第2話 噓から出たマコと【第三回あたらよ文学賞「惜しかった作品」選出】
月経が訪れた時、真琴は父方の祖母から「おめでとう」と言われた。
何が「おめでとう」なのか、真琴にはわからない。祖母は説明すらしない。祖母が口にした祝福の言葉は、月経を迎えたら必ず告げられる言葉であり、その言葉を使うことは当然で、理由などすでにその言葉を使う人全てが了解していると信じ切っているように真琴には感じられた。
その日の夕食のメインは赤飯だった。真琴の両親は共働きなので、真琴はいつも小学校が終わると祖母が一人暮らしをする一軒家に帰っていた。夕食はいつも祖母が作り、祖母と済ませていた。
祖母が作る食事は真琴にとっては食べやすく、おいしいと素直に思えた。真琴を迎えに来るのはいつも母で、祖母に「すみません」としか言わなかった。祖母は母の顔をちらりとも見たことはなく、笑顔すら浮かべたことはない。その笑顔はいつも真琴に向けられた。「またおいで」という優しく明るい声も、真琴にだけ届けられた。二人は不仲なのだろうと真琴は、このやりとりを数回目にした時点で察知したが、口には出さなかった。
小学校で月経について学習した。月経とは妊娠する用意が整った現象なのだと担任は説明した。真琴は「おめでとう」と祖母が発した理由はこれかと直感した。
月経が訪れたのは、学習を受けてから二か月後だった。「おばあちゃん、パンツに血がついちゃった」と告げた真琴を前に、祖母はこゆるぎもしなかった。祖母が好きでいつも食後に入れて飲んでいた抹茶入り玄米茶を入れるように真琴にサニタリーショーツを手渡し、ナプキンを包装紙からはぎ取ってクロッチ部分に貼りつけた。
「おばあちゃんは、トイレに行くたびに取り換えてるよ。でもあんたのお母さんはケチんぼだから、いっぱいになってから取り換えなさいって言うだろうけどもね」
使った後はこうして丸めて、と、祖母は真琴の前でもう一枚のナプキンを包装紙からはぎ取り、端からくるくると巻いた。包装紙の上に置いてさらに包装紙をくるくると巻く。テープで留め、真新しい小さな汚物入れの黒い袋の中に捨てる。
「これはあんた用。あたしはいつもレジ袋置いといてそこに入れちゃう」
トイレを済ませた後、真琴は祖母が用意した夕食の席に着いた。小さなこたつを二人で囲む。ダイニングテーブルは台所近くにあるのだが、いつもテレビが置いてある居間のこたつで食べていた。
一目で冷凍食品だと分かる、完璧な三角形をした小さな赤飯のおむすび。細かく切った小間切れ肉、じゃがいも、にんじん、たまねぎ、だいこん、ごぼうが入って、青々とした小口切りのねぎを散らした豚汁。こたつの真ん中に豚汁の鍋が置かれる。
豚汁には顆粒だしを使っている。一回分ずつスティックになった商品も、大きな袋から直接すくう商品も、どちらもある。これはどちらを使ったのだろうと真琴は一瞬だけ思いながら豚汁を口に運び、飲み干してから赤飯のおむすびにかじりついた。赤飯を食べ終えるとまた豚汁の椀を持ってかき込む。じゃがいもやだいこんはほろっと崩れて、肉は柔らかく、にんじんは甘くて、たまねぎは舌で溶け、ごぼうは旨味がある。永遠に食べていられるおいしさだ。
豚汁のお代わりをする。真琴は自分の分をよそうと、祖母の分もよそった。
迎えに来た母に、月経が訪れたことを真琴は伝えた。母が口を開く前に、祖母が大きな紙袋を二個突き出す。
「真琴用の生理用パンツと、ナプキン。真琴、夜寝る時はこれ、大きいやつを使いな」
祖母は紙袋から夜用ナプキンを取り出して真琴に見せる。
「これだけあれば、しばらく買わなくてもいいでしょ。あ、これは汚物入れ。真琴専用ね」
母がショルダーバッグの肩掛け部分を必要以上に強く握り締める。「負けた」とその拳に見えない文字が浮かんだと、真琴は思った。
月経を毎月、毎年迎えても、真琴は妊娠・出産する機会に恵まれないまま三十五歳になった。
第一、「妻」となる自分は想像できても、「母」でいる自分を真琴は想像できなかった。実の母とも親しく話したり接したりしないまま成長した彼女は、「母」とは何をするのか、どのように振る舞うのか、そもそも想像するためのデータが不足していたのである。
