果てなき空に、蒼き祈りを
桐瞠アオイ
第一部 蒼空の果て 第一章
1
「ねえ!
「それより、まず買い出しを……」
蒼は困った顔で制止するが、彼女は迷わず肉の串を指差し、もう店主と交渉を始めていた。
「三本ください!」
「……はやいな」
少し呆れながらも、その楽しげな様子につられて笑顔がこぼれる。出来たての串焼きを待つ間、彼は何気なく周りを見渡す。
左視野に組み込まれた生体スキャンユニットが反応し、通行人たちの心拍・体温データが可視化され、淡く映し出される。
〈マーケット〉と呼ばれるこの場所は、二十六世紀にできた商業施設跡地を利用して作られたものだ。床には、ところどころタイルが残っていたが、その多くは剥がれ、土に埋もれていた。天井のガラスも大半が割れ落ち、日除けのタープの隙間からは、青空が顔を覗かせている。
店舗は簡素な木製の屋台がほとんどで、発電機の音が小さく鳴っている。植物油のランプが小さく揺れ、ソーラー充電式の簡易LEDライトが昼光色の光をぼんやりと落としている。時折、風が吹き抜け、布張りの屋根を柔らかく揺らした。焼き肉とスパイスの香りに、湿った土と草の匂いがほんのりと混ざり、食品エリア一帯を包んでいた。
素早く数回瞬きをすると、蒼の視界が揺らいだ。陽炎のように過去の景色が重なり、投影される。
2639年、現在から116年前。
透明なガラスの天井。吹き抜けを囲み、整然と並ぶショーウィンドウ。光を反射するタイル張り床に、通路を行き交う人々が淡く映り込んでいる。耳に響くのは、機械音声のアナウンス。
「本日限定セール! 生鮮食品半額!」
「新作スイーツ、本日入荷しました!」
ところ狭しと並ぶレストスペースのテーブル。軍服姿の誰かと向き合って座った。トレーに置かれた鮮やかなオレンジの液体が視界に入る。最新作のミックスジュース。人工培養されたフルーツをブレンドし、最適な甘みと酸味を調整したドリンク。色鮮やかで、とろりとした質感。口に含むと、冷たい甘さが舌を転がる。
「思ったより、すっぱい!」
「先行発売だからね。今度もっとマイルドになるらしいよ」
そう話す相手の輪郭は、ぼやけている。会話だけが、今も記憶に残っていた。
「蒼!」
光莉の声が飛び込み、彼は反射的に瞬きをした。覗き込む彼女の姿に溶けるように、ぼやけた誰かの輪郭と機械音声のアナウンスがフェードアウトしていく。
視界が現実に切り替わる。元の食品エリア。目の前には、眩しいほどの笑顔で肉の串を持っている光莉。
「せっかくだから、何か食べようよ!」
「俺、味わからないよ」
彼は気まずそうな表情を滲ませた。センサーで信号として味覚データは拾えるが、それはリアルな味とは違う。
「でも、果物は食べれるでしょ? こういうのは雰囲気!」
明るく押し切る勢いに、思わず苦笑いする。
店先に並ぶ果物や野菜は、どれも畑で育てられたものばかりだ。
この二十八世紀の荒廃都市〈ルインド=トーキョー〉では、バイオ技術は、ほとんど機能しておらず、遺伝子改良された作物よりも、手作業での農業が主流となっていた。自然の土で育った実は、不揃いな形とごつごつした皮を持ち、確かな生命力を感じさせる。
蒼は一番近くにあるオレンジに似た果実を指さした。
「じゃあ、これで」
「これください!」
彼女は嬉しそうに店主に話しかけると、大きく色鮮やかな実を取って蒼の手に乗せた。
皮を剥き、ひと房取って口に運ぶ。咀嚼の感覚とともに、脳内の解析ユニットが味覚信号を数値化する。
《糖度:20・4%、酸味:高、微量の苦味成分》
《甘酸っぱいオレンジ味!》脳裏に雑なまとめが浮かぶ。想像上での味を噛み締める。「……甘酸っぱい」こぼれた言葉には、どこか自嘲が混じった。
視線を上げる。喧騒の中、人々の往来は絶えない。光莉は、既に数軒の先で干物の値段を交渉していた。
ふと隣の露店に目を遣った。
そのとき——
「わっ!」
何かが、勢いよく背中にぶつかった。
少年だ。
