第一話:扇エイセイ影

 ……風、か?


 微かに、何かが揺れた気がした。温かいような、肌を撫でるような感覚が、胸の奥に引っかかる。


「……ん、あれ……?」


 常磐木 ときわぎ あおは、うっすらと目を開けた。ベッドの横に差し込む朝の光が、カーテンの隙間からやけに眩しい。


「夢……だったのかな? やけにリアルだった」


 どこか懐かしい、けれど言葉にできない、そんなモヤモヤした感覚が身体の奥に残っている。部屋の空気は静まり返っていて、聞こえるのは時計の秒針の音だけだ。

 ふと、窓の外に目をやった。


 窓辺の棚に立てかけられた一本の扇――


 黒漆に金銀の蒔絵で風紋が描かれた、見慣れた蒔絵扇子。今までと何も変わらない姿で、ただそこに在る。


「――。」


 その時だった。空気の振動じゃない。誰かの声が、直接頭の中に響いたような、微かな“気配”を感じた。


 僕は反射的に身体を起こし、扇子を凝視する。扇がそっと揺れたように見えた....

 額を押さえながら、小さく吐息をこぼす。


「……変な朝だな」


 今日も一日が、始まる。僕の平凡な日常がいつも通り始まる。



「おはよう」


 澄んだ声が、肩越しに届いた。


 振り返ると、宮代 鏡花みやしろ きょうかが軽く手を振っていた。春めいた陽射しに、その黒髪がさらりと揺れる。相変わらず、涼しげで上品なやつだ。


 僕は頷き返しながら、片耳のイヤホンを外した。


「またレポート、提出ギリギリだったでしょ?」

「セーフ。……二分前」

「提出ボックスの前で時計とにらめっこしてたの、見えてたよ」

「え、見てたの?」

「そりゃ見えるでしょ。目立ってたもん。……ていうか、いつもでしょ」


 鏡花は呆れたように笑って、肩にかけたトートバッグをぎゅっと握り直した。


「今週は天気、荒れるらしいよ。傘、持ってきた?」

「もちろん。朝のニュースでちゃんと確認した」

「……それ、昨日も言って忘れてたくせに」

「今日こそは本気だって」


 そんな他愛ない会話が続く。


 僕の名前は常磐木 ときわぎ あお


 ごく普通の、19歳の大学生だ。目立つのは苦手で、いつも人波に紛れて過ごしている。親父はもういないけど、母親・みおと二人、つつましくも平和な日々を送っている普通の大学生だ。


 キャンパスには、登校する学生たちのざわめきと、微かに芝の匂いが漂っていた。誰かの笑い声が遠くで聞こえる。どこにでもある、平凡な朝。


 だけど――不思議と、風がなかった。


 世界が呼吸を止めているかのような、奇妙な静けさ。肌で感じる空気は停滞しているのに、なぜか遠くの笑い声は聞こえる。


 僕は小さく息を吐き、そっと胸ポケットに指を添えた。


 そこには、細身の蒔絵扇子が静かに収まっている。


 ――それは、父・がくの遺品の扇子だ。


 亡き父が愛用していた扇子。形見として手元に残されたそれを、僕はなぜか、手放せずにいた。理由は、分からない。ただ、近くにあると心が落ち着いく。


 見た目は、少し年季の入った古道具。でも、ときおり――まるで、扇に“見られている”ような感覚がする。


「今日も一日……雨が降りませんように」


 無意識にこぼれた独り言が、凪いだ朝に音もなく沈んでいった。



 講義が終わると、僕はまっすぐ駅へ向かい、そこからバスを乗り継いで郊外の墓地へと足を運んだ。


 今日は、父・岳の命日だった。


 古びた傘を傾けながら、僕は父の墓の前に立つ。墓石の文字は年季を感じさせるが、周囲はきちんと整えられている。きっと、母さんがこまめに手入れに来ているのだろう。几帳面な性格がうかがえる。


「……来たよ、父さん」


 線香に火を点け、花を供え、僕は小さく呟いた。


 あの日から、もう何年になるのか。


 父の死の詳細は多くを語られないまま、ただ「仕事中の事故だった」とだけ伝えられていた。今思えば、随分と歯切れの悪い説明だった気がする。


 けれど僕には、どこか腑に落ちない記憶がある。


 ――普段はどんな時でも冷静だった母が、あの日だけは人目も憚らず泣き崩れていたこと。


 ――祖父・かがりが、父の葬儀で一言も言葉を発さなかったこと。ただじっと、まるで何かを耐え忍ぶように立っていた。

 

 そして何より、形見として手渡された一本の蒔絵扇子。優雅に風紋が描かれた扇は、「お守り代わりに持っておけ」とだけ言われた。

 

 それ以上の説明は、何もなかった。

 

 墓前に立ちながら、僕は胸元の扇子を握りしめる。冷たいようで、なぜか熱を帯びた感触。まるで、それがぬくもりがあるかのようだった。


「君は……常磐木の血を引く者かい?」


 背後から、男の声がした。

 

 驚いて振り向いた僕の視線の先、そこには一人の男が立っている。

 

 黒いコートに黒い傘。顔は薄暗く、角度のせいかまるで影に隠れているように見える。その存在が、周囲の雨音まで吸い込んでいるような、妙な静けさがあった。


「……あなたは?」

「その扇。まだ“声”を上げていないようだな…」


 男は、何かを確かめるように呟いた。声のトーンは低く穏やかだが、耳の奥に嫌な音が響く。


「……なんのことですか?」

「風が吹くのは、もうすぐだ。忘れるな、君の手にあるのは“封じられた風”だ」


 不意に強く吹き抜けた風が、僕の傘をあおった。同時に、男の体がわずかに揺らぐ。

 

 次の瞬間、男の姿は、墓地の細道の奥に消えていた。まるで最初からそこにはいなかったかのように。


「……風……?」


 雨の音だけが残る中、僕は胸元の扇子を見下ろす。


 男の言葉は、まるでどこか遠い世界の、意味不明な戯言のようだった。けれど、それが妙に、胸の奥に引っかかっている。

 

 理屈で説明できない不穏さが、そこにはあった。



 帰り道、雨に濡れた舗道を歩いていた。

 

 すでに雨は止んでいたが、頭の中は晴れない。

 

 さっきの男の言葉が、頭の中で反芻している。


「風が吹くのは、もうすぐだ」

「封じられた風」――?