真琴にとって唯一の親しい肉親である祖母は、真琴が大学を卒業して現在も勤める会社に就職した年に亡くなった。祖母の葬儀のあと、真琴は実家に帰ることもなくなった。母からの電話は、全て無視した。母という者は彼女の人生に何ら影響を与えなかった。むしろ角質のようにいずれはがれ落ちるものだった。
三十五歳で割田に出会った。真琴の勤務先に転職した男で、真琴の上司となった。
「井筒さんは、彼氏いないの」
忘年会で割田は真琴に尋ねた。
「いません。興味ないので」
「もったいないなあ」
「何がもったいないんですか」
「そんなに綺麗なのに」
その一言は、真琴にとって初めてだった。悪い気はしなかった。亡くなった祖母も同じことを真琴に言った。マコちゃんは、綺麗だねえ。それを、思い出したからだ。
割田は小柄で、美男子ではなかったが、その声は真琴の体の奥深くへと心地よく浸透した。それが真琴の警戒を少しだけ緩めた。
交際が始まった。割田は真琴にとって全く違和感がなかった。真琴は毎週末彼と過ごすことが楽しみになった。それは亡くなった祖母の家に向かう時のひそやかな楽しみと似ていた。
ところが、日曜日の夕方、真琴のアパートの部屋のチャイムが突然鳴った。真琴は割田といたが、割田はチャイムを聞きつけるや、誰何せずにドアを開け放った。
小学五、六年生くらいの少女が立っていた。前髪を横に流し、顔の輪郭を形よく見せる不織布マスクをつけている。マスクの上の目は、大きくて鋭かった。
「紹介するよ。僕の娘のマコ」
割田の笑顔に邪気はない。
頭を不意につかまれてコンクリートに強打させられたと真琴は思った。体が動かない。言葉が出ない。
「はじめまして。割田真子です」
女の子にしては低い声だった。不愛想で、警戒心が露わで、真琴から強い視線を離さない。
「今日、女房と急にお通夜に行くもんでさ。その間、預かってくれない。真琴なら安心だからさ」
真子、暇つぶしの道具、持ってきたよな。割田が明るく尋ねると、真子は濃紺で無地のトートバッグから問題集を取り出して見せた。
「おお、偉いじゃん。受験勉強」
「来週、塾でテストがあるから」
小学生らしい甘えも明るさもない声で真子は父の言葉を切って捨てた。
「さすが六年生。凄いでしょ、僕の一人娘。難関私立を狙ってるんだよねえ。実は僕の母校でもあるんだ」
毎年国公立大学への現役合格者を三桁も出す私立の中高一貫校の名称を割田は口にした。
真琴の頭脳は機能を停止してしまった。立ち尽くすしかない真琴に笑顔で「じゃ、二時間後に迎えに来るよ」と手を振り、割田はドアを閉める。
真子は真琴に、喜怒哀楽の抜け落ちた顔と声を向けた。
「勉強、してもいいですか」
その言葉は真琴に当たったが、つるりと滑り落ちた。
真子の目が憐みの色を帯びたが、真琴の視野には入っていない。
「知らなかったんですか、父が結婚してるってこと」
割田は妻がいることも娘がいることも言わなかった。だから嘘をついていたとも言える。しかし、隠していただけとも言える。嘘と隠し事と秘密の、何が違うのだろう。
真子は自分の足の甲を見た。
「父は母にも、真琴さんのことは言っていないんですって。そもそも、父と母はほとんど話さないんですけど」
「勉強して」
真琴の胸は怒りでいっぱいだ。怒りが肋骨を粉々に破壊して、飛び出そうだ。
「わかりました。どこでやればいいですか」
真琴は無言でローテーブルを指差した。真子は黙ってローテーブルの前で正座し、算数の問題集とノートを開いた。
二時間ずっと、真琴はスマホでネットサーフィンをし、真子は問題集を解答した。割田が真子を迎えに来たのは、出て行ってから一時間五十三分後だった。
「また頼むよ」
真琴は割田の横っ面を右拳で殴った。
「この嘘つき野郎」
しかし、たいした衝撃は与えられなかった。割田はびくともしない。代わりに真琴の右手指が痛んだだけだ。
真子が顔色を変えたが、割田は動じなかった。真琴にいつも通りの優しい微笑を向ける。
