小森の番人

あまくに みか

第1話 小森の番

 小さいころから持っていた魔法が、溶けていく感じがした。


 するすると、手の平からこぼれ落ちていくような。紗彩さあやは、今すぐに大人にならないといけない。そんな気持ちが、体中いっぱいにふくらんでいた。



「一緒に保健委員やりたかったのに、残念だったね」

 となりの席のまどかに声をかけられて、紗彩の意識は教室にもどってくる。

「えっ、もう委員会決め終わっちゃったの?」

 紗彩がそう言うと、まどかはこまった顔をした。

「紗彩、大丈夫? もしかして、ショックでおぼえていないの?」

「ショックって?」

「えっ、だって……」

 まどかが言いよどんだ時、担任の堀川先生に呼ばれた。

「赤羽さん、委員のことでお話があります」

「はい」


 立ち上がると、先ほどまで談笑していたクラスのみんなが、一斉にだまって紗彩のことを見た。

 紗彩は考えごとをしていたから、委員会決めの話を全然聞いていなかった。もしかして、堀川先生にそのことで怒られてしまうのかもしれない。入学して間もないというのにやらかしてしまった、と紗彩の目線は自然と床に向いてしまう。


 仕方がなく、堀川先生の方に歩いて行く。堀川先生は一言「ついていらっしゃい」とだけ言って、先に廊下を歩いて行ってしまった。


「赤羽さん、お家の事情はわかりますけれど、大事なお話は聞いていないといけませんよ」


 堀川先生に「お家の事情」と言われて、紗彩の顔が熱くなった。お母さんのこと、堀川先生が知っているのは当たり前だけれど、直接そのことを言われたのは初めてだったので、恥ずかしいような、胸の奥がざらざらしたような、ちっぽけな気持ちになった。


「それで、小森の番のことですが」

「え! 小森? わたしが? 選ばれたんですか?」


 大きな声を出すと、堀川先生はあきれたというように、大きなため息をはいた。


「じっと机の上を見つめているとは思っていたけれど、本当になにも聞いていなかったのですね」

「すみません」

「もうすぎてしまったことですから、仕方がありませんけれど。次からは気をつけなければいけませんよ。でないと、今のように驚くことになりますから」

「……はい」


 うなだれて紗彩はうつむいた。堀川先生に怒られたというよりも、小森の番に指名されたことの方がショックが大きかった。それも、ぼうっとしているあいだに決まってしまった。


「そう気落ちしないの」

 堀川先生が突然立ち止まると、先ほどまでの丁寧な口調とちがって、お母さんみたいな感じで言った。

「よいことじゃない。小森の番に選ばれるのは」


 紗彩は顔を跳ね上げた。

 大人はきっと、みんなそう言うだろう。他の中学校にはない、この竜森たつもり中学校だけの特別な委員会なのだから。


 小森というのは、学校の片隅に残された小さな森のことをさす。学校の敷地のはしっこを切り取って、別の世界をつなぎ合わせたような場所、それが小森だった。


 そこには小さな祠があるらしい。というのは、誰も小森の中に入ることを許されていないから。だから、本当に祠があるのか誰も知らない。


 知っているのは小森の番に選ばれた、たった一人の生徒だけ。

 誰が小森の番を決めるのかわからないけれど「選ばれた、たった一人」というのが、大人たちにとっては重要で「よい」ことなのである。


 紗彩だって、保健委員とか図書委員をしてみたかった。でも、その委員を絶対にやりたいかと言われると、そうでもない。委員会でなにをするかというより、友だちと一緒になにかをするということが、紗彩たちにとって「よい」ことなのだ。

 でも。


「仕方がないか……」

 紗彩がここでイヤだとだだをこねても、決まってしまったことは変えられないし、紗彩の代わりに小森の番をやりたいと名乗り出てくれる人はいないだろう。


 なぜなら、小森にはいい噂がないから。


 昔、きも試しに小森に入った男女五人の生徒が、あのせまい小森の中で迷子になったという。迷子になった子たちの親や先生、警察も出て来て探したけれど五人は見つからず、三日後に校内を幽鬼のようにうろついているところを発見されたらしい。


 その噂が本当かどうかはわからないけれど、小森の周りには竹でつくられた柵と生徒たちが入れないようにする小さな門によって、厳重に封じられている。


 そして今、その門に紗彩たちは向かっている。コケむした小さくて今にもくずれおちそうな屋根。その下には、細い竹が縦にならんで扉の役割をはたしている。竹と竹の間から、小森の中が少しだけ見えた。


