面に浮かぶ“顔のような影”があった。


「……ここではな、年寄りが山に行くとき、家族が“呼び手”になることがあったのさ。名を呼び、背を押して。……名を呼ばれた者は、逃げられん」


「……今もそれが続いていると?」


老婆は首を振った。


「もう誰も、山に棄てたりはせんよ。だが……呼び声だけは、山に残ってる。誰かがそこに“応えて”しまうと、引きずり込まれるのさ」


「佐藤葵さんも……?」


老婆は、静かにうなずいた。


「気の毒に。あの子、何かに“返事”してしまったんだろう。月に照らされながら、名前を呼ばれて――“はい”と」


遠藤は言葉を失った。


「……ひとつ、尋ねます。あなたはなぜ、そんなに詳しいんですか?」


老婆は一瞬、笑ったように見えた。だがその笑みは、どこか冷たかった。


「うちは“呼び手の家系”だからさ。昔は……よく人を送ったよ。とくに、あの池へな」


「池へ?」


「抱き岩の裏にある小さな池。深くもないように見えてね……底が、ないのさ。底じゃなくて、“向こう”につながってる。そこに落ちた声は、二度と返ってこない」


「佐藤さんも……?」


「“呼ばれた者”が最後に立ち止まるのは、決まってあの池の前さ。鏡みたいな水面を見つめながら、自分の名前を呼ばれる。そして、返事をしてしまうんだよ」


老婆は遠くの棚田を見やった。


「……あの池は、“返事の場所”なんだ。あそこで返せば、もう戻れん」


その瞬間、外の風が、戸をガタリと揺らした。


遠藤も、気配に気づいた。


視線を棚田の方へ向けると、日がまだ暮れていないにも関わらず、水田の一角に、白いワンピースの“背中”が見えていた。


立ち尽くし、動かない背中。 顔は見えない。……だが、遠藤には確信があった。


(……佐藤葵だ)


遠藤は立ち上がった。 だが、老婆が静かに手を上げて制した。


「……追うな。まだ、“名前”を呼ばれていないうちは、引き返せる」


「……でも、あれは……!」


「“あれ”は、もう“向こう”の者だよ。呼ばれて、返事をしてしまった者。 あなたが今度、“遠藤さん”と名前を呼ばれたら黙ってなさいよ」


老婆の声は静かだったが、絶対的な冷気を含んでいた。


遠藤はもう一度、水田の先を見た。 ……だが、そこに背中はなかった。


ただ、風に揺れる水と、ぼんやりとにじむ空の影。 その先、抱き岩のさらに奥にある池の水面が、不自然なほど静かに、まるで“こちらを覗き返す鏡”のように光っていた。現実とは到底信じ難い話。ただの伝承なのか。

今日は蛍1匹しか見ていない。      あれほどいた蛍が日に日に死んで行く。





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