「ごめん! ロボットみたいな兄ちゃん!」と叫んで、駆け抜けていく。
栗色の髪。茶色の瞳。
一瞬、幼少期の姿と重なった。驚いて振り返る。足を踏み出し、その子を追いかけようとする。しかし、遅かった。その幼い背中は、人混みの中に紛れて溶けていく。
「大丈夫?」
光莉が驚いて駆け寄る。
「うん、平気」
彼は、どこか心ここにあらずな様子で答えた。先程の子供は完全に視界から消えていたが、昔の自分の幻影を追うかのごとく、まだ眼差しを遠くに向けていた。
深い群青の髪。偽皮膜で覆いきれなかった左頬は金属プレートが露出している。そして、感情を映すたびに色味を変える、シアンの眼。迷いなく人間だと言えたあの頃と、あまりにも変わってしまった。とても些細な衝撃だったが、それは確かに、心の柔らかな部分を抉って行った。背中に残った僅かな温もりが、小さな棘のように感じた。
2
突如、異音を感じた。蒼は鉄骨がむき出しになった屋根の隙間から、空を仰ぐ。無人偵察機が、高空をゆっくり横切っていった。感覚が、一瞬、研ぎ澄まされる。一定のルートを行き来する定期巡回タイプのドローンだった。すぐに警戒を解く。
「今朝から多いな」
近くの商人がぼそりと言った。
店主同士が、上空を気にして会話を交わしている。耳を傾け、音声認識システムを起動させた。
「〈プレトリア〉の偵察機か。昨夜も飛んでたろ?」
「なあ。先週、南東のコロニーが潰されたって話、聞いたか?」
「まじかよ。まあ、あそこはテロ組織化してたからな」
《検索結果:〈フォート=プレトリア〉は、二十六世紀から二十七世紀にかけての中央政府跡地に政府が設置した軍事要塞施設。現在、地上で最も武装が整った拠点である。中央政府機能は、天空都市〈インペリウム〉に移行しており、マザーAIシステム〈
現実に重なり、機械化された左視野に解説が流れる。
直後、また異なる空気振動が、体内の感知器に届いた。まるで、大気がざわめく低い波動。一定のリズムを刻む偵察機のノイズとは違う、不規則で重い振動。再び空を見上げた。先ほどとは逆方向に横切る偵察機。
違う——。
無いはずの心臓が、跳ねた。喉の奥に、冷たいものが落ちるような感覚が広がる。かつて戦場で数え切れないほど聞いた不快音。体の奥が勝手に警報を鳴らす。視界の端に解析データが走るが、見るまでもなかった。
来る。
「伏せろ! 光莉!」
考える前に、体が動いた。
全身の力を込めて、彼女の腕を引き、胸元に抱え込んで地面へ伏せる。
轟音が、空を引き裂いた。
衝撃波が襲う。
熱風が背中を打ちつけ、土埃と破片が一瞬で視界を奪う。空気が弾け、鼓膜が焼き切れそうなほどの振動が脳を揺さぶる。肩に違和感——配線が一本、弾けて切れた。金属片が飛び、木材が軋み、折れる音。人々の悲鳴、木箱や什器の壊れる音が、世界を埋め尽くす。胸元で細い体が硬直しているのを感じた。指が食い込むほどの力でしがみついている。
しばらくして、爆風が収まった。まだ衝撃は体に残っているが、機械化された神経が異常を瞬時に修復し、動作命令を優先させる。
蒼はゆっくりと顔を上げた。言葉が出なかった。ついさっきまで活気に溢れていた市場は、破壊され、変わり果てていた。砂塵が立ち込め、白く霞んでいる。咳き込む音と断続的な悲鳴が交錯する。
光莉は、まだ固まって動けない。しがみつく体は、強張っている。
「大丈夫か?」
声をかけると、はっとして蒼を見上げた。深呼吸をしてから、小さく首を縦に振る。
「うん、なんとか。でも、いったい何が……」血の気を失った顔で辺りを見回す。
返す言葉を探す代わりに、優しく彼女の背を撫でた。
形を失った店の奥に、先ほどまで会話していた商人がいた。彼の上半身は、かろうじて無事に思われるが、片足が折れた木材と鉄骨の間に挟まれているらしい。苦痛に歪んだ表情、砂塵の中にかき消されそうな弱々しく「助けて」と言葉を吐き出した。
