第一話:扇エイセイ影
……風、か?
微かに、何かが揺れた気がした。温かいような、肌を撫でるような感覚が、胸の奥に引っかかる。
「……ん、あれ……?」
常磐木
「夢……だったのかな? やけにリアルだった」
どこか懐かしい、けれど言葉にできない、そんなモヤモヤした感覚が身体の奥に残っている。部屋の空気は静まり返っていて、聞こえるのは時計の秒針の音だけだ。
ふと、窓の外に目をやった。
窓辺の棚に立てかけられた一本の扇――
黒漆に金銀の蒔絵で風紋が描かれた、見慣れた蒔絵扇子。今までと何も変わらない姿で、ただそこに在る。
「――。」
その時だった。空気の振動じゃない。誰かの声が、直接頭の中に響いたような、微かな“気配”を感じた。
僕は反射的に身体を起こし、扇子を凝視する。扇がそっと揺れたように見えた....
額を押さえながら、小さく吐息をこぼす。
「……変な朝だな」
今日も一日が、始まる。僕の平凡な日常がいつも通り始まる。
◆
「おはよう」
澄んだ声が、肩越しに届いた。
振り返ると、宮代
僕は頷き返しながら、片耳のイヤホンを外した。
「またレポート、提出ギリギリだったでしょ?」
「セーフ。……二分前」
「提出ボックスの前で時計とにらめっこしてたの、見えてたよ」
「え、見てたの?」
「そりゃ見えるでしょ。目立ってたもん。……ていうか、いつもでしょ」
鏡花は呆れたように笑って、肩にかけたトートバッグをぎゅっと握り直した。
「今週は天気、荒れるらしいよ。傘、持ってきた?」
「もちろん。朝のニュースでちゃんと確認した」
「……それ、昨日も言って忘れてたくせに」
「今日こそは本気だって」
そんな他愛ない会話が続く。
僕の名前は常磐木
ごく普通の、19歳の大学生だ。目立つのは苦手で、いつも人波に紛れて過ごしている。親父はもういないけど、母親・
キャンパスには、登校する学生たちのざわめきと、微かに芝の匂いが漂っていた。誰かの笑い声が遠くで聞こえる。どこにでもある、平凡な朝。
だけど――不思議と、風がなかった。
世界が呼吸を止めているかのような、奇妙な静けさ。肌で感じる空気は停滞しているのに、なぜか遠くの笑い声は聞こえる。
僕は小さく息を吐き、そっと胸ポケットに指を添えた。
そこには、細身の蒔絵扇子が静かに収まっている。
――それは、父・
亡き父が愛用していた扇子。形見として手元に残されたそれを、僕はなぜか、手放せずにいた。理由は、分からない。ただ、近くにあると心が落ち着いく。
見た目は、少し年季の入った古道具。でも、ときおり――まるで、扇に“見られている”ような感覚がする。
「今日も一日……雨が降りませんように」
無意識にこぼれた独り言が、凪いだ朝に音もなく沈んでいった。
◆
講義が終わると、僕はまっすぐ駅へ向かい、そこからバスを乗り継いで郊外の墓地へと足を運んだ。
今日は、父・岳の命日だった。
古びた傘を傾けながら、僕は父の墓の前に立つ。墓石の文字は年季を感じさせるが、周囲はきちんと整えられている。きっと、母さんがこまめに手入れに来ているのだろう。几帳面な性格がうかがえる。
「……来たよ、父さん」
線香に火を点け、花を供え、僕は小さく呟いた。
あの日から、もう何年になるのか。
父の死の詳細は多くを語られないまま、ただ「仕事中の事故だった」とだけ伝えられていた。今思えば、随分と歯切れの悪い説明だった気がする。
けれど僕には、どこか腑に落ちない記憶がある。
――普段はどんな時でも冷静だった母が、あの日だけは人目も憚らず泣き崩れていたこと。
――祖父・
そして何より、形見として手渡された一本の蒔絵扇子。優雅に風紋が描かれた扇は、「お守り代わりに持っておけ」とだけ言われた。
それ以上の説明は、何もなかった。
墓前に立ちながら、僕は胸元の扇子を握りしめる。冷たいようで、なぜか熱を帯びた感触。まるで、それがぬくもりがあるかのようだった。
「君は……常磐木の血を引く者かい?」
背後から、男の声がした。
驚いて振り向いた僕の視線の先、そこには一人の男が立っている。
黒いコートに黒い傘。顔は薄暗く、角度のせいかまるで影に隠れているように見える。その存在が、周囲の雨音まで吸い込んでいるような、妙な静けさがあった。
「……あなたは?」
「その扇。まだ“声”を上げていないようだな…」
男は、何かを確かめるように呟いた。声のトーンは低く穏やかだが、耳の奥に嫌な音が響く。
「……なんのことですか?」
「風が吹くのは、もうすぐだ。忘れるな、君の手にあるのは“封じられた風”だ」
不意に強く吹き抜けた風が、僕の傘をあおった。同時に、男の体がわずかに揺らぐ。
次の瞬間、男の姿は、墓地の細道の奥に消えていた。まるで最初からそこにはいなかったかのように。
「……風……?」
雨の音だけが残る中、僕は胸元の扇子を見下ろす。
男の言葉は、まるでどこか遠い世界の、意味不明な戯言のようだった。けれど、それが妙に、胸の奥に引っかかっている。
理屈で説明できない不穏さが、そこにはあった。
◆
帰り道、雨に濡れた舗道を歩いていた。
すでに雨は止んでいたが、頭の中は晴れない。
さっきの男の言葉が、頭の中で反芻している。
「風が吹くのは、もうすぐだ」
「封じられた風」――?
