付ツクモ喪タン譚

継無来(つぐならい)

プロローグ:風フウセイ声

……闇が深い。

光も、音も、時の流れすら届かぬ場所にて、

我は静かに眠っている。


ここはどこであろうか。

幾重もの時を越えた夢の底か、それとも、

名すら持たぬ忘却の海か。


我は器だった。

漆の上に、金と銀とで風を描かれた蒔絵まきえの扇。

人の手により磨かれ、使われ、大切にされ――

やがて、声を得た。


それが、どれほど昔のことだったか。

今となっては定かではない。

記憶の欠片は風のように掴めず、指の隙間から零れてゆく。


だが、確かに覚えている。

風が吹いていた。

柔らかく、優しく、けれど強く――

我の“在り処”を呼ぶ声があった。


あの者は、もういない。

最期の時、我は……守れたのか?

それすら分からぬ。

ただ、あの風の記憶だけが、今も胸に残っている。


動けなかった。

風は止み、我はただ“そこに在るだけ”の存在となった。

意思はあれど、声も、力も、届かぬままに。


……けれど。


かすかに、風が揺れる。

闇の中に、誰かの声が届いく。


我を呼んだか。

再び、誰かが我を――“想って”くれたか。


掌の中で丁寧に撫でられた感触があった。

汚れを払い、折れた骨組みを直し、

決して粗末に扱われることはない。


我が名を、

その存在を、

忘れずにいてくれた者が……いる。


ならば、応えよう。

我がこの扇の奥に眠る風は、まだ――消えてはおらぬ。


そなたのために、もう一度吹かせよう。

この声を、もう一度届けよう。


――我が所有者よ。

そなたの歩む道に、風の導きを。

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