ノアールさんのおもちゃ箱

辛島ノアール

第1話 食逃げ(くいにげ)

 東京見物と称して、子供二人を銀座の街に連れてきた、一人の中年の会社員の男がいた。街の風景を色々見せ、ついでに子供二人にそれぞれ他所行きのモダンなデザインの子供服を一揃え買ってやると、丁度昼食の時間になり、子供達も、自分も、人前でお腹が鳴ってしまった。仕方が無いので、洋食屋に入る事にした。



 『赤猫(あかねこ)』と書かれた看板のある店の前に大きなメニュー表がイーゼルの上に立てかけられており、そこには、チョークで色々な料理やお酒、ソフトドリンク、デザート等が、美しい筆跡で書かれている。



 めぼしいものが見つかったのか、子供達は、

「決めた!お父さん、ここで食べよう。」

と、父親にお願いをして三人で店内に入った。給仕係にテーブル席に案内をされると、席に着くや否や、子供達は、

「私は、オムライスのドミグラスソースが良い!」

「僕は、ライス・カリー!」

と、すかさず注文。2人とも、お腹が空いて待ちきれないのである。

「これこれ、落ち着きなさい。」

とお父さん。

 給仕係から渡されたメニュー表をめくると、いい加減なところで手を止めて、

「じゃあ、赤ワインとボローニャで。あゝ、麺はペンネで頼むよ。…それから、洋風おつまみ3点盛りも。」

と、注文をした。

 給仕係は、

「かしこまりました。」

と、頭を下げてお辞儀をし、メニュー表を仕舞うと厨房へ歩いて行った。 



 父親は懐(ふところ)から、マッチと煙草を取り出して、テーブルクロスの上にそれらをポンと放り投げた。煙草を箱から取り出し、口にくわえて、マッチ棒の先をマッチ箱の茶色い所で擦り、手早くシガレット(紙タバコ)の先に火をつけた。そして、煙草の煙を思い切り深く吸うと、やや上を向いて、今度はそれをフワァと吐いた。

 子供達には、この、大人のよくやる『煙草』というものが、いたって不審に思えた。

 『煙草』とは、『薬』になるどころか、吸いすぎると『毒』になる、『害悪』以外の何物でもないのに、全く大人達は、身体に悪いと分かっていながら、この『毒』を子供がよくやるシャボン玉遊びと似たような感覚でなのか、一種の楽しみとしている。自らの寿命にも関わる、危険な行為であるのに、それを楽しむ等、全く以て大人というものは『馬鹿』である。



 そんな事を子供達が無意識に考えていると、おもむろに、父親が、

「金はねぇけど、飯は食わなきゃな。」

と、唐突に言い出した。子供達は、唖然とした。もう店に入って注文して、しかも父親は酒まで頼んでおいて、今さら『金が無い』。

 兄の方は、すっかり怖気づいてしまい、

「お金が無いのに、洋食屋に入ったの?払えなかったら、どうするの??」

と、顔が蒼くなってしまった。

 すると父親は、そんな息子を面白がって、

「なんてこたぁ無い。金が足りなかったら、三人でさっさとズラかれば良い。」

ハッハッハ、と笑いながら、父親は引き寄せた灰皿の縁で、煙草の灰を落としている。

 妹は、最初から、父親のこの悪い冗談の真意を見抜いているから、

「馬鹿らしい。」

と、給仕係が持ってきたお冷やをちびちびやった。



 やがて、二人の女性の給仕係が、三人分の料理と酒を持って、この一家のテーブルにやって来た。兄にはライス・カリー、妹にオムライス、父親には赤ワインとボローニャ、つまみが運ばれてきた。注文したものが全て揃うと、

「ごゆっくりどうぞ。」

彼女らは、下がって行った。



 兄は、本当に金が足りず、上手く逃げられなくて、三人共、警察に突き出されたらどうしようと、右手にスプーンを持ってぶるぶる震えて冷や汗をかき、蒼くなっている。

 妹は、そんな兄等気にすることもなく、フワフワの玉子をスプーンで割った。

 父親は、というと、赤ワインのグラスを傾けながら、兄をからかい、

「金は間違いなく幾ら足りていない。逃げるための最良の手段を考えなくてはいけないぞ!」

と、最もらしい、真面目な顔をして、あゝでもない、こうでもない、と、食逃げをやらかして、逃げ切るための、ベストプランを頭の中で計画立てているふりをした。



 真面目を絵に描いたような、冗談を何でも真に受けてしまう兄にとって、これは質(たち)の悪い、ひどいイタズラであった。兄は心配のあまり胃の中から何か熱いものが噴き上げてくるのを抑えながら、美味しいはずの『ライス・カリー』を無理矢理胃袋に押し込んだ。

 やがて、食事は終わってしまった。

父親は酔っ払い、妹は済まして口元をペーパーで拭(ぬぐ)う。



 父親が、買ったばかりの子供服と財布、鞄(かばん)等を持ち、上着を抱えると、

「さぁ、二人とも、本当にズラかるぞ!付いてこい!お父さんが、安全な逃げ道を見つけておいた。」

と言って、小刻みに走り始めた。妹も面白がって、蒼くなっている兄に向き直り、

「ズラかるぞぉ~!」

と、父に続いた。



 兄は、

「待ってくれぇ!」

と、慌てて二人を追い掛ける。



「捕まるぞ、本当に捕まるぞぉ!!」



 果たして、父親は、お会計レジの所迄小走りをすると、財布を取り出した。そのお財布から、十分過ぎるほどの金を取り出すと、無事に支払いを済ませた。そして、そのまま二人の兄妹を連れて、ステーション(駅)から列車に乗り込み、茅ヶ崎(ちがさき)(神奈川県茅ヶ崎市)の自宅へと帰って行った…。




 食逃げは、実行されなかった…。





    『食逃げ(くいにげ)』(おしまい)

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