【第十三話:ざわめく教室、揺らぐ境界】

 早朝の鐘が鳴り、魔導学園ルクシアの一日が始まる。


 だが、その空気はどこか静かで、重かった。

 澄んだ空気のはずなのに、肌にまとわりつくような妙な“湿り気”があった。



 「……んー……なんか、今日空気重くない?」


 学生寮の廊下を歩くミーナ:リュミエールが、眠たげな目をこすりながら言った。

 金髪を揺らし、肩に背負った杖がかすかに揺れる。


 隣を歩くグレイス:バーンレッドは眉をひそめる。


 「気のせいじゃないと思うよ。魔力が……まとわりついてる感じ。なにか、空が淀んでる」


 「うーん、寝坊しそうになったからかと思ったけど、なんか、違うかも……」


 ふだんは無邪気なミーナがどこか元気を欠いていた。

 グレイスも、周囲の空気を敏感に感じ取っていた。


 「ま、あんたが黙ると余計に不気味だよ。ほら、行くよ」


 「うん……」


 ふたりは並んで講義棟へと向かう。

 その背中には、見えない圧が薄くのしかかっていた。


 ◇


 アデル:セリオルは講義室への道を歩きながら、違和感を抱いていた。


 (なんだろう……頭がぼんやりする。眠いわけじゃない。気配……でも、はっきりしない)


 周囲の生徒たちも、どこか口数が少ない。

 雑談の声は聞こえるのに、内容がまるで耳に入ってこない。

 それはまるで、教室という空間そのものが“緩やかに沈んでいる”かのようだった。


 「アデル、調子が悪いんですか?」


 声をかけてきたのはマリア:サーペントだった。

 彼女もまた、微かな不調を感じ取っているようだった。


 「うーん、言葉にできないけど……なんか、世界の見え方がズレてる感じ。昨日変な夢を見たせいかな。」


 「それ……私も似たような感覚を。魔力の流れが歪んでるというか……軋んでるような感覚です」


 ふたりは顔を見合わせ、苦笑する。


 「……まさか同じ夢でも見たのかな」


 「それなら楽ですけどね」


 軽い冗談で終わらせようとした。

 だが、その違和感は一向に消えなかった。


 教室に入ると、他の生徒たちもまた、微妙に浮かない顔をしていた。


 リリス:ブラッドは窓際で静かに外を見つめていたが、普段より集中力を欠いていた。

 ライカ:フェングリムは机の上で拳を握りしめたまま、眉をひそめていた。


 そして、アスラ:マダリオンは授業前の談笑にも加わらず、筆記用具の整列にだけ集中していた。


 (全員、どこかが“普段と違う”)


 アデルはそう感じた。

 けれど、誰もそのことを口にしない。ただ静かに時間だけが進んでいく。


 教室内は何一つ変わらない風景、いつもと同じようだが違和感だけがその場を支配していた。


 そんな中、隣の席に座っていたアスラ:マダリオンが、ふと低い声で呟いた。


 「……お前も、感じてるか?」


 アデルは少し驚いてアスラの顔を見る。

 彼が自分から話しかけてくるのは珍しかった。


 「……ああ、何か……変だ。空気が重い、というか……」


 「違和感がある時点で“正常”じゃない。言語化できないのが、逆に気味が悪い」


 アスラの目は、教室の天井を見上げていた。

 何かを“測る”ように、魔力ではなく感覚を研ぎ澄ませているようだった。


 「気をつけろ。こういうときは、見えないものが動いてる」


 それだけ言って、彼は再び黙った。

 アデルはわずかに息を呑み、背筋を伸ばした。


 (アスラがあそこまで言うってことは……やっぱり、何かあるのか。)


 講義が始まると、担当の教師の声すらも少し掠れて聞こえた。

 空気が音を歪めているのか、集中力の問題か。


 “何か”が、確かにクラスの中にある。

 だけどそれが何なのか、誰にもはっきりとは分からない。


 一方その頃――


 ユリ:トキワは教師用資料室で魔導障壁の干渉記録を閲覧していた。

 前夜からの微弱な魔力振動が、結界内部で何度か観測されていたのだ。


 「……これ、外部からじゃない。結界の“内側”で、魔力の乱れのようなものが……?」


 彼女は眉をひそめ、すぐに詳細な解析を始めた。

 だが反応は曖昧で、座標は定まらない。


 (ふう…私の思い過ごしだといいんだけど…)


 彼女はファイルを閉じると、その違和感を断ち切るかのようにアデルたちのいる講義棟へと足を向けた。


 不協和音は、まだ音にならない。

 けれど、耳のいい者たちはそれに気づき始めている。


 教室の空気は揺らぎ始め、目に見えぬ“境界”が、微かに軋みを上げていた。


 ◇


 空は静かに晴れていた。

 雲ひとつない澄み切った青が、学園の屋根瓦を優しく照らしていた。

 風も穏やかで、まるで何事もない平穏を告げているかのようだった。


 ――にもかかわらず、マリア:サーペントの胸には、小さな棘のような違和感が残っていた。


 (今朝から……どうにも集中できない)