蒼は光莉の腕をそっと解くと、すかさず立ち上がった。商人のそばに駆け寄ると、片膝をつく。手のひらを商人の肩に置くと、内蔵センサーを起動した。骨折はないが、血流が阻害されている。長く圧迫されれば、壊死する可能性が高い。
「いま引き上げる」
蒼が両手を瓦礫の下へ差し込み、力を込めた。圧迫された金属が軋む。
「この人をお願い!」
呼びかけに、光莉が急いで駆け寄り、商人の肩の下から手を差し入れて両脇をホールドする。
「ちょっと待ってね」
彼女が膝を安定させた時を見計らい、蒼の右腕から微細な稼働音が唸った。内部機構が駆動し、補助力学制御によって爆発的にパワーが増幅される。乾いた音を立てて木材が割れ、鉄骨がずれる。
「今だ!」
合図に応じ、彼女が力いっぱい引き寄せた。圧迫されていた足が抜け、商人はやっとの素振りで転がり出る。「ありがとう」と額に汗を滲ませ、息も絶え絶えに礼を言った。
光莉は状態を確認し、布で簡易的な止血を施す。手際は落ち着いており、迷いがなかった。
ガラスの割れる音、木材が落ちる乾いた音。「助けてくれ」「こっちも!」至る所から上がる悲鳴や泣き声。音が交差する度に、まだ爆撃の余韻が続いていることを思い知らされる。
「処置を続けて」
「うん!」
頷くのを確認すると、次の救助へと向かう。爆風で吹き飛ばされた屋台が横倒しになっていた。鉄鋼フレームのタープがその上にのしかかり、三角形の隙間を僅かに残して崩れかけている。
その裂け目から、痙攣する細い手が一本だけ突き出ていた。蒼は女性の手に目を向け、左視野の構造解析モードを起動する。
木材や鉄鋼の骨組みと、その下に押し潰された女性の骨格が、視界に淡く浮かび上がる。フレームは歪み、屋根材の鉄鋼パイプが斜めに圧し掛かっていた。
「蒼! 無事か!」
聞き慣れた声が、背後から響く。振り返ると、瓦礫の向こうから二人の男が現れた。
先頭を切るのは
すぐ後ろに、さらに大柄な
自身の住まいでもあるこの場所の惨状を前に、張り詰めた表情を浮かべている。ほどなく彼の仲間たちも駆けつけてきた。
至が鋭く声を上げる。「龍道、あっちを! 建物の下敷きになっている人が多そうだ。分担してくれ」
「了解!」
張りのある太い声が応え、仲間に向かって呼びかける。
「
その言葉に応じて、仲間たちがスムーズに動き出す。役割は決まっていないはずなのに、それぞれの得意分野が自然に発揮されていく。誰かの「足が潰れてる!」という叫びが聞こえたが、「もうすぐ
至は周囲に目を走らせる一方で、蒼に短く問いかけた。
「生存者か?」
「うん。腰を柱が圧迫してる。このまま引き抜いたら危ないと思う」
「構造的にどうだ?」
「手前の支柱を焼き切れば、スペースは作れる」
「なら、俺が手前を支えればいけるか?」
「もしかしたら、全体が落ちるかもだけど……やってみるしかないか」
蒼は膝をつき、両手でタープのフレームを斜め下から支えた。彼は鉄骨の継ぎ目に指を添える。手首の装甲がスライドし、細いレーザーが発射される。赤熱する金属が、じりじりと音を立てながら溶けていく。肩口で火花が弾け、焦げた匂いが立ち込めた。
「切り離すよ。構えて」
「任せろ」
焼き切られた支柱が軋みを上げ、ずれる。二人が同時に体重をかけて支えた瞬間、ぐらりと布地がたわみ、上に積もっていた鉄片が一枚、蒼の毛先をかすめて落ちた。
至の肩が一瞬沈み、肘が震える。
「まずい。俺の腕じゃ、長くはもたない」
蒼も歯を食いしばり、体勢を保つ。柱の端がちょうど彼の肩と腕の間に引っかかり、動けば全体のバランスが崩れる構造だった。
「やばい。このままじゃ動けない」
そのときだった。
「手伝う」
ややハスキーで、少年の面影を残す透明感のある声。
まるで、この瞬間を見透かしていたかのように――黒いシャツの青年が現れた。色素の薄い金髪、澄んだ碧い瞳、耳元の二連ピアスが揺れる。
「調査帰りに服でも買おうと思ったんだけど。まさかこんな事態になるとはな」
「
フィールド調査で不在だった仲間の一人だ。蒼は息をつき、隙間を目で指し示した。