 誰かが、小森の中にいた。


 背中までとどく長い髪を、三つ編みに結っている。三つ編みが小森の風で、ゆっくりゆれた。その人物が振り返ると、白い顔がこちらを見た。


「堀川先生」

「三島さん」


 紗彩は小森の中から出て来た人を見て、ほっとため息をはいた。お化けがいるのかとヒヤッとした気持ちになったが、どうやら勘違いで三年生の先輩のようだった。


「はじめまして、赤羽さん。私は三島薫子。薫子って下の名前で呼んでくれるとうれしいな。まだ、三島の苗字はなれなくて」


 紗彩が首をかしげると、薫子はぷっとふき出して笑った。


「ごめん、ごめん。最初から、話さないとわからないよね」


 そう言って薫子が堀川先生に向かって目配せをすると、堀川先生はだまってうなずいた。


「じゃあ、赤羽さん。ここからは三島さんのお話をよく聞いて、引き継いでくださいね」


 堀川先生の後ろ姿が見えなくなると、ようやく薫子が口を開いた。


「私はね、赤羽さんの前に小森の番に指名されて、雨龍あめりゅう様のお世話をしていたんだよ」

「あめりゅうさま?」

「うん、この先にある祠に住んでいる神様のこと。実際に、見てもらったほうがいいかも」 


 そう言うと、薫子は古めかしい鍵を取り出した。丸い輪っかがついた黒い鍵だ。


「この鍵も、今日で赤羽さんに引き継ぐね」

 小森の門を鍵で開けると、門は小さな音でキィと鳴いた。

「薫子先輩は、どうしてわたしの名前を知っているんですか?」


 ちょうど薫子が門をくぐろうとしていた時だ。はたと足を止めた薫子は、メガネの奥にある目を丸くして、紗彩を見つめた。


「聞いたから」

「堀川先生に?」

「ううん。雨龍様に」


 小森の奥の方から、風がふいた。薫子と紗彩の間をスルリとぬけていく。

 薫子が風の吹いた方をちらりと見てから、小さな声で言った。


「私たち、雨龍様に選ばれたの。小森の番をすることになる子って、きっと同じなんだと思う。選ばれる子は、みんな同じなにかを抱えている子なんだって、私は思っている」


 薫子先輩って、スピリチュアルな人なのかもしれない。神に選ばれたとか、神の声を聞いたとか。ヤバイ人なのかもしれない、紗彩はそう思った。


「ちょっと、よくわからないです」

「そうだよね。うん。私もそうだったよ。神様とかそういうの、信じていなかった。だからね、大丈夫だよ。赤羽さんも、小森の番をきちんと出来るようになるよ」


 紗彩はとりあえずうなずいてみせたが、薫子の言っていることのほとんどが、理解できなかった。 


「まずは、雨龍様にあいさつしに行こう」 


 手招きする薫子の後について、紗彩は小森の中に足をふみ入れた。

 一歩、小森の中に入る。水をふくんだ土の匂いと、鼻の奥にツンと香る若い緑の葉の匂いに包まれた。樹々が、トンネルを作るように枝をのばしている。樹々のトンネルは、前を歩く薫子の頭に葉がふれるくらいの低さで、木もれ日が地面をまだらにそめている。


 まだ夕方には早い時間なのに、小森の中はぼんやりとうす暗い。空気がひんやりとしていて、背すじが空にのびるような気持になる。


「ここだよ。雨龍様の祠」

 薫子が立ち止まって足元を指さした。少しだけ開けた場所、枯れ葉が積もった場所に、ぽつんとそれはあった。


 神社をうんと小さくしたような石の家。緑色のふわふわしたコケが屋根にたくさん積もっている。真四角に切りぬかれたところには、小さくて細い白いびんが二本おかれていた。その白さが浮き上がって見えて、二本のびんだけが小森の中で唯一、人が手を加えたものなのだと主張しているようだった。


「まず小森の番がやることはね、祠にかぶっている葉っぱとかをどかしてあげて……」


 薫子はそう言いながら、祠に入りこんでいた枯れ葉を一つ手に取ると、ポイと近くの木の根元に投げ捨てた。


「そんなんでいいんですか?」

 紗彩がたずねると、薫子は背負っていたリュックを下ろしながら「うん」とうなずいた。


「雨龍様が言うには、木の栄養になるからいいんだって。風が強い日に飛んでくるゴミは、ゴミ箱に入れないとだめだけれどね。それで、お水を入れます」


 薫子は白いびんを手に取ると、ペットボトルに入った水をびんの中に入れ始めた。


「そこに入れる水は、買ってきた水ですか?」

 神様にお供えするのだから、どこか決まった銘柄の天然水でないといけない、などという決まりがあるのだろうかと紗彩は思った。 


「ううん。これは、うちの水道水だよ」

「えっ、水道水でいいんですか」

「うん。たまに私が飲んでいるオレンジジュースが飲みたいって言ってくることもあるけれど、びんの中に入れるのは水がいいかな。ジュースだと、虫がよってきちゃうから」


 手なれた様子で、薫子が二本のびんに水を入れ終わると、ふたたび祠の中にもどした。 


「はい、これでおしまい」

「これだけですか?」

「そうだよ。これを学校に来た日にするの。全然むずかしくないでしょ」

「むずかしくないというか……」


 この程度の作業ならば、用務員のおじさんで十分ではないか。わざわざ、一人の生徒にやらせることなのだろうか。それに、と紗彩は先ほどからずっと疑問に思っていることを口に出した。


