第一部 蒼空の果て 第十二章
1
朝靄が薄く漂い、柔らかな暁の色が瓦礫を撫でる。
まだ人の気配のない廊下には、換気ダクトの唸りと発電盤の乾いたクリック音だけが、遠くで拍を刻んでいた。
至の部屋へと続く廊下の壁にもたれて、透流は俯いたまま腕を組む。踵で床を掻くと、何年降り積もったかも分からない粉塵が舞った。瞬いて反射する様が、やけに鮮明に映った。
しばらくして、ドアラッチが擦れる音とともに奥の扉が開いた。
至ができる限り音を立てないよう慎重な様子で、廊下に出てきた。すぐに透流に気がつく。
「おはよう。こんな時間にどうした?」
驚き混じりだったが、彼の声は穏やかだった。
透流は返事が遅れた。
喉に砂利が詰まったような居心地の悪さに、呼吸が浅くなる。言葉が転がり出てこない。無意識に伸びた指が耳朶のピアスで止まる。金属の感触の僅かな冷たさに、少し冷静さを取り戻した。
「……悪かった」
床を見たまま、かろうじて一言を吐き出す。
至は目を丸くし、「どれのことだろう」と困った声で口元を緩めた。笑みと呼ぶには控えめだが、温かみがあった。
透流は下を向いたまま、唇が開いては閉じる。肋骨が上下するものの、肺が締め付けられ、うまく呼吸ができなかった。
「うーん」至は独りで思案する。
「ここには、透流を裁く人間も制度もない。でも、人の命を奪った責任は背負って生きるしかない。と、俺は思ってる」
語尾が落ちるまで、彼は透流の顔から目をそらさなかった。声色には叱責ではない、慈愛の含まれた重さがあった。
透流は顔を上げる。やはり言葉にはならなかった。いつもどおりの説教臭さに苛立ちが喉元までせり上がるが、これで最後だからと飲み込んだ。
「……何ができるか、ゆっくり一緒に考えよう」
至は、それだけ告げると「また後でな」と透流の横を通り抜けた。足音の重心は一定で、几帳面な彼らしさが滲む。
透流はその背を見送ると、壁にもたれて目を伏せる。ピアスから指を離し、掌を握って開く。ようやく身体のこわばりが解けた。酸素が、まともに肺へ届く感覚が戻る。
さっきまで薄かった影が、強くなる光に引かれて床の先へ濃度を増して伸びていく。影は奈落のように、じわりと乾いた床面に貼り付いていた。
2
シャッターを全開にしたガレージは、それでもなお薄暗く、白い作業灯で室内を明るく照らしていた。
至はジェラードが即席でこしらえた鏡面パネルの前に立ち、黒のタキシードの襟を指先で正す。髪はオールバック、少し乱れていたサイドの髪をかき上げる。鏡に映る端正な顔は、まるで俳優のようだ。
「ドレスなんて久しぶり」
横に並ぶルースはボルドーのマーメイドドレス。鏡を見て、身を翻すと、布地の重さで裾が揺れ、上品なリズムが生まれている。レトロなウェーブにまとめた髪から一房、頬へ落ちた。
目元で白地に大粒の金砂を散らした仮面がぎらりと光を返す。
「この仮面はちょっと派手すぎるわね。そっちの取ってもらえる?」
片目を覗かせ、さらりと続ける。
「遊びじゃないけど、こういう準備は楽しいわね。演じるのも情報戦のうち。できればジルにエスコートしてほしかったけど」
至は眉だけを怪訝そうに動かす。
「俺で悪かったな」
「へえ、あのバーテンと上手くいってんだな」
手持ち無沙汰にテーブルに腰掛けていたジェラードが、肩をすくめた。ルースは涼やかに笑顔を向ける。
「誰かさんよりは気が利くもの」
不機嫌な顔つきで、至は細身のゴールドラインがあしらわれた白い仮面を差し出す。先ほどの大粒の金砂に比べると随分と慎ましい装いだ。
ルースは受け取りながら「ごめん」と軽く謝る。彼は「まあ、事実だしな」と鼻で笑い、視線が和らいだ。
「それにしても、八年ぶりか」
ジェラードがガレージの天井越しに空を見上げ、目を細めた。
「懐かしいわね。また、あの都市に入る日が来るなんて」
「そうだな」ふたりとの会話に、至の記憶がほどける。
眼前の鏡面に映る白い光の反射が、当時の光景を呼び起こした。
3
白と硝子に支配された空間――〈国家戦略局 第二会議室〉。室内は、天空都市〈インペリウム〉の高層ビル群の中でも最上層にあった。床から天井まで透過硝子で覆われた室内は、温度のみでなく湿度や風の流れすら数値で制御されている。さながら実験装置の内部のようで、それが醸し出す静謐は、気味が悪いほどに完璧な空気を形成していた。
