第26話 運命の日②
短い冬休みを経て、新学期。登校すると、クラスがざわざわしていた。その震源地である外村くんの姿は、まだない。
「おはよう……ゆ、由梨乃」
面と向かって名前を呼ばれるのは初めてだ。もじもじしているかれんの目をしっかりと見つめて、「おはよう、かれん」と、挨拶を返した。
パッと表情が明るくなる。かれんは私の隣の席に座り、本腰を入れて話を始める。
「ね! 大地、デビュー決まってよかったよね」
「うん……間に合ってよかった」
うっかり呟いたが、興奮したかれんは、聞きとがめなかった。
「まだ本人は、来てないみたいだけど」
「そうだね。いつもならもう来ててもおかしくないのに」
もう遅刻ギリギリという時間だ。新学期早々に欠席か、遅刻か。残りわずかな高校生活なんだから、少しくらい優先してくれてもいいのにね。事務所ってブラック。
そんな話をしていると、生田先生がやってきた。
いつもはきびきびと教室に入ってくる。特に今日は新学期だ。長期休みでダレた生徒たちに、発破をかけるように振る舞うのに、顔がこわばっている。
出席を取るも、外村くんの名を呼ばないことに、違和感を覚える。金子くんが、「先生、大地が来てないですけど」と突っ込んだ。
先生は空席を見て、それから痛ましい表情で、彼の欠席理由を口にした。
「外村の、お姉さんが亡くなったそうだ」
息をのんだ。
先月会ったときは元気だった。一時帰宅を楽しみにしていたのに、どうして。
教室がざわつく。隣の男子がこっそりと、「外村って、兄弟いたんだな」と囁く。彼は自分の家族のことを、ほとんど語らなかった。
クラスの中で、お姉さんの顔を知っているのは私だけだった。
外村くんの活躍を、誰よりも応援していた彼女。
外村くんがアイドルを目指す理由になった彼女。
その死が、どれほど彼の心に影を落とすのか。
デビューの喜びに浸っていた矢先、こんな絶望に突き落とすなんて、神様は、どうして。
もしかして、私がメッセージを送ったときには、もう危ない状態だったのか。理由なく、既読スルーする人じゃない。
だとしたら、私はなんてことをしてしまったのだろう。家族が死に瀕しているところへの「おめでとう」は、彼の心を抉ったに違いない。
謝りたいけれど、謝ったところでどうなる?
「田川? 具合悪いのか?」
俯き、あふれ出す涙を見られないようにする私を気遣う言葉に、首を横に振る。
私が泣いたって、美空さんは戻ってこない。外村くんが元気になるわけじゃない。
それでも、泣かずにはいられなかった。
美空さんも、外村くんたち家族もみんな、遠くないうちに来る死を覚悟していた。それでも、どうして今なんだろう。
まだ外村くんのデビュー曲すら決まっていないのに。
三学期は、基本的に自由登校になる。教室の人数は毎日まばらだった。
私はといえば、講習に参加したり、自習したり、結局毎日登校していた。ショートホームルームに出たあとは、どこで過ごしてもいいルールになっている。
ホームルームまでの時間を息抜きと称して喋っていると、チャイムが鳴るギリギリになって扉が開く。一瞬、クラスが静まり返った。
だって、彼が来るとは誰も思わなかった。
「外村くん……」
「田川さん。おはよう」
冬休み明け、初めて顔を合わせた。教室の空気は、冷えている。
高校三年生、身内を亡くしたことがない子もいる。葬儀に出た記憶があっても、それは祖父母以上の世代がほとんどだ。だから、彼にどう話しかければいいのかわからずに、お互いの顔を見合わせた。ぎこちない「おはよう」の挨拶に、外村くんからは、以前と変わらぬ笑顔が返ってくる。
「始業式も来れんかったし、一日どっかで登校せんとなー、と思って。ようやく落ち着いたから」