意味がわからない。けれど、引っかかる。まるで誰かが、自分の運命のドアノブに手をかけたような……そんな、寒気にも似た予感。
胸元の内ポケットから、扇子を取り出す。
風紋が描かれた蒔絵は、変わらず静かだ。ただ、それが妙に“こちらを見ている”ような気がした。
――カッ!
クラクションの音が、耳を劈くほど鋭く響いた。
気がつくと、信号は赤。
僕は歩道を越えて、横断歩道の中央まで踏み出していた。
その先に一台のトラック。
視界が、白く弾けた。反射的に、死を覚悟する。
「――避けよ。我が所有者よ」
聞き慣れぬ声が、耳の奥に直接響いた。女の声だ。
瞬間、突風が吹き荒れた。
横から吹きつけた風が、僕の身体を弾くように押し出す。衝撃とともに転び、背中を地面に打ちつけた。肺がきしむ。
トラックは、風の壁に押し返されるように、タイヤを軋ませながら寸前で停止していた。
「は……っ……」
荒い息を吐く。僕は無事だった。
視界の隅に、何かが立っていた。
雨の帳が晴れ、街灯の灯りが映す。
――黒い髪。和の意匠を纏った、16歳ほどの少女。
だが、その佇まいはあまりにも現実離れしている。衣が、風とともに緩やかに揺れる。目元は優しく、しかしどこか深い悲しみを湛えている。
「我が名は――
少女は、僕を見下ろしながら、微かに微笑んだ。その声は、僕の混乱した頭に、冷たい水のように染み渡った。
僕は、言葉を失ったまま、少女と目を合わせた。
「付喪……神……?」
扇子が、少女に“なった”?
冗談だろ?
僕はSFとかオカルトの類は好きだけど、それはフィクションの話だ。まさか、現実に、さらに目の前でなんて。
現実感がどこかへ吹き飛んでいく。けれど、目の前の存在は確かにそこにいた。
◆
その夜。雨はすっかりあがり、風だけが町の隙間を縫っていた。
僕の部屋の明かりが灯る。布団の脇には、座布団に正座した少女――千歳。
風紋のように繊細な紋様が入った羽織に、黒髪の艶が夜の灯りに溶けている。その姿は、もはや「人」以外の何者でもない。
「……で、つまり。お前が、その、扇子の……神?」
「左様。我は“
千歳は丁寧に言葉を選びながらも、僕の目を逸らさず話す。その瞳は、まるで何百年もの時の流れを見てきたかのように、深い。
「ただ“想われる”ことで、力は目覚める」
「……想われる、って」
僕はふと、思い出す。
父の形見として、何気なく持ち歩いていた蒔絵扇子。正直、父の思い出と直結するものはあまりなかった。それでも、落とさぬよう、汚さぬよう、使わなくとも丁寧に包み、そっと胸ポケットにしまっていた日々。
……それが、声を届かせた理由なのか。
「ありがとう、我が所有者よ。そなたが、我を丁重に扱い続けてくれたからこそ――我は、再び目を覚ますことができたのだ」
千歳の声は穏やかだった。まるで、風がそっと耳元を撫でるようだ。
「想いは、形に宿る。形が、想いに応えることもあるのだ」
僕は言葉を失ったまま、黙って机の上に置いた扇子を見つめた。
父が遺したもの。自分はずっと、それを「形見」としてしか扱っていなかった。けれどそこに、「命」が宿っていたのだとすれば――
「……あの男の言葉、まさか本当に……」
僕の脳裏をよぎるのは、昼間、墓前で出会ったあの男。
顔も名も分からぬまま、不可解な言葉だけを残して消えた。
「その扇、まだ声を上げていないようだな。風が吹くのは、もうすぐか」
まるで――すべて知っていたような口ぶりだ。
「そなたの周囲には、風が集まりつつある」
千歳が、どこか遠くを見るような目で言った。
「……我にも、全てはわからぬ。だが、風は兆し。そなたが歩む先に、“大きなうねり”がある。……今は、それだけは確かに分かる」
「それってどういうことだ?……災いが、来るってことかな?」
「あるいは、選択の時が、ということかもしれぬ」
風が、カーテンの隙間からそっと入り、部屋の空気を揺らした。僕は目を細める。
普通の大学生活を過ごしていたつもりだった。でも、今日の出来事は、はっきりとこれまでの日常とに線を引いた。
あの信号の瞬間に、僕はもう戻れない場所に立ったのだ。
「……日常って、意外とあっさり壊れるもんなんだな」
ぽつりと、僕が呟く。
「そなたの歩む道に、風の導きを。――我が所有者よ」
千歳は静かに、深く頷いた。
風の音が、どこかで優しく鳴っている。
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