九十九里浜#66

真花

九十九里浜#66

 表題「九十九里浜#65」

 水平線に群がる雲は黄泉の国から湧き出たような薄紫をしていて、そこにナイフのようにオレンジの陽光が反射する。その向こう側に空がどこまでも続いているが、そこが既に闇なのかまだ青いのかは今は分からない。海は灰色から紺へとグラデーションを泳いでいて、波泡がそこかしこに立っている。海岸線まで迫る大洋を砂浜は静かに受け止めている。空にも海にも浜にも人間は誰ひとりいなくて、かもめも魚もない。まるでそこは生命が誕生する前のようで、次に太陽が昇るときについに最初の命が発生するのかも知れない。だから波の音と風の音だけがここに届いていて、あと少しで陽は沈み、全ては真っ暗になる。その寸前の今。


 描けたと思った。

 今の私に出来ることは全て込めた。繰り返し何度も描いたモチーフが、ついに熟れて落ちるところまで来た。今年こそはと祈りを込めて公募に出した。でも、ダメだった。

 九十九里浜は私が描いた絵とそっくり同じ空をしていた。落選を知って自然とここに足が向いた。砂浜に座って見える景色が大好きなのに、今日は愛しいと思えない。腹にドス黒いものがあって、その悪臭に自分が発しているものだと分かりながら顔をしかめる。浜は悪くない。でも。

「今日は嫌い」

 顔の前でお手玉をするみたいに小さな声で呟く。決して浜には届かないように。その声を海風がさらって、どこかへ連れ去ってしまう。誰にも聞かれたくないのにきっと誰かにぶつかってしまう。タローにだけは当たってもいい。もう会ってはくれないだろうけど。

 体育座りをしたまま陽が落ちるのを眺める。私は全力を出したと言い切れるのだろうか。もっと出来ることがあったんじゃないのだろうか。去年落ちてから、一方的にタローに約束をした。

「私、描くことに集中したいから、もうタローとは会わない」

「勝手だな」

「そうよ。でも私にとっては描くことが全てなの。恋愛とかしている暇はないの」

「たまに会うくらいいいじゃん」

「これは覚悟の問題なの」

 私はタローの目をじっと見て、見ている自分の目が潤むのを感じた。その涙をタローはそっと指で拭って、小さなため息をついた。

「分かった。しっかり描きな」

 タローは私なんかよりずっと強い目をしていた。それから本当にタローから連絡が来ることはなくなって、会うこともなく、私の方がつらいときにスマホを握り締めて、あと少しで電話をかけるとこまで行っては耐えて、泣いて、でも意地があったし、スマホを置いて絵筆を取った。取り続けた。でも結果はこれだ。波の音がさっきよりも強くなって、何かを囁いている。それは決して私を慰めるものではなく、私の惨めに他愛なく触れるばかりで、それが痛い。そんな無神経なところも気に入っていたのだけど、今は押し返したい。押し返せない。風も光も同じことを私にする。私はどんどん小さく削られていって、まるでぽつんとした木像のようで、いずれは砂と同じになってしまう。そうなるまでここにいてもいい。痛い。

 痛いよ。

 タロー。ごめんね。

 陽光が弱くなり始めて、浜も海も紫色に染まる。私は浜にひとりで、描くことしか能がないのに描くことの結果は散々で、決めた期限も越えてしまった。立ち上がって、尻の砂を払う。ぬるい空気は昼間の夏の残渣で、私を梱包しようとするけどそれを切り拓くように前に一歩進む。もう一歩、もう一歩。

 進む。

 右足が海に触れた。サンダルに乗っかるように波が足を洗う。海は少しだけ冷気を孕んでいて、それは水の温かさの中に冷たい粒が浮いているようだった。

 進む。

 足首まで入っただけで水がそこにある抵抗があって、まるで私を押し戻そうとしているようだった。でもそんなことしなくてももういいのに。私はこのまま九十九里浜の一部になるのだから。お前達と一緒になるのだから。いつか私と一体となった九十九里浜を誰かが絵にしてくれたら、それでいい。

 進む。

 膝まで浸かった。さっきまで広がっていた空も海も触れていた波も分からなくなって、足を体を前に進めることだけを感じる。タロー、ごめんね。ごめんね。思考がそこで凝り固まって子供の遊びのようにループする。もう自力では抜け出せない。鬼の子供達と最後まで遊び続けなくてはならない。

 進む。

 スカートが浮かんで広がる。腿を海が撫でる。タロー。ごめんね――

「ハル!」

 声に殴られて、私の進みが止まる。

 後ろから気配がして、波を割る音がして、腕を掴まれた。

 強く引かれて、私が振り返る。

 タローがいた。紫色した世界なのにそこだけがオレンジに照らされていた。タローは息を切らして汗だくで、泣きそうな顔をして私の目をじっと見た。

「タロー」

 私に流入する全てのもののほとんどがタローになった。どうしてここにいるのだろう。どうして今ここに来てくれたのだろう。どうして。

「ハル。俺と生きよう」

 私の底から濁流が込み上げて、それはでも清くもあって、喉の奥をつんと押す。私は首を振る。

「絵は、ダメだったんだ」

「知ってる。それでも俺はハルの絵が好きだ。だから、ずっと描けばいい。生きる方は俺がなんとかするから。ずっと描けよ」

 喉にあったものが鼻の奥まで上がる。私の腕を掴むタローの手に力が入った。

「無茶苦茶言ってる。一年も会ってなかったのに」

「長い一年だった。自分の気持ちを確かめるには十分な時間だった」

 私も長かった。濁流が涙腺を突破して、私は声を上げて泣いた。タロー、タロー、と彼の名前を呼びながら泣いた。タローはグッと私を抱き寄せてもう二度と離さないと示すように力を込めた。太陽が最後の輝きを私達に灯して今日を終わろうとしている。タローが空に海に宣言するように言う。いや、私に届かせようとして言う。

「夜が来た。これは新しい朝の準備が始まったってことだ」

「変なの」

 私は笑って、とても久し振りに笑って、その笑みを反射するようにタローも微笑んだ。

「でも、本当にそうなるといいな」

「なる。二人ならなる」


 表題「九十九里浜#66」

 真っ暗な空は星に乏しくて、天から闇を垂らしたかのよう。その中に薄い雲が浮かんでいて、微かに紫色をしている。空と海の触れたところは波の起源で、黒い海に波の肌が立って迫って来ている。砂浜は鈍色で波に少しずつ喰われている。そこに二人の男女が立っている。砂浜より進んだ海に膝より少し深いところに立って、水平線を並んで見ている。しっかりと繋がれた手。二人の目に映っているのは夜闇だけではない。


(了)

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