「その嘘にだまされていたのは君でしょ。いいじゃない、これから君だって結婚相手と巡り会って、子供に恵まれる可能性だってあるわけなんだからさ。その予行演習と思ってよ。本当なら傷害罪で警察を呼んでもいいんだけどさ、君の将来のためにやめておいてあげるからさ」
「早く出て行って」
叫びたかったが、出たのはか細い声でしかなかった。割田と真子は何も言わずにドアを閉めた。
翌日、真琴は病気と称して休暇を取った。割田から体調を気遣うメッセージがスマホに届いたが、開かなかった。いっそのことスマホを叩き潰そうかと思ったが、自分が困ることになるのでやめた。
食欲もなく、ベッドから起き上がることもできない。それなのに月経が訪れた。トイレでタンポンを挿入する。寝返りを打ったと同時に経血が漏れ、ショーツはおろか寝間着やシーツまで汚れる恐れがあるからだ。
ベッドで横になり、うつらうつらしていると、チャイムが鳴った。
割田だろうか。だとしたら警察を呼んでやる。いや、素知らぬ顔で招き入れ、台所にある包丁で陰茎をぶった切ってやろうか。真琴は怒りに震え、台所から本当に包丁を出して右手に持ち、背中に隠して玄関ドアの覗窓から外を見た。
真子だった。両肩からパステルブルーが下りている。ランドセルでも背負っているのだろうか。
ドアを細く開け、真琴は真子を見下ろした。
「大丈夫ですか」
「大丈夫じゃない」
真子はランドセルの肩掛け部分を握った。昨日と同じ、濃紺で無地のトートバッグを持っている。
「なんで来たの」
「塾、すぐそこだから」
「嘘つかないでよ」
「ほんとです。ほら、あそこ」
真子が指差す方向には確かに、有名な進学塾の大きなビルがある。
「まっすぐに塾に行けばいいでしょ。なんでここに来るの。何がしたいの」
「ごはん、食べさせてください」
唐突すぎて真琴は「は?」と聞き返してしまった。普段「は?」なんて真琴は言わない。
真子は一歩前に踏み出した。
「お母さんが仕事から帰るのは午後九時とかなんです。料理が嫌いだからごはんもあんまり用意してくれないんです」
「だから嘘つかないでって言ってるでしょ」
あんたのお父さんじゃあるまいし。言いかけたが真琴は喉で止めた。
「嘘じゃないの。だからあたし、いつも冷凍食品とか、コンビニで菓子パンとか買って食べてるんです」
真琴は自分の全身が真子に見えるくらいまでドアを開けた。
「あたし、あんたの嘘つき親父のせいで、会社にも行けてないの。ごはんなんか作れるわけないでしょ」
「じゃあ、あたしに指示してください。料理なんかしたことないけど頑張ります」
真琴は自分の髪を両手でぐしゃぐしゃにかき回した。
「とにかく入って」
ローテーブルの前に真子を座らせ、真琴は冷蔵庫の中を改める。封を切ったウインナーソーセージ、封を切っていない三個入りトマト、卵、ごぼうサラダ、ペットボトルに入ったミネラルウォーター。冷凍庫を開けると、一膳分ずつラップに包んだ米飯が二個。また両手で髪をぐしゃぐしゃにしてから、真子を振り返った。
「文句言わないで食べる?」
「もちろんです」
元気よく答え、真子は背筋を伸ばす。何だ、子供らしい返事ができるじゃないの、と内心で真琴は毒づいた。
米飯を二つ電子レンジで解凍する。ウインナーソーセージを茹でる。トマトを切る。ふと思いついて電気ケトルでお湯を沸かした。抹茶入り玄米茶を飲もう。文句を言うなと念を押した以上、真子が「飲めない」とか「飲んだことない」とか言っても湯呑に入れて彼女の前に置こう。
出来上がった夕食を前に、真子の顔が輝いた。ウインナーソーセージを良い音を立てて噛みちぎり、笑顔になる。
「おいしい」
ささくれた気持ちがほんの少しだけやわらぎ、真琴はトマトを口にする。
抹茶入り玄米茶を二人で飲んだ。真子はいつも飲んでいると言うように湯呑を口に運ぶ。
「あたし、やったって思ったんです」
「何のこと」
「真琴さんがお父さんを殴った時」
「不発に終わったけど」
「すっきりしました」
「今度、殴ってやればいいじゃない」
「そんなチャンス、与えないんですよ。いつもにこにこしてて」
割田らしい。真琴は食べ終わった食器を流しに持って行き、勢いよく水道から水を流した。真子も食器を流しに持ってきた。
「ありがと」
