第三章:還らぬ宣告
王都の地下、忘れられた水道網の奥深く。そこが、エリナとリディアの新しい王国となった。
アルデリーネ公爵家の書庫の奥、古い暖炉の裏に隠された扉。それが自らの屋敷と地下道とを繋ぐ入り口だった。リディアは、夜中に誰の目も気にすることなく、この地下世界へと降り立つことができるようになった。
ある夜、地下の隠れ家で、リディアはエリナに悪戯っぽく笑いかけた。
「以前の廃屋に通うより、ずっと楽になったわね。まるで、秘密の恋人にでも会いに来ているみたい」
その言葉は、リディア自身も驚くほど自然にこぼれ落ちた。公爵令嬢の仮面を脱ぎ捨て、ただ一人の共犯者と過ごすこの薄暗い空間だけが、彼女が息をできる唯一の世界だった。
エリナは、リディアの冗談に答えず、ただ静かにランプの灯りを調整する。だが、その炎に照らされた横顔が、ほんの少しだけ和らいだのをリディアは見逃さなかった。その微かな変化が、リディアの心に奇妙な温かさをもたらすことを、まだ彼女は自覚していなかった。
昼間はランプの乏しい光の下で、リディアが地上から持ち込む情報をエリナが分析し、次の標的の脆弱性を探る。夜になると、エリナは名もなき幽霊として、王都の地下に張り巡らされた秘密の道を独りで歩き、貴族たちの屋敷の構造を確かめた。
二人の生活は、奇妙な安定を得ていた。外界から完全に遮断された、二人だけの世界。そこには、ただ一つの目的だけが存在した。すべてを、燃し尽くすこと。
「最初の標的が決まったわ」
地下の隠れ家で、エリナは壁に広げられた王都の地図の一点を指さした。その瞳には、冷徹な戦略家の光が宿っている。
「ボーモン侯爵――表向きは慈善事業に熱心な名士。けれど、その裏では奴隷売買と麻薬の密輸で私腹を肥やし、長年、王国の司法を腐敗させてきた元凶。彼ほどの巨悪こそ、私たちがこの国を燃やし始める、最初の狼煙として相応しいわ」
リディアも静かに頷く。だが、エリナの次の言葉は、リディアの想像を超えていた。
「リディア。侯爵の屋敷に忍び込むわよ」
「……本気で言っているの?」
「ええ。でも狙うのは彼の側近…そうね、会計士あたりがちょうどいい。私たちの関与を疑われないために、彼には私たちの駒になってもらうの」
エリナの唇に、冷たい笑みが浮かんだ。
「だから、会計士が侯爵の不正に直接加担したことを示す証拠を、一つだけ盗み出す。それがあれば、彼はもう逃げられないわ」
そしてエリナはリディアの顔を見据えて言った。
「計画を始める前に、あなたにしてもらいたいことがあるの」
「何かしら?」
「『保険』よ」エリナは静かに告げた。「万が一、計画が失敗し、すべてが露呈した時のためのね。私たちが捕えられ、最悪の事態を迎える……その時に備えておきたいの」
「保険、ですって? ……具体的には?」
「あなたには、これから私たちがすること全てを日記に記してほしい。実行犯しか知り得ない情報…この地下道の存在も含めて、克明にね」
「そんなことをすれば、真っ先に私が疑われるのではなくて?」
「日記というのは、秘密を守るのに案外向いているものよ。家族であっても、本人の許可なく読むことはないわ。けれど、何かあれば真っ先に調べられる。例えば私たちが失敗し捕まった時とかね、その日記は最強の武器になるの」
エリナは続けた。
「王家が見つければ、公爵令嬢であるあなたが王家の秘密通路を使っていたことに憤慨する。逆に、あなたのお父上が見つければ、王家が貴族を監視していたという事実に慄き、王家への不信を募らせる。どちらに転んでも、王家と大貴族の間に決定的な亀裂を入れられるわ」
「……それなら、あなたが書いてもいいのでは?」
「私が書くのと、公爵令嬢であるあなたが書くのとでは、その言葉の持つ『重み』が違う。あなたの告発は、誰にも無視できないわ」
「……なるほど。王家と貴族の争いの火種になるというわけね」
リディアはエリナの策の恐るべき全貌を理解すると、その唇に恍惚とした笑みを浮かべた。
「最高だわ」
◇
全ての準備を終えた数日後の夜、二人は地下道を使って侯爵家へと向かった。
アルデリーネ公爵家の書庫から続く冷たい通路を進む。黒い平民の衣服に身を包んだリディアにとって、この闇への一歩は、偽りの自分を脱ぎ捨てるための儀式にも似ていた。