 いつもの朝食も、訓練場の空気も、変わらぬ日常のはずなのに――

 身体の奥、魔力の深層に、ごくわずかな“濁り”が生まれていた。

 それはまるで、完璧な旋律に一音だけ混ざる不協和音。音階に乗らない“音の影”のような、説明のつかない感覚だった。


 それは魔導計測器にも映らず、理屈でも捉えられない。

 けれど竜族としての本能が、確かにそれを“異常”だと訴えていた。


 (風も光も、何ひとつ変わらないのに――)


 講義が始まってすぐ、マリアはその違和感が“自分だけのものではない”ことに気づいた。


 周囲の空気が重い。

 教室に入ってきた生徒たちの表情には、どこか陰が差していた。


 隣の席で、いつも筆記が丁寧な生徒の手が止まり、顔が青ざめていた。

 別の席では女生徒が机に突っ伏し、意識があるのかすら分からない。

 教室そのものが、透明な膜で包まれたかのように沈黙し、音も熱も鈍く感じた。


 (これは……“魔力が歪んでいる”)


 魔力の流れ――いや、“空間そのものの調律”が乱れているような。

 その違和感は、突如として顕在化した。


 「――っ……うぅ……!」


 呻き声とともに、一人の生徒が椅子から崩れ落ちる。

 静寂を切り裂くようなその音に、教室内が一気に騒然となった。


 担当教師のユリ:トキワが慌てて駆け寄る。

 騒ぎ始める生徒たちの中で、マリアは即座に立ち上がり、意識を失った生徒へと近づいた。


 「……脈はある。でも……魔力が、枯渇してる……?」


 手を額に当て、魔力の流れを感じ取る。

 意識を奪うような呪文ではない。だが、内側から“何か”が魔力を削っているようだった。


 (これは……不特定多数に影響する性質? そんな術式……)


 ユリに目を向けると、彼女は迷いなく進み出た。


 「先生、彼女の様子が気になります。確証はありませんが、魔力が“何かに干渉”されている気がします」


 「魔力が?……わかりました、とにかく保険棟にすぐ連絡します。皆さんは自習をしててください。」


 ユリは戸惑いを浮かべながらも頷き、保健棟へ連絡を取った。


 教室の後方――

 マリアの視線の先には、アデル:セリオルとリリス:ブラッドの姿があった。


 ふたりとも、同じく“異常”を察知していた。

 とくにリリスの目は鋭く、何かを見定めようとするような、まるで獣のような集中力が宿っていた。


 (やはり、彼女も感じている……)


 マリアの心拍が高鳴る。


 それはまだ、確証ではない。

 けれど、見過ごせばまた誰かが倒れる気がした。


 ――そのときだった。


 すっと立ち上がったリリスが、無言のまま教室の扉へと歩き出した。

 足音は静かで、だが確かな意志を感じさせる。


 アデルもマリアもそのことには気づいていない。

 静かな追跡者はその足取りを異変の方角へと向け歩みを進め始めた。


 そのことに気づくものはいまはまだいなかった。




 教室を出たリリスは、静かに階段を下り、誰にも気づかれないよう人気のない廊下を進んだ。


 (気配が残ってる……この微細な痕跡。魔力というより、“気”の揺らぎ……)


 彼女の感覚が示す先――それは、旧研究棟のほうだった。


 使われなくなって久しいその場所には、現在は結界が張られ、立入禁止となっている。

 だが彼女の直感が告げていた。こちらに"なにか"があると。


 (こっちは旧研究棟の方……なんで?)


 不穏な胸騒ぎが、彼女の心を急かす。

 それはまだ確証には遠い。けれど、本能が告げていた。


 ――これは、偶然なんかじゃない。


 ◇


 講義の終了後、アデルは食堂で昼食を取ることにした。

 そこで、タガロフとシグの姿を見つけ、彼らのテーブルに自然と合流した。


 「やあ、アデル。なんだ、今日は顔色が悪いな」


 「そう? タガロフのほうが眠たそうに見えるけど」


 「うぐ……バレたか。昨夜、久しぶりに鍛錬しすぎたんだ」


 タガロフが豪快に笑うと、隣にいたシグ:エルグランドがフォローを入れた。


 「でも……タガロフの言う通り、今日の空気はやっぱり重いよ。湿度じゃなくて……魔力の粘性というか」


 「わかる。朝からずっとそんな感じだったよな」


 ミーナが背後から現れ、ぽんっとアデルの肩に手を置いた。


 「やっほー、アデル。やっぱりみんなも変な感じしてたのねー!」


 「お前は明るすぎて感覚ズレてるのかと思ったよ……」


 「え、ひどくない? 繊細なんだよ、私だって。さっきパン食べたら、なんか味がしなかったし!」


 一同が笑い、少しだけ場が和んだ。

 だが、誰もが“その違和感”を拭い去れたわけではなかった。


 そして午後の講義の時間にも再びそれは彼らの目の前で起こることになる。

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