「ごちそうさまでした。おいしかったです」
流しに茶碗や箸を置くや、真子はトイレに駆け込んだ。
出て来ない。お腹でも痛いのかな、と食器を洗いながら真琴が思っていると、「真琴さん」と呼ぶ声がした。両手をタオルで拭いてトイレの前に立つ。
「パンツに、血がついちゃった」
閉め切ったトイレのドアの向こうから聞こえる真子の声は弱くて小さい。
「どうしよう」
泣きそうな声だ。いや、本当に泣いているのかもしれない。
「ちょっと待ってて」
真琴は衣装ケースを開け、自分のサニタリーショーツを一枚取り出した。トイレの前に戻る。
「開けてくれる」
扉がそうっと開いた。真子の目は潤んでいる。
「入るよ」
真琴が入ると、アパートのトイレはとたんに狭くなった。真子が上目遣いで誠を見る。下腹部はTシャツの裾で隠れている。足首まで下ろされたショーツには、確かに赤い血液が染みていた。
「生理だね」
「やっぱり?」
「学校で習わなかった?」
「習いました。けど、ナプキン、持ってなくて」
真琴は床に置いた蓋つきで四角いプラスチックの箱からナプキンを一つ手に取った。サニタリーショーツと一緒に真子に渡す。
「これに履き替えて」
足首からショーツを抜き、サニタリーショーツの二つの穴に両足を入れた。
包装紙からナプキンをはぎ取り、ショーツのクロッチ部分に当て、ナプキン裏のテープを押しつけた。
「これでいいよ」
「ありがとうございます」
真琴はトイレから出て、洗面所で手を洗った。まもなくトイレからも水が流れる音が聞こえ、気まずそうに真子が両手をおなかの前で固く握りながら現れた。握られているのは先ほどまで履いていたショーツだ。
真琴は手を真子に出した。
「ショーツ、貸して」
「でも」
「洗うから」
真子は足がすくんでいるようだ。真琴は意識して穏やかな声を出した。
「早く洗えば、すぐ血、落ちるから」
「お願いします」
おずおずと出されたショーツを受け取り、血液がついた部分にハンドソープを一回押し、もみ洗いした。洗面台に水をためてすすぎ、力いっぱい絞り、室内干しをする部屋へ歩き、ピンチハンガーの中心に干す。
「すみません」
「お母さんが帰ってきたら、言うんだよ」
「お母さんにですか」
「お父さんにも言いなよ」
真子は嫌そうな顔をする。
「言いづらいです。なんでお父さんにも言わなきゃいけないんですか」
「知らないと困るから」
「お父さんになら話せると思いますけど、お母さんには無理ですよ。いつも生理の前になると、機嫌がやたら悪くなるんですもん」
「それはお母さんの生理の話でしょ。これからナプキンとか、サニタリーショーツとか買ってもらうんだから、知らないと買ってもらえないでしょ」
かわいい顔の中心に醜い皺が寄る。
チャイムが鳴った。
真琴が覗き窓から見ると、なんと割田が立っていた。
娘の前では割田と真琴は会社の上司と部下の仮面をつける。真琴の仮面はつけすぎて今にもひび割れそうだが、割田の仮面はいつ見ても真新しいままだ。
「塾から電話が来たんだ。真子がまだ来ていないって。位置情報見たら、真琴んちだったから」
割田は心底心配していたようだ。目が虚ろになっていた。
真琴は真子に、月経を迎えた事実を話すように促したが、彼女は口を開かない。
「じゃあ、あたしが言うよ」
小声でささやくと、真子は割田に視線をぎりっと当てた。
「お父さん。あたし、生理になった。真琴さんが下着を貸してくれて、ナプキンも当ててくれた」
割田が眉を上げて真琴を見る。仮面に入った亀裂を見えない両手で押さえながら真琴は心持ち顎を上げて割田を見下ろした。実際には割田の方が頭一つ分背が高い。
「下着は捨てていただいて結構です。それから奥様にも、真子さんが月経を迎えたことをお話しください」
「わかった。ありがとう。お世話になりました」
割田は見事なまでに上司として振る舞っていた。
一週間後、真子が真琴のアパートを訪れた。午後六時。パステルブルーのランドセルを背負ったままだ。
「ごはん、食べさせてくれますか」
「学校から直接来たの? それにしては遅くない?」
「家にいづらくて」
真子をひとまず室内に入れ、床に座ってローテーブルを挟んで向かい合う。