クラスメイトたちは、あからさまにホッとした。家族の話題は持ち出さずに、デビューのお祝いを述べる。
私も直接「おめでとう」と言いたかったけれど、できなかった。
彼の笑顔の裏に、どれだけの涙が隠れているのかを考えると、軽々しく口にはできない。
ホームルームが終わり、講習に出席する人、図書室に行く人、散り散りになる中、外村くんはひとりで静かに教室を出て行った。
変わりない様子の彼に安心した同級生は、気に留めない。鞄を持っていったから、本当に顔を出しただけで、すぐに帰宅するつもりだと判断したのだろう。
でも私は、彼の背を目で追った。いつもしゃんと伸びた背筋が、わずかに曲がっていく。
これからアイドルとして正式デビューを迎える人間とは思えない、人生に疲れた背中に、ぎゅっと胸を掴まれ、私は彼を追いかけた。
走ると歩くのギリギリの間の速度で、廊下を突き進み、階段を上る。他の学年は、普通に授業をしている。それでもやっぱり、普通教室棟と比べて静かだった。
四階端、見慣れた教室。扉の前で耳を澄ませるが、何も聞こえてこない。でも、人の気配はする。
扉を開けようとして、気持ちが入りすぎて一度失敗した。ガン、という音とともに開いた部屋の中、呆然とする外村くんに、「やっぱり」と思わず言ってしまった。
「やっぱりここにいた」
「田川、さん……」
目を瞬かせた彼は、「あ~……自習?」と気を遣って出て行こうとする。それを引き留めて座らせ、私も向かいの椅子に腰を下ろした。
明らかにそわそわして、不自然に逸らされた視線。その目元や鼻が赤くなっている。
「ごめんね。本当は、ひとりになりたかったのかもしれないけど……どうしても、放っておけなくて」
たぶん、外村くんは今、ギリギリの精神状態にある。
夢を肩代わりするほど愛した、お姉さん。その死を受け止めきれないのは、当たり前だ。
クラスメイトの前でも、何もなかったかのように振る舞った彼は、両親を元気づけるため、家でも気丈に過ごしているに違いない。家でも学校でも、彼はアイドルの仮面をかぶり続けている。
彼は強い人。でも私は、すでに弱い一面を知っている。
静かに、私は外村くんが話すのを待った。勉強する気配のない私を見て、彼は意図を察してくれる。
誰かに話を聞いてもらうことで、ラクになることもある。進路に悩む私の愚痴を、外村くんは黙って聞いてくれた。今度は私の番だ。彼とちがって、的確なアドバイスはできない。でも、する必要はないだろう。余計なお世話だ。
最初に変化が起きたのは、彼の唇だった。ぶるぶると震えて、嗚咽する。泣き顔を見られまいと両手で覆い、外村くんはただ、涙を零した。
呼吸を乱して咳き込んだ彼の背を、私は黙って優しく摩る。
話ができるようになるまでに、十分以上かかった。鼻を鳴らし、目も充血した彼は、アイドルとは思えない本気の泣き跡を、恥ずかしげもなく私に晒した。なんだかその顔を見ているだけで、私もツン、と鼻の奥が痛くなる。
「俺、デビュー決まったやん」
「うん」
おめでとうと言ってほしくなさそうに見えたので、私は頷くにとどめた。
外村くんは背中を丸めっぱなしだ。
「でも、姉ちゃん、死んでもうた」
「うん……悲しいね。いつかお墓参りに行きたいな」
言えば、外村くんは「姉ちゃんも喜ぶと思うわ」と、小さく微笑んだ。落ち着いたら彼に、お墓の場所だけ聞こう。私は彼女の友人だもの。その権利がある。
「デビューするのに、姉ちゃんはおらん……ほんまに俺、アイドルとしてやってけるんやろうか」
アイドルを目指す原動力は、美空さんだった。どのファンも大事だと、彼は口では言う。
でも、彼女が一番のファンだった。外村くんはずっと、美空さんのためだけに努力をしていたのだ。