「中に潜って、彼女の身体を引き出して!」
「わかった」
彼は、ためらいなく隙間に身体を滑り込ませる。
「意識がない。多分、頭を打ってる」背中側から女性の身体を少しずつ引き出していく。
「もう大丈夫だ」
透流の合図とともに、蒼は支えていた左手を離し、至とともに切り出した鉄骨を地面に下ろす。それと同時に一帯が瓦解した。透流は女性を抱えたまま身を捻り、自分の背で破片を受け止める。乾いた音を立てて木片が地面に転がった。
数秒後、蒼と至はようやく力を抜き、息を吐いた。透流はそっと女性を横たえ、埃を払いながら立ち上がる。
至が彼女の脈を確認して言った。「すぐ医者に見せた方がいいな。俺が診療所に連れて行く。二人は他を頼んだ」
「おっけー! 暗くなる前に救助を急ごう」
蒼は敬礼する仕草をし、透流は瞬きで答えた。
全てを助け出せたわけではなかった。先ほどまで力強く商売していたはずの商人の遺体、負傷者の呻き、悲鳴。地獄と化した場所で、それでも必死に救助は続いた。
3
もう夕陽が沈みかけている。残骸物の隙間から立ち上る粉塵が、淡い赤に染まり、靄となって漂う。崩壊の爪痕は深く、完全な復旧には程遠い。
「これで出来る限りは、助けられた?」
「一旦は、大丈夫そう」
光莉の不安そうな問いかけに、蒼が広域に簡易な生体スキャンを走らせて答えた。
不意に小さな嗚咽が耳に届いた。二人がそちらに意識を向けると、小さな男の子が、ひしゃげた屋台の前にしゃがみ込み、泣きじゃくっていた。その横には、動かなくなった誰かの脚があった。光莉は静かに顔を伏せる。全ては救えないことを知っている。けれど、行き場のない悔しさが残った。
二人は、マーケットの一角、崩れかけた建物の先にある灯りへと歩き出す。お世辞にも「きれい」とは言えない診療所があった。それでも、貴重な場所だ。
中からは忙しなく動く気配。指示や報告が飛び交い、人影が交差する。器具の金属音と小さな呻きが断続的に聞こえる。
「
「優先して処置するわ」
白衣を纏った中年の女性が、よく通る声で叫ぶ。
紗月は、この街では貴重な医師だ。有志の医療班をまとめる存在でもある。白衣の袖をまくり上げた腕は、年齢を感じさせない力強さに満ちていた。光莉はその光景を見つめ、決意した面持ちで言った。
「私、ここに残って、紗月さんの手伝いをするね」
蒼は力強く頷く。
「わかった。診療所でサポートに回るって、皆に伝えるよ」
診療所を出たときには、陽は沈み切り、仮設テントの灯りが街を照らす。風はなく、静けさが支配していた。それは、どこか虚ろだった。
火傷の手当てを受ける女性の横をそっと擦り抜け、瓦礫の間を歩く。足元には、赤く煤けた果物の皮や、焼け焦げた布の切れ端が転がっていた。ひとつひとつに人の営みがあったのだと、改めて思い知らされる。こんなにも簡単に壊される事実に、腹の底が疼いた。
遠くに、仲間たちの影が見えた。
中心に立つ至は、何かを思案しているみたいだ。その横顔には、疲労の色がにじんでいる。無言で、その横に立った。彼はすぐに気づき、端的に告げる。
「俺はベースに戻って状況を整理したい。蒼、透流も一緒に戻ろう。龍道、お前は?」
「俺も行くぜ。ここは仲間に任せるよ。よろしくな、安東」
龍道が横目で合図すると、隣にいた男が軽く顎を上げた。側頭部に剃り込みを入れ、耳にはいくつものピアス。両腕に彫られた色褪せたタトゥーは、煤にまみれた肌に溶け込んでいる。
「ああ。こっちは任せとけ」
力強い一言に、龍道は口角を上げた。
至の「帰るぞ」という一言を機に、外装にソーラーパネルを敷き詰めたジープに乗り込む。起伏の激しい大地を進むたび、車体は不規則に揺れた。誰も言葉を発することなく、夜の闇を進んでいく。
蒼は、肩に走る鈍い違和感を抱えたまま、窓の外をぼんやりと眺める。
月はもう高く、冷たく、空に浮かんでいた。
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