第3話 ビンタで始まる春休みの出会い③

 初めて彼を見た日、笑みを浮かべていた唇が、痛々しく腫れている。ペットボトルで冷やしているから、幾分はマシかとは思うけれど、傷は消えてなくならない。


「今日って保健室、開いとるんかな……」


 傷口に触れて確認している外村くんの眉毛は、情けなく下がっている。


 告白されていた男子が彼だとわかってしまえば、女子からの告白は、「受け入れない」の一択しか考えられなかった。


 大阪から転校してきた彼は、芸能事務所の研修生、すなわちアイドルのタマゴだ。デビューはまだでも、雑誌撮影やコンサートのバックダンサーを務めている外村くんは、私が想像していたような「もどき」ではなく、立派な芸能人である。


 昨今、ワイドショーや週刊誌だけじゃなくて、ネットの素人たちも探偵気取りで、芸能人のスキャンダルを追いかけ、糾弾する。


 彼の事務所は、所属タレント本人にSNSアカウントの運用をさせることはほとんどない。スタッフがメインで、たまに本人が呟く程度だ。しかし、個人で非公開アカウントを持っていないとは、限らない。そういうのがどこからかバレて、炎上状態になるなんてことは、もはや日常茶飯事だ。


 彼自身は、SNSはやっていない。それどころか、個人的な連絡先を知っているクラスメイトも限られている、らしい。


 ほとんどの子がスマホを持っていて、トークアプリを入れている。隣のクラスも、全体連絡はトークグループを作ってそこに発信するようにしているそうだけれど、外村くんは加入していない。一番仲のいい友達にだけ連絡先を伝えていて、彼経由でしか連絡ができないのだと、隣のクラスの子が愚痴っていたのを、思い出した。


 目の前で傷の具合を確かめている外村くんは、絶世の美少年というわけではない。口が悪い千里子は後日、ようやく顔を拝むことができたときに、「ふーん。大したことなくね?」などと宣った。


 そりゃ、千里子が見ているアニメの美形キャラの方が、キラキラしているだろう。けれど、外村くんはこう、うまく言えないのだけれど、絶妙なバランスなのだ。


 十人いたら、八人は格好いいと言うけれど、あとの二人は千里子と同意見かもしれない。なのに、ふとした瞬間、目を引く。


 それは誰かを傷つける冗談や、病気の人をからかう行為に沈黙したその一瞬だったりした。あるいは、珍しくひとりで歩いていて、無意識のうちにご機嫌な鼻歌を歌っていることに気づき、「うわ、聞かれてないかな!?」と、焦ったときだったりもした。


 日常と非日常。ずっと昔からの友人であるような、生活に溶け込む空気感と、唯一無二の存在感。その両方が、外村くんの魅力だと思う。


 だから彼は、めちゃくちゃモテた。アイドルはアイドルでもタマゴだ。人当たりのよさも相まって、手に届きそうな気がしてしまう。


 転校してきてから、彼に告白したという女子生徒の話は、星の数ほど聞いた。決して情報通とはいえない私の耳にすら届くくらいだ。実際は、もっと多くの女子生徒から告白されているのだろう。


 でも、どんなに男子に人気のある女の子であっても、振った。いつだって彼の断り文句は、そう。


「俺はアイドルやから、どんなに好きになってもらっても、恋人にはなれへんっちゅうに……」


 外村くんは、己を律している。告白されて悪い気はしないだろう。


 今日の相手は、ちらっと見ただけでも美人だった。やはりアイドル相手だと、ある程度自分に自信がないと、そもそも告白どころか話しかけることすらできないだろう。


 顔をしかめて唇に触れ、血が出ていないかを何度も確認する外村くんを見て、私は少しだけ、近づいた。


 だって心配だし。それに、私は別に、外村くんに恋なんてしていないから。そう言い聞かせた。


「あの、私、その、傷薬……」

「あん?」


 小さな声に対する返事は、彼にとっては自然なものだ。たった二音でも、関西のイントネーションは、消せないものなのだと知る。しかも、そこそこ大きな声なものだから、私の身体を竦ませるのに十分だった。


 そんな私の反応を、怪訝な顔で彼は見つめてくる。ぎこちないながらもどうにか身体を動かして、「き、傷薬、持ってるから」と言って、地学準備室の扉に手をかけた。


「あれ? そこって開かずの教室じゃあ」


 現在は地学の授業もなく、専門の講師もいない。特別棟の四階は、ほとんど人がいつかない場所だ。


 昔、マンモス校と呼ばれていた時代は、四階までびっしりと教室が埋まっていたらしいが、少子化の現在、空き教室は多い。何かやりたいことがあるとき、こんなところまで来る理由がない。


 生徒たちはおろか、教師たちも「施錠したまま、誰かが鍵をなくしたのだろう」と考え、放置されていた。本当はいけないのだろうけれど、予算を使うのはもったいないと判断された。そもそも使っていない場所だ。支障がない。