「薫子先輩は、見える人なんですか? お化けとか、そういうのが」


 薫子は先ほどから、雨龍と会話が出来るようなことを言っている。霊感があるのか、それとも霊感がある妄想にとらわれているのかもしれない。


「ううん。お化けとか見えないし、神社に行っても神様が見えたりする人じゃないよ」

「じゃあ──」 


「小森にいる時だけ。私たちは、見えるようになるの」 


 太陽が雲の中に入ったのか、小森はいっそう薄暗くなった。


「わたしたち? わたしも、見えるようになる?」

「うん。今は、どう? なにか感じる?」


 言われて紗彩は、辺りを見回した。

 小さな祠、枯れ葉、こんもりとした森、それから、薫子。それ以外には、なにも見えなかった。


「なにも……」

「そっか。そのうち、感じるよ。雨龍様とか、いろいろ」

「いろいろ? なんか、こわいんですけど……」


 本当に雨龍や「いろいろ」なものが見えるのだろうか。「いろいろ」なものがいるという小森に、これからは一人で来ないといけないなんて、気味が悪いと紗彩は思った。


「大丈夫だよ。こわくないし、不思議で、あったかい出来事だから」

「そうですか」


 正直、紗彩は小森の番をしたくなかった。簡単すぎる作業は、毎日する必要はないと思ったし、なにより、なにかが「見え」たりするなんてありえないことだ。


「あの、例えばですけど……。小森の番の作業ができない日があったとするじゃないですか」

「うん、そういう日もあるね」

「そういう日が続いたらどうなるんですか?」


 紗彩が言うと、薫子は一瞬はっとした表情をした後、意味深な感じでにやりとした。


「それは、試してみる価値があるかもね。私からはなんとも言えないかな」


 薫子はきっとサボったことがある。

 紗彩は直感で確信した。試してみる価値とはいったいどういうことだろうか。


「それじゃあ、最後に雨龍様にあいさつしよう」

 薫子が祠の前にしゃがんだので、紗彩もならって隣にしゃがんだ。


「雨龍様、今日から小森の番をすることになった、赤羽紗彩さんです」

 薫子が紗彩に「ほら、赤羽さんも」と言うので、紗彩はもごもごしながら「赤羽紗彩です」とだけ言った。


 すると、不思議なことが起きた。

 風が舞い上がったのだ。

 雨龍の祠から、わき水がわき出るように、緑の匂いをふくんだ風がふき出て、紗彩の目の前をさぁっと舞い上がった。

 前髪がふわりと持ち上がり、頭上の木がさやさやと音を鳴らした。


「今のって……」


 紗彩が薫子の方を向くと、薫子はなにも言わずにほほ笑んだだけだった。


「これから、よろしくね」

 小森の門の前で、薫子から小森の鍵を受け取った。紗彩の手におさまる大きさで、ずっしりとした重さがある。


「薫子先輩は、もう小森には来ないんですか?」

 紗彩は立ち去ろうとする薫子の背中に呼びかけた。

「うん。私は、今日で引き継いだから。それに受験もあるしね」


 振り返って言った薫子が、一瞬だまって、それから小森に向き直ってあごを引き上げた。その視線の先を追うと、木と空が重なり合うところへ行きついた。


「いつか、私も見えなくなるのかも。さみしいけれど、私の中にある小森を、私は大切に抱いて生きていけると、そう思うよ」


 その言葉は紗彩に向かって言ったのではないと思った。薫子はしばらく小森を見つめていた。その瞳に涙がたまって、今にも落ちそうだった。


「それじゃあ、赤羽さん。小森をよろしくね」


 薫子は手を振ると、歩いて行ってしまった。真っすぐに背を伸ばして、大きな足どりで。

 小森の前で一人きりになった紗彩は、門の鍵を閉めようと振り返った。


 その時。


 奥の方で、ガサガサと不自然に草がゆれる音がした。猫かなにか生き物が、草むらの中でうごめいているような音。


 太陽の日がかたむいていた。オレンジ色が小森の中をまだらにそめていく中、どろりと落ちた影のかたまりが、じっと紗彩の方を向いた気がした。そして、二つの目がカチリと紗彩の両目をとらえた。


「わっ!」

 声を上げると、あわてて手にした鍵で錠を閉める。くるりと向きを変えて、一目散に走り出した。後ろは一度も振り返らなかった。

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