エリナがランプを掲げてリディアを見上げる。揺らめく炎が、エリナの顔に深い陰影を落としていた。その瞳は、この地下世界にすっかり順応した夜行の獣のように、静かに、そして鋭く輝いている。
やがて、地図が示す地点にたどり着く。古いワインセラーへと通じる、通気口の格子。リディアが用意した道具で、エリナは音もなくそれを取り外した。深夜の侯爵邸に、二人の幽霊が静かに舞い降りる。
事前に調べていたこともあり、会計士の書斎の場所はすぐに見つかった。狙いは会計士が管理する小金庫。そこにあるはずの、彼自身の筆跡で記された、ごく最近の密輸取引に関する覚書だった。
幸いにも金庫は古く、錠前は簡素な作りだった。エリナは持参した細い針金を取り出し、息を詰めて鍵穴に差し込む。数秒の沈黙のあと、カチリと鈍い音が響き、扉が軋みながら開いた。
「……よく、そんなことできるわね」後ろからリディアが小さくつぶやく。
エリナは扉の隙間を確認しながら、少しだけ遠い目をした。
「……王都に逃げてくるまでに、いろいろあったのよ」
それ以上は語らなかったが、その一言に込められたものは、リディアにも伝わっていた。
中には、エリナの予想通り、一冊の小さな手帳があった。二人はそれに素早く目を通すと、音もなく金庫を元に戻し、再び闇へと姿を消した。
数日後、王都の寂れた酒場の個室で、侯爵の会計士は一人の女と向き合っていた。フードで顔を隠したリディアだった。彼女は、先日盗み出した会計士の手帳を、テーブルの上に無造作に放り投げた。会計士の顔が、みるみるうちに青ざめていく。
リディアは、その恐怖を冷静に見届けた後、静かに告げた。
「選択肢は二つ。一つは、我がアルデリーネ公爵家が、この手帳を騎士団に突き出し、ボーモン侯爵の罪を、あなたへの共犯容疑と共に告発する。そうなれば、あなたも奥様も、良くて牢獄、悪ければ処刑台行きでしょう」
リディアはそこで一度言葉を切ると、テーブルの反対側に、札束の詰まった袋と、数枚の紙を滑らせた。
「……もう一つは、あなたが自らの意思で騎士団へ『自首』する。侯爵の悪事を全て告発し、その見返りに、これら全てを手に入れる」
札束が詰まった袋の隣には、南の大陸へ渡る船の切符と、現地での新しい身分を保証する証書が置かれていた。
「さあ、選びなさい。アルデリーネの名の下に破滅するか、それとも私たちの慈悲を受け、奥様と新しい人生を始めるか」
会計士は震える手で札束が詰まった袋に触れた。その重みは、彼の忠誠心と罪悪感を、そして未来への希望を同時に量る天秤となった。長い葛藤の末、彼は顔を上げ、静かに頷いた。
その翌日、会計士は騎士団本部に自首した。「長年、侯爵の悪事に加担してきた罪を償いたい」と涙ながらに訴え、侯爵の不正を記録した裏帳簿の完璧な写しを提出した。あまりに詳細で動かぬ証拠を前に、騎士団は即座に動かざるを得なかった。
『慈善の名士ボーモン侯爵、奴隷売買と密輸の容疑で逮捕。腹心の部下の告発が決め手に』
その報は、瞬く間に王都を駆け巡り、貴族社会を震撼させた。長年、誰も手出しできなかった巨悪の、あまりに突然の失墜。人々は、自らの罪を悔いて主を告発したという「良心ある側近」の美談を噂したが、その側近が妻子と共に王都から忽然と姿を消したことに気づく者はいなかった。
◇
「……一つ、終わったわね」
地下の隠れ家で、リディアが新聞記事を読みながら、まるで他人事のように呟いた。その達成感は、彼女の心の渇きを潤すには至らない。
エリナは新聞を置くと、壁に広げられた王都の地図へと向き直った。その指は、すでに次の標的、カニンガム伯爵家の屋敷を指し示していた。
「いいえ、リディア」
エリナは、振り返ることなく言った。
「これは、始まりよ」
二人の顔を照らすランプの炎が、静かに揺らめいていた。それは、これから燃え広がるであろう巨大な業火の、ほんの最初のひとかけらに過ぎなかった。
エリナとリディアが地下道という武器を手に入れてから、数ヶ月が過ぎた。
王都は、静かだが確実な熱病に浮かされ始めていた。ボーモン侯爵の失墜後、次々と貴族たちの不祥事が、まるで膿が噴き出すかのように露見し始めたのだ。