中央の巨大な長テーブルには、整然と並ぶ高官たち。彼らの動きは、機械の歯車を思わせる均質さがあり、ただ、端末を操作する指だけが淡い光を反射していた。
圧倒的な無機質さの中で、至の熱弁だけが異物として響いた。
「再選別の実施は目前ですが、やはり基準が曖昧すぎると考えます。人材となり得る人々を無駄に追放すべきではない。いますぐ中止し、格差是正と地上との関係再構築に人手を割くべきです。それこそが、これからの繁栄に繋がるはずだ」
しかし、返ってくるのは沈黙だった。
冷たい視線がいくつも滑り、補助ディスプレイに投影された議事録には、何も書かれない空白の行が増えていった。
――記録に残す価値がない、という意思表示。
その瞬間、理解した。
自分は排除されるのだと。
夕刻、個人端末に通知が落ちた。
《配置転換命令:再選別対象に指定/24時間以内の退去手続き完了及び指定ゲートへの集合必須/移送先:荒廃都市群第4区域》
至は唇を固く結んだ。予想はしていたが、無力感がのしかかる。
その時、ドアが開いた。つかつかとヒールの音が足早に近づいてくる。見なくてもルースだと分かった。
「貴方の名前、やっぱり再選別対象リストに入ってた」
ルースは慰めの色もなく、はっきりと言う。
「……だろうな」興味を失った声で呟いた。
「それでね、私も至に同意してると言ってやったわ。貴方のやり方には文句がある。でも思想には共感してる」
至は驚いてルースを見た。
「残念ね、腐れ縁はまだ続くみたい」
いつもの誇り高い彼女の笑み。
すぐに返す言葉を見つけられない。
「ほら! 間抜けな顔してないで、急いで準備しましょう。地上でもできることはある。むしろ、好都合よ」
力強い声に、慌てて頷く。先ほどまで絶望に飲まれかけていた心に小さく火が灯る。
やるべきことを考えなくては――両手で頬を叩き、気を引き締めると、至の目に生気が戻った。
彼は足早に第三管理区の技術開発局へ向かう。散らかった研究室、分解された装置、回路図を睨む男の背。十五分ほど呼びかけ続けて、ようやくジェラードが振り向いた。
「おう!」
至は苦笑しながら、地上に行くことを伝え、別れを告げた。
ジェラードは黙って聞き、そして軽快に言った。
「面白そうだな! 行くか」
「……は?」困惑した顔で、彼を見た。
「だって、お前、誘ってんだろ? 一緒に地上に行こうぜって」下手なウインクを飛ばす。
至は思わず声を詰まらせる。
「この都市、息苦しいんだよな。あっちの生活も見たことあるけどさ、雑多な感じが俺には合ってると思ってたんだ」
まるで、ただの引っ越しかのごとく楽しげに語る。
至は慌てた口調で諌めた。
「分かってるのか? もう戻れないんだぞ、お前の研究は――」
ジェラードは急に真面目な顔になり、射るように言った。
「そっちこそよ、お前のやりたいことって、お空の上からしか出来ねえのか? 思考停止すんな、頭を使え」
至は息を飲んだ。まだ及び腰だった自分に、そこで気がついた。
三人はその夜、死に物狂いで準備を進めた。
全データを私物端末に暗号化し、オフラインでも稼働する環境を作る。最後の電力配分を終えたとき、窓の外では夜明けの光が硝子を透かしていた。
そして翌日、三人は再選別対象のリストに名を連ね、〈第4転送ゲート〉に立つ。
無数の白いアーチが幾重にも重なり、均一な光を放っていた。すべての粒子が管理され、どんな生命の気配も残さない空気。人間の吐息すら、都市のシステムに吸い込まれていくようだった。
記憶の層が閉じる。
ガレージの照明が現実の輪郭を戻し、鏡の中で至は息を整えた。砂埃が混じったざらついた空気の感触と匂い。あの頃より確かに生を感じていた。
4
「準備中にごめん!」
慌てた声で、青い髪が扉の隙間から覗く。蒼だ。
「ルースの通信システム貸してもらえるかな? 行き来するルートをサポートするからさ。イレギュラーにも対応できるように確認したいんだよね」
「助かるわ。このゲスト認証キー使って。期限は戻って来る日までの最大72時間。メタデータの改竄は最小でお願い」