「シスコン」と罵る人もいるだろう。ファンが減るかもしれない。
外村くんはお姉さん想いだけど、これまで雑誌のインタビューやラジオなどで、彼女の存在を明かしたことは一度もなかった。かれんですら、「大地、お姉さんいたんだ……」と驚いたくらい、厳重に秘匿していた。
美空さんは、外村くんにとっての唯一の人。彼女以上に大切な存在が、彼にあるはずもない。
「姉ちゃんがおらんかったら、俺がアイドルやってんのも意味ない!」
強い叫び声にハッとして、思わず手が出た。とはいえ、非力な女の平手だったし、本気でぶったわけでもない。正気に戻すための行動だった。
私に叩かれるとは思っていなかったのだろう。外村くんは頬を押さえ、驚きに固まった。その隙に私は立ち上がり、彼の頭を抱きかかえる。
「そんなこと、言わないでよ!」
「田川、さん?」
ぐっと自分の胸に押しつけると、いまだ流れる彼の涙を、学校指定のカーディガンが吸っていく。もがく動作もおとなしい外村くんを押さえ込むのは、そんなに難しいことじゃなかった。
「アイドルは、お姉さんだけの夢? 違うでしょ?」
きっかけはそうでも、外村くんは自分の夢になったと、私に語ってくれた。あの言葉に嘘はないでしょう?
「お姉さんの代わりになんてなれないのは、わかってる!」
私はそっと彼から身体を離す。うつむく彼の肩を掴んで、じっと真正面から目を見つめる。
あなたのことを心から応援している
「私や、他の応援しているファンの気持ちを理由にして。私ひとりじゃ力不足かもしれないけど、でもあなたには、たくさんのファンがいる。これから一緒にアイドルとして活動していく、仲間がいる……」
震える彼の手を、そっと両手で包み込む。だめ。私が泣いちゃだめ。笑って。笑え。笑顔に力があると教えてくれたのは、外村くんだ。
「ねぇ。私たちに見せて。ステージで、あなたが光り輝く姿。あなたを見て、救われる人がいる」
「田川さん……」
外村くんは、いまだ弱々しい声で私の名前を呼ぶ。でも、その目には少しだけ、力が戻った気がした。
「もうちょい、泣かせてもらってええ?」
ぽすん、と力を預けて私の胸にもたれかかってくる彼の頭を、ぎゅっと抱きしめた。
お互いの心音に、耳を傾け合っていると、次第に落ち着いていくのがわかる。
「うん……」
目を閉じれば、さらりと彼の髪の毛の流れを感じた。
遠くでチャイムが鳴り終わり、外村くんは私から離れた。
その日を最後に、私たちが学校で顔を合わせることはなかった。外村くんは、お姉さんを亡くして四十九日も経過していないはずなのに、微塵もそれを感じさせない顔で、テレビに出演していた。
二月になると、私の受験も本格化した。本命の大学は、東京会場でも受験できた。けれど私は、万全を期して、大学キャンパスで行われる本入試にもチャレンジした。
新幹線で下り立った大阪の地は、東京とは全然ちがう、けれど同じくらい、いや、それ以上に活気にあふれた街だった。言葉がちがう。匂いがちがう。でもどこか、懐かしいのはなぜだろう。
試験へのプレッシャーだけでなく、周りに知り合いのいない状況はストレスだった。
かれんや千里子が電話をしてくれなかったら、夜中に泣いてしまったかもしれない。
受験会場には、彼にもらった口紅をポーチに入れて持参して、トイレに行く度に鏡の前で、塗る振りをした。
そうすると、外村くんが傍にいて、「頑張れ」と肩を叩いてくれるような気がして、実力以上の力を発揮できたと思う。
そしてすべての受験結果が出て、三月――。
私はある決意をもって、卒業式へと臨んだ。
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