エリナが地下道から掴んだ「事実」の火種を、リディアが絶妙なタイミングで、標的の政敵や不満を持つ者たちの元へと「噂」として運ぶ。貴族たちは互いを信じられなくなり、疑心暗鬼に陥った。その混乱は民衆の不満にも火をつけ、王都全体が火薬庫のように危険な空気をはらみ始めていた。
その夜、アルデリーネ公爵家の豪奢な食卓で、リディアの父である公爵は、不機嫌そうにワイングラスを置いた。
「近頃の王都は騒がしいにも程がある。互いに尻尾を掴み合い、足を引っ張り合う。見苦しいにも程がある!」
父の苛立ちに、母である公爵夫人も扇子で口元を隠しながら、憂鬱そうにため息をつく。
「本当に、嘆かわしいことですわ。このままでは、貴族全体の権威が失墜し、ひいては我がアルデリーネ家の名誉にも傷がつきかねません」
リディアは、完璧な令嬢の表情で、悲しげに眉をひそめてみせた。
「ええ、お父様、お母様。本当に胸が痛みますわ」
その言葉に、嘘はない。ただ、その痛みの質が、両親のそれとはまったく異なっているだけだった。
(名誉……権威……)
リディアは、目の前の両親を冷静に観察していた。彼らが憂いているのは、国の行く末でも、民の暮らしでもない。ただ、自分たちの地位を揺るがす「不体裁」だけ。飢饉で民が苦しむのを「良い投資」と笑った彼らの口から紡がれる「名誉」という言葉が、リディアの耳には冒涜のように響いた。
(あなたたちが守ろうとしているその空っぽの輝きこそが、この国を腐らせている元凶なのに)
リディアの心の中は、凪いでいた。
(大丈夫。あなたたちの番も、いずれ必ず来るわ)
彼女は、優雅にワインを一口含んだ。その唇に浮かんだ微笑みが、完璧な令嬢の仮面なのか、それとも、獲物を見定める捕食者のそれなのか、誰にも知る由はなかった。
その数日後、リディアは地下の隠れ家で、エリナに静かに告げた。
壁の地図に、エリナが赤いインクで×印を一つ加える。これで、五つ目だった。
「順調ね」リディアが静かに言うと、エリナは頷いた。
「ええ。彼らはもう、互いを信じられない。蜘蛛の巣は、内側から崩れ始めているわ」
だが、リディアの心は満たされていなかった。枝葉を刈るだけでは、渇きは癒えない。腐敗の根は、もっと深く、そして身近な場所に巣食っているのだから。
リディアは壁の地図から視線を外し、揺れるランプの炎を見つめていた。その瞳は、まるで遠い場所を見ているかのようだ。
「次の標的が決まったわ、エリナ」
「……私の父と、母よ。今度は――殺すの」
地図に印をつけようとしていたエリナの手が、ぴたりと止まる。ゆっくりと振り返った先のリディアの横顔は、冗談を言っているようには到底見えなかった。その静かな瞳の奥で、どうしようもなく激しい炎が燃え盛っているのを、エリナは確かに感じ取っていた。
リディアが抱えてきた炎が、ついに彼女自身をも燃やし、還るべき場所を焼き尽くそうとしている。その、絶対的な覚悟の証だった。
長い沈黙の後、エリナは静かに問うた。
「……本気で言っているの?」
「ええ」と、リディアは短く答える。「令嬢という庇護される立場ではいずれまた壁にぶつかる。これからも燃し続けるには、公爵家を私が手にする必要がある。…何よりも、あの血でできた私を終わらせるには、まず、その源流を絶たなければならない。私が私である限り、彼らの罪から逃れられない。だから、終わらせるの。この手で」
その言葉に、エリナは眉をひそめた。彼女の声は、リディアの覚悟を試すように、低く響いた。
「リディア。他の貴族を破滅させるのとは、訳が違うわ」
エリナは、リディアの正面に回り込み、その瞳を真っ直ぐに覗き込んだ。
「これを為せば、あなたはもう二度と、公爵令嬢リディア・アルデリーネには戻れない。ただの親殺しの罪人になる。本当に、後戻りできなくなるのよ。……それでも、いいの?」
その問いは、リディアを止めようとするものではなかった。むしろ、その覚悟の純度を確かめるための、最後の問いかけだった。
「確かに親殺しなんて人の道から外れた行為よね」
彼女は、ふ、と自嘲するような笑みを浮かべた。
「だからエリナ、あなたに一つお願いがあるの。私が人を捨てるための、引き返せない決意を刻むために」
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