遠目の灯(ともしび)

 高 神

第一章:光の粒たち

坂の上から町を見下ろす。それが男の習慣だった。


薄く暮れかけた夕焼け空の下、建物がオレンジ色に染まり始める。遠くから見れば、どの家も四角く、同じように見える。けれど、そこにはそれぞれの灯がともっている。その灯ひとつひとつに、異なる時間が流れていることを、彼は知っていた。


たとえば、あそこのマンションの4階の窓。そこには中年の女教師が住んでいる。帰宅すると静かにクラシック音楽を流し、窓辺で紅茶を飲みながら、今日の生徒の顔を思い出しては小さく笑う。誰にも見えない感情の小箱で、彼女の生活はできている。


通りの向こうの平屋には、定年退職した男が暮らしている。毎朝、決まった時間に門を掃き、郵便受けを覗き、鉢植えに水をやる。そのあとは、じっと部屋の隅に座り、時計の音を聞いていることが多い。その時間は、誰よりも静かで穏やかだった。


その二軒先には、母と娘のふたりだけの家庭がある。母はスーパーのパートを掛け持ちし、娘は学校から帰るとすぐに台所に立つ。ふたりの生活はせわしないが、夕食時の笑い声だけは、まるで鐘の音のように町に響いていた。


この町に暮らしているわけではない。けれど、この坂の上から、時折こうして眺め続けている。灯のひとつひとつに、知らない人々の物語がある。すれ違うことも、言葉を交わすこともない彼らが、日々をどう過ごしているのか——想像するだけで、少し胸が温かくなる。


人は皆、違う。違う歩き方をし、違う息をしている。それが美しく見えるのは、たぶん遠くから見ているからだ。近づけば、きっと面倒なことも、厄介なことも、葛藤もあるのだろう。けれどこの距離からなら、人は誰しも美しい。


坂の上の風が少し強くなった。彼はコートの襟を立て、もう一度町の灯を見渡す。ひとつ、またひとつ、家々に灯がともっていく。暮らしの数だけ、灯がある。


それはまるで、星空を地上に映したようだった。

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