第一部 蒼空の果て 第十三章

  1

 

 至とルースが天空都市に向かった後のベースは、少しだけ広く感じられた。

「今日は一日寝かせてくれ」整備明けのジェラードは、あくび混じりにそう言い残し、自室へと姿を消した。

  

 蒼は、龍道とともに車に積み切れなかった木箱を運び込み、キッチンの棚に並べていく。トマトの皮には朝の冷気がわずかに残り、葉物は心地良い土の匂いをまとっている。

 いくつか手に取ると、丁寧に土を洗い流す。龍道がそれを手際よく受け取り、まな板の上で野菜を小気味よく刻んでいく。刻んだ野菜の欠片を豪快に掴んではスープ鍋に放り込む。

 新鮮な野菜の香り成分がまな板とスープ鍋から漂い、鼻をくすぐった。《栄養素すごい!》と、相変わらず語彙力の薄い分析が表示され、思わず苦笑いした。


 キッチンの手伝いも一段落し、振り返ってダイニングを見回す。中央にある大ぶりのテーブル。その上には、デジタルシートと端末が広げられ、カナタが眉間にしわを寄せて文字列を夢中で追っていた。隣には瀬司。

 

「文書構成って、そんなに重要ですか?」

 カナタがパッと顔を上げ、不満そうに口をとがらせる。

「とても」瀬司は即答した。「報告書は、構成そのものが意図だ。書いた人間の思考を読むことにも繋がる」

 きっぱりとした説明に、カナタは「難しいや」とため息をつき、指先で画面をスクロールする。

「ゆっくり覚えればいい。いつかインペリウム側と交渉する日が来たら、必ず役に立つ」瀬司は口調を和らげて言った。


 蒼も何気なくデジタルシートのひとつを手に取り、中身を読み始めた。理路整然と組み立てられた文章に、書き手の明晰さが伝わってくる。

 この前のヘイムダル研究特区の戦闘報告書だ。Obsidianオブシディアンとの戦闘で無効化した武器の種類や数に至るまで詳細に記載されている。

 

(よくあの暗闇で見えたな……)


 頭の中で、記憶データを呼び起こす。左視野に映し出されるサムネイルを目線と瞬きで選択し拡大する。

 

(俺は左眼の拡張機能を使えば、暗闇でも支障はない。でも、肉眼の視界じゃ動作を捉えるまでが限界だ。武器の機器名なんて判別できない。――瀬司には、見えていたのか)


 瀬司の方を見ようとした丁度その時、キッチンから龍道の豪快な声が通り抜けた。

「朝飯できたぞー! 持ってくからテーブルあけてくれ」

 蒼は記憶ウィンドウをクローズすると「はーい」と返し、テーブルに散らばる資料を手際よく端に寄せた。龍道から投げられた特大鍋敷きをキャッチして中央に置く。

 すぐに床を軋ませ、龍道がスープ鍋を運んできた。鍋底がテーブルに乗った瞬間、濃厚な野菜の香りが一気に広がり、ベースの空気がふわりと温度を上げた。 


 軽い足取りで階段を降りてくる音がした。


 透流が姿を現す。

 彼はキッチンの方へ無言で顔を向けた。

  

「おう、透流。お前も食うか?」

 龍道が、変わらない調子で言う。

「……うん」

 短い返答。龍道は鍋からスープをよそい、パンを一つ手でつかんで添え、自信作だと言わんばかりの自慢げに差し出した。

 透流はそれを受け取ると距離を取って、窓辺の椅子に腰を下ろす。彼はテーブルの木目をぼんやりと見たまま、スープに口をつけた。

 

 カナタが怯えた含みを持たせて小さく言った。

「今日は珍しく落ち着いてますね」

「それが一番だ、いいじゃねえか」

 龍道は食事を始めた透流の姿に、満足そうな笑みを浮かべた。 

 深夜の酩酊状態が嘘のように穏やかだ。蒼が何気なく透流を見ようとした時、テーブル越しに瀬司と視線がぶつかる。互いに何も発さずに、同時に逸らした。


「蒼! 昼前にはマーケット着きたいからよ」

 龍道が全員に朝食を行き渡らせ、食器の配置を整えながら、呼びかけた。

「悪いけど、寝坊姫起こしてきてくれるか?」

「寝坊姫?」

 なみなみとスープが入ったマグカップをテーブルに置いた。

「光莉だよ。あいつ今日も昼から診療所行くだろ? まだ布団の中じゃねえか」

「はいはい」肩をすくめて、階段へと向かう。

 途中で何気なく窓の外に目をやる。薄曇りの空から漏れる淡い光が、ベースの中に柔らかな陰影を落としていた。


 二階の光莉の部屋。ドアをノックしたが、反応はない。蒼は扉に触れ、ベースの施錠システムにアクセスしてドアを開く。

 