 でも実際は、鍵なんてかかっていなかった。扉が歪んでしまっているだけ。そこまで校舎が老朽化しているわけではないから、何かきっかけがあったのだろう。地震とか。


 引き戸の取っ手を持ち、思い切り力を入れて引っ張る。同時に、扉の右下を強めに蹴る。


 おとなしい風貌の私が、急に乱暴な振る舞いをしたことに、外村くんは目を丸くしている。だがそれもすぐに、扉が開いたことへの驚きへと変化した。


「すっご。なんで?」


 男の子はみんな、秘密基地が好きだ。わかりやすくテンションが上がっている外村くんに、思わず口元が緩んでしまう。


 地学準備室の開け方は、一年のときに、当時三年の先輩が教えてくれたものだった。


 彼もまた、先輩から聞いたとのことで、代々お気に入りの後輩に伝授してから卒業するのだそう。


 私は部活もやっていないし、仲のいい後輩はいないから、その伝統も、申し訳ないことに、私の代で終わってしまう。


 あの先輩が、どうして私を選んだのかは、よくわからない。ある日、突然声をかけられた。


 名前もい知らん、見たことのない男子生徒だった。すでに記憶は曖昧になっていて、きっと私と同じくらい平凡で、目立たないタイプだった。


 人気のない特別棟をふらふらしたり、ぼんやりと廊下の窓から外を眺めたりしている私を見て、秘密の場所を共有してやろうという気になったらしい。


 そのあたりの細かい事情を話すには、私のトークスキルが不足していた。ただひたすら、唇に曖昧な微笑みを浮かべるだけだ。私の表情をどう読み取ったのか、「せやな。ヒミツに決まっとるわ」と、納得している様子。


 中に入った外村くんは、くしゃみをひとつ。定期的に掃除をするようにはしているけれど、少し埃っぽいかもしれない。窓を開けて空気の入れ換えをしたいところだが、残念ながら、外は雨が降っている。


 鼻をすすり上げる外村くんに、ポケットティッシュをすばやく渡す。


「おお……ありがとさん」


 鞄から続けて、救急セットの入っているポーチを取り出す。ばんそうこうはもちろん、傷薬や虫刺されの薬なども入れてある。


 そうだ。鏡も必要だよね。顔だもん。


 あわあわしながら鞄を探る私を見て、外村くんが背後で「ぷっ」と、噴き出した。びくっとしてしまうのが情けない。


「ああ、ごめんごめん。なんか、ドラえもんのポケットみたいやな、君のカバン」


 万が一の事態に備えて、鞄には入るだけの便利グッズを詰めている。折りたたみ傘以外にも、携帯のレインコートを持っているし、スマートフォンの充電器は、常に二個持ちだ。


 弟には「心配性にもほどがある」と呆れられることが多いが、その度に私の手荷物に助けられたことだって、一度や二度じゃないだろうと論破している。


 外村くんは、受け取った鏡で自分の顔を見ながら、手当てを始めた。思った以上に傷が目立つことに衝撃を受け、「うへぇ」と言いながら、薬をちょんちょんと塗る。


「ばんそうこうも、どうぞ」

「ほんま、おおきに!」


 切り離して渡そうとしたところで、大きな声で礼を言われて、思わず取り落とす。本当は私が拾わなきゃいけないのに、彼は何も言わずに拾い上げ、不器用な手つきで唇の傷に貼った。


 真っ赤な傷そのものは隠れても、ばんそうこうは逆に、痛々しさを強調する。アイドルは顔が命だという。いつまでも残ったりしなければいいけれど……そんな心配をしながら、横目で見守っていると、ふと視線がかち合った。


 真顔だったのは一瞬。外村くんはなぜか、私を見つめると、へにゃりと情けなく眉を下げた。


「あのさ、俺、なんかした?」

「え」

「よく言われんねん。お前はデリカシーをオカンの腹ん中に忘れてきたんかー、って。なんや知らんうちに傷つけたんかと思て」


 早口の関西弁に、圧倒される。私が沈黙しているのをよそに、「いやでも今日が初対面やんな」「それとも俺が忘れとるだけか」と、ブツブツ呟いている。


 私は慌てて、「ち、ちがうんです!」と、否定した。理由を告げなければ、納得してはもらえないだろう。


 疑問と期待の入り交じった外村くんの瞳は、ピュアた。目を合わせることができない。


 気分を悪くするんじゃないか、迷いつつも口にする。


「その、関西弁、怖くて」

「怖い?」


 小学校のときの担任が、関西出身だった。いつも青いジャージの上下を身につけていて、声が馬鹿みたいに大きい。機嫌のいいときは、自分で飛ばした冗談にガハハと笑い、そうでないときは些細な失敗や忘れ物なんかを、ありえないくらい怒る。手を出すことがなかったあたり、狡猾な面もある。