「お父さんとお母さんが喧嘩してて。落ち着いて宿題もできなくて」
今日は珍しく割田が定時で退勤したことを真琴は思い出す。
「喧嘩してるって、原因は何なの」
「真琴さんのこと」
「私?」
真琴は「ふーん、そう」とつぶやいていた。真子がわずかに上体をローテーブルから離す。
「やばいじゃないですか。それなのに、どうして落ち着いているんですか」
私に割田への愛情はひとかけらも残っていない。真琴は冷えた頭で思う。
真子が切迫した表情で身を乗り出す。
「机の上に、写真とか書類とか、たくさんあったんです」
恐らく、割田の妻が誰かに依頼して、真琴と割田が交際している現場を押さえたのだろう。
実の娘を預けるくらい、私は彼に信頼されていた。ところがちっともありがたくない。私と真剣に交際する気があれば、妻と離婚し、娘をつれて私と再婚しているはずだ。
真琴は立ち上がり、お湯を沸かした。抹茶入り玄米茶を湯呑に注ぎ、自分と真子の前に置く。
熱いお茶をすすり、真琴は冷えた口調で答えた。
「だって、今までばれなかったのが珍しいでしょ。私とお父さんの関係なんて、人を雇えばすぐに調べがつく。お父さんは今までずっとお母さんに、残業だ、出張だって嘘をついてこの部屋で私と寝ていたのだから」
真子は湯呑を両手のひらで包んだ。
「あたしはどうなるのかな」
「真子ちゃんは、お父さんについていきたいの、お母さんについていきたいの」
「お父さんかな。お母さんの前だと、嘘をついてなきゃいけなくなる」
「どんな嘘をついたの」
「真琴さんちでごはん食べる時は、おばあちゃんちで食べたことにしてた。そうしなさいってお父さんから言われてたから」
私は割田の性欲の処理係だけじゃなくて、おばあちゃん代わりでもあったわけだ。真琴は笑ってしまった。都合よく使われてきたものだ。
「別れるよ、あたし」
「いいんですか」
真琴は割田に電話した。割田はすぐに出た。
「真子、そっちにいる?」
「いない」
真琴は真子と目を合わせ、ちろっと舌を出す。真子が楽しそうにふふっと笑った。
「嘘だろ、まだこっちには帰ってきていないぜ」
「別れましょ、あたしたち」
割田が「は?」と間の抜けた声を出す。
真琴は上を向いて笑い声を立てた。
「ね、奥さん出してよ。これまであんたがあたしにしてきたこと、洗いざらいぶちまけてやるから。スピーカーホンにしてもいいよ。むしろそうしてくれない」
「真琴」
真琴は隣の部屋の住民に聞こえてもいいと腹をくくって怒鳴った。
「馴れ馴れしく呼ぶな。あたしは今、怒ってる。体が震えてるんだ。よくもあたしをいいように使ったな。この嘘つき野郎。スケベ」
割田が息を呑む。「あなた、どうしたの」という声が聞こえる。割田の妻、真子の母だ。真琴はさらに声を張り上げた。
「奥さあん、聞いてくださあい。あなたの夫はあなたに嘘をついていたんです。嘘をついて、いつもあたし、井筒真琴の部屋に泊まっていたんです。あなたの夫は、裏切り者でえす」
「やめろ」
懇願する割田を一蹴する。
「今度連絡してきたら、奥さんに全部話すよ」
ぐっと詰まった割田は、「わかった」と声を搾り出した。
「あたしと別れると言え」
「別れる」
「今後一切電話もメッセージもしないと誓え」
「誓う」
「つきまとうな」
「わかった」
通話ボタンを軽やかにタップする。
真子が拍手した。真琴は片手だけでガッツポーズを決める。
それ以来、割田と真琴はただの上司と部下に戻った。
真子は相変わらず真琴の部屋に来る。そして「ごはん、食べさせてください」と言う。
「結局お父さんとお母さんはどうしたの」
「やり直すことにしたそうです」
「あなたにとっては良かったの、悪かったの」
「わかりません。でも、どちらかと言えば、良かったかな。とりあえずお母さん、ごはん作ってくれるようになりましたから」
「じゃあ、食べに来ることないじゃない」
真子は笑って、何も言わなかった。
炎天下の化け物 亜咲加奈 @zhulushu0318
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