 途端に石鹸とシャンプーが混じった香りが漂ってきた。簡素なベッドの上で、光莉は毛布を半分蹴飛ばした姿で寝息を立てている。起きているときよりも少しあどけなさが滲む寝顔。

 

(……可愛いな)

 

 蒼は、流れるような仕草でベッドに腰を下ろし、光莉を起こさないよう、するりと彼女の脇にもぐり込む。ひやりとした自分の義肢と、光莉の体温を含んだ布団との温度差が、妙にはっきりと意識された。

 長い睫毛、日に焼けた細い首筋、呼吸で上下する胸の動き――肘をついて、至近距離で彼女を見下ろす。

 

 そのとき、光莉の瞼がぴくりと動いた。

 真正面から蒼と目が合う。

 

「――っ!」

 息を呑むと同時に光莉は飛び起き、ほとんど条件反射の勢いで腕を振り抜いた。

 

 パシンと乾いた音が響く。

  

「可愛いなって思っただけじゃん!」

「布団に潜り込む必要はなかったでしょ!」

 階段を降りながら、片手で頬を押さえて抗議する。後ろから、耳まで赤くなった光莉が乱暴な足取りでついてくる。

 

「お前なあ……」

 呆れ顔の龍道につられて、カナタも苦笑いをこぼす。

 瀬司は、ほんの一瞬だけスプーンを口に運ぶ手を止め、その様子に口元を緩めた。


 透流が遠くを眺めるかのごとく、どこか現実感から半歩引いた瞳を向けていた。それでも、そこにある細やかな日常の温度だけはきちんと捉えているようだった。

  

  2


 龍道の仕切りに従って慌ただしく準備する光莉とカナタの気配を背に残し、蒼はガレージへ向かう。

 

 扉を開けると、金属特有のひやりとした空気が頬を撫でた。天井が高く、奥まった場所ほど光が乏しい。

 蒼は奥の作業台の近くに立った。今朝、ルースが選ばなかった派手な仮面が放置されている。入り口から瀬司の気配を感じ、振り向く。

 光の境界線に立っている彼の輪郭は、半分闇に沈んでいた。

 

「昨夜、屋上で透流と話してたでしょ? 夜間はセキュリティかけてるから、全部聞こえてた。ごめん」

 

 蒼が切り出すと、瀬司はほんの一瞬だけ眉を寄せた。だが責めるような気配はなく、ただ事実だけを受け止めたという反応だった。

 

「プレトリアへの侵入って、そんなに簡単にできるものかな? もともとは中央政府の建物だから、そんなに容易じゃないと思うんだけど」 

「どこかの馬鹿が、〈趣味のバグ〉を仕込んでなければな」 

 瀬司は呆れまじりに言い放つ。

 蒼はジェラードを思い浮かべた。プレトリア外周の警備は、ルースが掌握している衛星システムを経由している。大元のシステム基盤にジェラードの〈趣味〉が混ざっていれば、どこかに穴が生まれても不思議ではない。

 

「あの三人が手を組んでるとは考えづらいよね」

「ないだろうな。透流が二人の構築したネットワークと技術を秘密裏に使ってる方が濃厚だ」

「そんなこと、できる?」

「仲間がいれば。今、ソエルに頼んで裏を洗ってる」

「そっか」

 

 会話が続くあいだ、蒼は作業台の上の壊れかけたドローンに視線を落とす。剥き出しの回路、極端に偏った摩耗、断線の跡。蒼は断線した部分にそっと触れる。


「人類最強の兵器って、すごいのかな」

 ぽつりと言う。

「少なくともこの国は滅ぼせるレベルだろう。現にラグナロクの元凶だ」

 瀬司は淡々と事実を述べた。

「そうなんだ……。瀬司は見たことあるの?」

「いや。コードネームは〈凛空〉、軍事中枢AI連結型の生体兵器とだけ。軍事機密のトップクラスだから、軍事系統の本部もひと握りしか詳細は知らないはずだ」 

「そんな開発がされてるの、俺らは当時知りもしなかったよ」

 

 蛍光灯が短く明滅し、二人の影が足元で揺れる。

 わずかな沈黙が落ちたのち、瀬司が言った。

 