 私自身はおとなしい子どもだったから、直接何かがあったわけではない。それでも、帰りの会のとき、とばっちりで怒鳴られることは、幾度となくあった。


「それに」


 ちらっと外村くんを窺う。


「それに?」


 促されて、私はどもりながらも、どうにか話を最後まで続けた。


「か、関西の人って、関西弁にすごく、誇りを持っているっていうか」


 くだんの教師も、関西にいたのは幼少期だけだったそうだ。中学からはずっと東京にいたというのに、関西弁のままだった。生まれ育ちが大阪であることをずっと主張し続ける。それが唯一の誇りなのか、むなしい大人だった。


 あの先生のせいで、私はしばらくの間、バラエティ番組が一切見られなかった。それこそお笑い芸人は、大阪やその近県の出身者が多い。しかも、漫才ではけっこう激しく相方の頭をどつく。暴力的なツッコミは、面白いどころか、恐怖だった。


 これは今も尾を引いている。弟がお笑い番組を見ようとテレビのチャンネルを変えた瞬間、食事中でもなければ、部屋に引っ込むようにしている。


 私は俯いて、外村くんの反応を待つ。彼もまた、生粋の関西人。東京に引っ越してきても、自分自身の言葉は決して揺らがない。そんな人の前で、私は関西弁をディスってしまった。


 小さくこぼれた溜息に、私はまた、大げさに肩を揺らした。


「ああ、ちゃうちゃう。そういう人も、おるよな。うん」


 友達ですら、「関西弁が怖い」という私の気持ちは理解してくれない。


 面白くてかっこいい。方言男子っていいじゃん。


 そんな評価をする子ばかりだったから、当の関西弁話者が同意するなんて、意外だった。


 顔を上げた私に、外村くんはにっこりと笑い、喉を押さえて、なぜか発声練習を始めた。咳払いをした後で、


「そういう人の前では、できる限り標準語? 東京弁? で喋るようにしたいよね!」


 瞬きとともに、彼をじっと見つめてしまう。不自然な響きだ。間違いなく無理をしている。唇がぷるぷると震え、どちらからともなく、声を上げて笑う。


 外村くんの笑い声は、地声よりも幾分高かった。低いところから高くなっていくのが特徴的で、きっと、目隠しをした状態で聞いても、彼だとわかるに違いない。


「ふふ……大丈夫。外村くんが優しいのは、わかったから、関西弁でも、たぶん」

「ほんま?」


 先ほどよりも柔らかなイントネーションに、外村くんの気遣いを感じた。なんだか頬が緩む。


 そこで初めて、私は彼と面と向かって話ができていることに、気がついた。アイドル相手に、なんてことだ。


 大勢と知り合うことよりも、気心の知れた少人数の友人たちと一緒にいる方が心地よい私は、人見知りの気が多少ある。


 自分の素の性格がよみがえってきて、私は再び、だんまりになってしまう。外村くんも空気を読んで、話しかけてこないから、雨が窓を叩く音だけが響く。


 何か話をした方がいいのかな。あれ、そういえば私、名前も名乗ってない。


「あ、あの!」


 と、私が口を開いたのと同時だった。


『二年A組、外村大地。二年A組、外村大地。至急教室に戻りなさい』


 くぐもった校内放送の音声が流れた。どの先生だかわからないけれど、男の人の声で、不明瞭であっても、怒っていることだけは、はっきりと感じ取ることのできる声だった。


 外村くんは青くなり、頭を掻きむしった。


「せやった! 俺今日、補習で来とってん!」


 デビュー前とはいえ、仕事の関係で遅刻や早退がどうしても多い彼は、出席日数はギリギリだし、テストの点数も赤点スレスレだったりする。


 すでに芸能の仕事を請け負っている外村くんに、ノウハウがないながらも、先生たちは気を回して、補習日程を彼のためだけに、わざわざ組んでくれている。


 背中に「行きたくない」という感情を背負った状態で、外村くんはとぼとぼと出入り口に向かった。中からは簡単に扉が開く。一歩廊下に踏み出そうとした彼は、ふと何かを思い出したように、振り返って笑った。


「ほんまありがとう。ゆりのちゃん?」

「!?」


 唐突に下の名前で呼ばれた。同性ならまだしも、身内以外の異性にそうやって呼ばれるのは、小学校低学年以来だ。驚き固まった私をよそに、外村くんは廊下を走って、自分の教室へと帰っていく。


 どうして名前、知ってるの?


 しばらく呆然としていた私が、「ゆりの」というネーム入りのチャームの存在に気がついたのは、帰宅しようと鞄を持ち上げた、そのときだった。


 途端に足に力が入らなくなり、その場にへたりこむ。


 結局家に帰ることができたのは、しばらく経ってからだった。


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