「積み荷、準備できたぞ!」
ガレージの外から龍道の大声が響く。ジェラードが開発したインペリウム最新型もどきの飛行車に、野菜と穀物が山盛りに積まれている。
スマートな車体に対して、積み荷は紐の結び目にわざと甘さが残され、無骨さを演出する包装材が淡い香りを散らす。
「ルミナリーフ農園の最高品質!選定するの大変だったんだぜ。やったのは、ほとんど殊葉と遥、それにナツ」龍道が自慢げにいった。
「すごい量だな。運転席までこぼれてる」至が眉をひそめる。
「だから街中のルートで飛んで、窓割って落としたら危険、って理屈が立つだろ」
「——蒼、ゲートのカメラ群、フレーム落ちの時間帯、もう拾えてるか?」
ジェラードが蒼に向かって続けた。
「拾えてるよ。七時台は二分周期で0.7秒抜ける。そのタイミングでアーチをくぐれば乗り切れるはず」
蒼は腕からの配線をルースの通信システム端末に接続したまま返事した。
「割と簡単に乗り込めるんだね」
「外門までは、な。俺が衛星システム構築にかかわってたんだ」
悪びれもせずに答えたジェラードを見て、蒼は目を丸くする。
「……コマ落ち、もしかしてわざと?」
「完璧なんて、つまんねえだろ」飄々と笑いながら、ポケットからシワの寄った配送票を取り出し、ルースに渡す。
「検問で言う台詞と見せる伝票は、それな。飛行ルートは四―北からの一―東。『企業研究棟の安全管理部指示で外回り配送』って言い張れよ」
紙片の角には、正規の印影を模した繊細なエンボスが刻印され、楕円曲線暗号風の疑似タグが光を受けて短く瞬いた。
ルースは配送票と招待状のタグをくるりと指先で回す。
「大丈夫。朝の搬入立会と前日レセプションにも呼ばれてる〈招待客〉だもの。何かあっても『浮かれてました』で通せるわ」
「はしゃぎすぎるなよ」
至は牽制しながら運転席に乗り込み、ルースが助手席に続いた。ドレスアップした姿で、座席にこぼれた野菜を後部へ押し戻す二人を、ジェラードと龍道が面白そうに眺める。
最後ジェラードが車体の下へ潜り、擬装された排気共振板を指で叩いた。インペリウムは管理と監視のため、モビリティをはじめとした様々な製品が、その発せられるノイズに至るまで規格化されている。
「周波数、再確認済み。出発して問題ない! 行ってこい!」
「行くぞ」
起動音が鳴り響く。機体がわずかに身じろいで数十センチほど浮いた。後部座席の箱が微かに寄り、野菜の皮が擦れる音があちこちで、ざわめく。
ルースは車内モニターが問題なく接続されていることを確認した。仮面の裏で睫毛が揺れ、視線が遠景を測った。機体は滑るように空を走りだした。
しばらく浮上したのち、グレーの層を抜ける前に、一度だけ地上を振り返った。龍道の腕が高く掲げられているのが見える。浅く角度を取り、東風に身を任せる。
雲へ紛れる高度で、蒼の声がモニター脇のスピーカーから流れる。
『ゲート前の巡回、予定変更なし。そのまま進んで』
「了解」至が短く応答する。
——雲層を抜けた。
一瞬、視界が白に塗り潰される。次に現れたのは、青白く発光する巨大な構造体の群れだった。
無数のビル群が雲海の上に整列し、どれもが硝子と金属の複合体で、太陽光を受けて都市の輪郭を主張している。
外界との気圧差で一瞬、耳が詰まり、すぐに都市の環境制御が感覚を馴染ませてくる。
高層の橋梁が幾重にも交差し、どの道路も一定の速度で物資が流れている。自動運搬機が編隊を組み、誤差のない角度で旋回していた。
幸いにも人影はない。至はフロント越しに、高層ビル群を見上げた。その荘厳さが今は禍々しく見える。
蒼が再び指示を出す。
『——十秒後。フレームが落ちる。限界まで加速して』
蒼のカウントとともに、至は操縦桿を一気に倒す。加速と同時に上半身がシートに沈み、荷台の穀物が一拍遅れて波打つ。
ルースは金属のアーチが見えた瞬間入場タグの送信タイミングを合わせた。くぐる瞬間、白と銀の縁がフロントを走る。そして、インジケーターが一拍遅れて緑に変わる。
彼らはそのまま都市の内側へ滑り込んだ。
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