「……蒼、ラグナロク前のデータを今でも拾うことはできるか?」

 瀬司の問いかけに、申し訳なさそうな表情をつくる。

「んー、俺の中のログは、あくまでも俺の記憶なんだよね。もちろん関わった軍事作戦の内容は残ってるけど、都市全体のデータとかは内蔵されてなくてさ」

 思案する素振りで、蒼は続けた。 

「……今の時代のマザーAIは〈RESISレジス〉だよね? ラグナロク後にゼロから構築されたものなのかな?」

 

「いや、ラグナロクで中枢全てが破壊されたとは記録されていない。当時は……〈EXISイグジス〉と言ったか? その基盤は二十七世紀から引き継いでいるはずだ」

 

「なるほど。俺もEXISイグジスの端末のひとつみたいなものだから、回線が生きていれば、RESISレジスの監視網に引っかからずにアクセスできるかも。どうしたい?」 

「プレトリアの構造と凛空の情報が知りたい」 

「わかった。プレトリアの方は正直、改修されてるだろうから当てにはならないと思うけど」 

「出来る範囲で良い」

「りょーかい」

 

 蒼は瀬司の硬い空気感から、既に最悪の可能性を想定しているのだと読み取る。 

「まずは透流にはプレトリア再侵入やめてもらう。ダメなら侵入しても止める。それでも凛空起動しちゃったら、凛空を止めるって感じかな」


「……まあ、そうだな」

 瀬司の横顔に一瞬だけ翳りがさす。

 蒼はその表情を静かに観察した。

 

「ねえ、瀬司はさ、今どの立場で動いてるの?」

「どの、とは?」

「仲間として? インペリウムの人として?」


 蒼は率直に聞いた。

 瀬司が何かを言いかけた――その刹那、ガレージの扉が後方から押し開けられる。ダイニング側の明るい光を背負い、寝癖のついた髪を揺らして、ずかずかと入ってきたのはジェラードだ。

 

「こいつ、今はインペリウムのどこにも属してねえよ。透流も馬鹿じゃないからな。騒ぎ立てるのが気になって、彗に調べてもらった」

 

 瀬司の背後から二人を横切り、奥の散らかった机を遠慮なく漁り始める。そして、ジェラードは蒼にデジタルシートを押しつけるように渡した。

 軍事関係者のリスト。

 蒼は即座に読み取る。確かに瀬司の名前はない。

 


 瀬司は微動だにせずに、それを黙って流した。

 呼吸をひとつ整え、蒼へ向き直る。


「ただ、あいつに生きてほしいだけだ」


 声はいつも通りの冷静さを醸し出していた。

 その奥にある極めて微細な震えを拾えたのは、緻密にデータを感知する蒼だけだった。

  

「ん。わかった」

 

 蒼が短く答えると、瀬司は一度だけ彼を正面から見据え、かすかに頷いた。

 

 ジェラードは「あったあった」と声を上げ、ヘアオイルの瓶をつかむと、くるりと振り返る。瀬司の横を通り抜けざまに軽く肩を叩き、ぼそりと耳打ちした。 

「ま、彗も最新の公式データベース以外は追えないらしいけどな」

 

 瀬司は一瞥をくれるだけで無言だった。

 蒼は知らないふりをして「じゃ、今日やってみるね」と強引に話を戻す。

「頼む。俺は一度マーケットに行くが、数時間で戻ると思う」

「分かった。またあとでね」

 ひらひらと手を振る蒼に、瀬司も右手を軽く挙げて応え、ガレージから出ていった。


 扉が閉まると、薄闇と蛍光灯の明滅だけが残った。

しばらく蒼はその場に留まっていた。影がゆっくり伸びたり縮んだりしている。

 

 頭の中に、今確認できている要素を並べる。

 ――透流の不安定な様子と動向。

 ――凛空という存在。それを知らなかった自分。

 ――EXISイグジスに接続するリスク。

 

(下手に動いて、Valk全体を危険に晒すわけには行かない。慎重に動かなきゃ……)

 

(――ただ、生きてほしいだけ、か)

 

 先ほどの瀬司の言葉が脳裏によぎる。複雑に入り交じった動揺の色が耳の奥に残っている。

 生きることの価値は、自分にはわからない。けれど、自ら破滅に向かう透流を放置するのは違う。彼にはもっと別の選択肢もありえるというのに。


 ふと目線を落とした先に映るドローンの残骸。

 焦げた配線が、なぜだか先ほどよりも物悲しく見えた。蒼はそっと目を閉じる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る