 意味がわからない。けれど、引っかかる。まるで誰かが、自分の運命のドアノブに手をかけたような……そんな、寒気にも似た予感。

 

 胸元の内ポケットから、扇子を取り出す。

 

 風紋が描かれた蒔絵は、変わらず静かだ。ただ、それが妙に“こちらを見ている”ような気がした。

 

 ――カッ!

 

 クラクションの音が、耳を劈くほど鋭く響いた。

 

 気がつくと、信号は赤。

 

 僕は歩道を越えて、横断歩道の中央まで踏み出していた。

 

 その先に一台のトラック。


 視界が、白く弾けた。反射的に、死を覚悟する。


「――避けよ。我が所有者よ」


 聞き慣れぬ声が、耳の奥に直接響いた。女の声だ。


 瞬間、突風が吹き荒れた。

 

 横から吹きつけた風が、僕の身体を弾くように押し出す。衝撃とともに転び、背中を地面に打ちつけた。肺がきしむ。

 

 トラックは、風の壁に押し返されるように、タイヤを軋ませながら寸前で停止していた。


「は……っ……」

 

 荒い息を吐く。僕は無事だった。

 

 視界の隅に、何かが立っていた。

 

 雨の帳が晴れ、街灯の灯りが映す。

 

 ――黒い髪。和の意匠を纏った、16歳ほどの少女。

 

 だが、その佇まいはあまりにも現実離れしている。衣が、風とともに緩やかに揺れる。目元は優しく、しかしどこか深い悲しみを湛えている。


「我が名は――千歳ちとせ。我は、扇の付喪神。あなたが……我が新たなる所有者だ」


 少女は、僕を見下ろしながら、微かに微笑んだ。その声は、僕の混乱した頭に、冷たい水のように染み渡った。

 

 僕は、言葉を失ったまま、少女と目を合わせた。


「付喪……神……?」

 

 扇子が、少女に“なった”?

 

 冗談だろ?

 

 僕はSFとかオカルトの類は好きだけど、それはフィクションの話だ。まさか、現実に、さらに目の前でなんて。


 現実感がどこかへ吹き飛んでいく。けれど、目の前の存在は確かにそこにいた。



 その夜。雨はすっかりあがり、風だけが町の隙間を縫っていた。


 僕の部屋の明かりが灯る。布団の脇には、座布団に正座した少女――千歳。


 風紋のように繊細な紋様が入った羽織に、黒髪の艶が夜の灯りに溶けている。その姿は、もはや「人」以外の何者でもない。


「……で、つまり。お前が、その、扇子の……神?」


「左様。我は“付喪神つくもがみ”。器に宿りし魂。……この扇に、人の情が深く積もり、長き時を経て“声”を得たもの」


 千歳は丁寧に言葉を選びながらも、僕の目を逸らさず話す。その瞳は、まるで何百年もの時の流れを見てきたかのように、深い。


「ただ“想われる”ことで、力は目覚める」

「……想われる、って」


 僕はふと、思い出す。

 

 父の形見として、何気なく持ち歩いていた蒔絵扇子。正直、父の思い出と直結するものはあまりなかった。それでも、落とさぬよう、汚さぬよう、使わなくとも丁寧に包み、そっと胸ポケットにしまっていた日々。


 ……それが、理由なのか。


「ありがとう、我が所有者よ。そなたが、我を丁重に扱い続けてくれたからこそ――我は、再び目を覚ますことができたのだ」

 

 千歳の声は穏やかだった。まるで、風がそっと耳元を撫でるようだ。


「想いは、形に宿る。形が、想いに応えることもあるのだ」


 僕は言葉を失ったまま、黙って机の上に置いた扇子を見つめた。


 父が遺したもの。自分はずっと、それを「形見」としてしか扱っていなかった。けれどそこに、「命」が宿っていたのだとすれば――


「……あの男の言葉、まさか本当に……」


 僕の脳裏をよぎるのは、昼間、墓前で出会ったあの男。

 

 顔も名も分からぬまま、不可解な言葉だけを残して消えた。


「その扇、まだを上げていないようだな。風が吹くのは、もうすぐか」


 まるで――すべて知っていたような口ぶりだ。


「そなたの周囲には、が集まりつつある」

 

 千歳が、どこか遠くを見るような目で言った。


「……我にも、全てはわからぬ。だが、風は兆し。そなたが歩む先に、“大きなうねり”がある。……今は、それだけは確かに分かる」

「それってどういうことだ?……災いが、来るってことかな?」

「あるいは、選択の時が、ということかもしれぬ」


 風が、カーテンの隙間からそっと入り、部屋の空気を揺らした。僕は目を細める。


 を過ごしていたつもりだった。でも、今日の出来事は、はっきりとこれまでの日常とに線を引いた。


 あの信号の瞬間に、僕はもう戻れない場所に立ったのだ。


「……日常って、意外とあっさり壊れるもんなんだな」


 ぽつりと、僕が呟く。


「そなたの歩む道に、風の導きを。――我が所有者よ」


 千歳は静かに、深く頷いた。


 風の音が、どこかで優しく鳴っている。

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