第18話-3 魂の飛翔

スタジアムの時間が、止まった。

イエローカードを提示されたノクソロが、悔しげにフィールドを去っていく。

数的有利。

残り時間、2分30秒。逆転への道筋が、確かに見えた。


その希望の光の中心で、あおいの親友は、今にも崩れ落ちそうな身体を、最後のプライドだけで支えていた。

「……大丈夫」

レイナは、仲間たちの手を振り払い、自力で立ち上がった。

その顔には、いつもの太陽のような笑顔。

しかし、あおいの目には、その笑顔が、痛みと脂汗で歪んで描かれた、悲痛な仮面のように見えた。浅く、速い呼吸。誰にも気づかれないように、右腕だけで地面を押して立ち上がった、あの瞬間のかすかな震え。


――ダメだよ、レイナ。もう、限界だ。

あおいは、唇を切り裂きそうなほど強く結んだ。何も言えない。

ベンチにいる武田も、佳代子も、動かない。

この、キャプテンの最後の覚悟を、信じて見届けることしか、できなかった。


「タッチ、狙う!」

レイナが、かすれた声で叫ぶ。

ペナルティの地点から、彼女は残り僅かな力を振り絞り、ボールをタッチラインの外へ蹴り出す。セオリー通りの、最も確実な選択。ボールは、まるで意志を持っているかのように、敵陣ゴールラインまでわずか5メートル地点できれいにタッチラインを割った。



絶好のチャンス。

清陵ボールの、5メートルラインアウト。

スタジアムの誰もが、ごくりと息をのむ。

「美咲お願い!」

レイナの声が飛ぶ。

スロワーの美咲は、こくりと力強く頷いた。

彼女の瞳にはもう、かつてのような恐怖の色はない。

この大一番で、最も重要な役目を託されたことへの、誇りと責任だけが宿っていた。


ラインアウトに並ぶのは、清陵、東嶺、それぞれ2人。

清陵のジャンパーは、もちろん須藤珠美。その巨体が、まるで天を突く塔のようにそびえ立つ。

美咲は、深く息を吸った。ボールの革の感触を、指先で確かめる。


――珠美なら、絶対に取ってくれる。

彼女は、練習で繰り返してきた、完璧なフォームでボールを投げ入れた。その軌道は、珠美の伸ばした指先の、さらに数センチ上を狙う、完璧な寸分の狂いもないスローイング。

「せぇっ!」

珠美が、地面を蹴った。

バスケットコートで幾度となく空を支配してきた、その跳躍。

その最高到達点で、ボールは、まるで磁石のように、彼女の大きな手のひらに吸い込まれた。

確保!

スタジアムに、歓声と、安堵の溜息が交錯する。

着地と同時に、翠と千夏が完璧なサポートに入り、モールを形成。

ゴールラインまで、あと数メートル。

じりじりと、不格好に、しかし確実に、赤と白の塊が約束の地へと近づいていく。

だが、6人になった東嶺のディフェンスは、鬼気迫るものがあった。凄まじい抵抗。モールが、止まった。


「出せ!」

レイナの叫び。

密集からボールを掻き出したのは、あおいだった。あおいは電光石火の速さで、ボールを外へ展開する。

あおいから、沙耶へ。沙耶から、さらに外の夏希へ。

だが、東嶺のディフェンスは、それさえも読んでいた。パスコースは、完全に消されている。

ならば、と、夏希は内へ切れ込む。だが、そこにも紺色の壁。

突破口が、ない。


ボールは、再び内側へ戻される。

夏希から、再び沙耶へ。そして、沙耶から、最後の司令塔、あおいの元へ。あおいが巧みな重心移動ディフェンスのギャップを突いて切り込む。


ゴールラインまで、あと1メートルほど。

しかしゴールラインに迫れば迫るほど、ディフェンスの密度が濃くなり、広く高い壁に見える。


あおいの目の前に、最後の壁が立ちはだかる。東嶺のプロップの選手。

重心を低く落とし、最後の壁を死守するべく身構える。


思考が、灼熱の鉄のように熱い。


――考えるな。感じろ。


あおいの脳裏に、雷撃のように一つのプレーが浮かび上がる。

彼女は、最後の力を振り絞り、地面を蹴った。相手選手の右肩に向かって突進し、足元の隙間にボールをねじ込もうと左手を伸ばす。

相手の両手がそれを阻止すべく右足元に伸びる。


――今だ!


それは、完璧なフェイク。

あおいは、衝突で相手の自由を奪いながら、その瞬間に左手を引き、すぐ背後で、全てを信じて走り込んできていた親友へと、バックフリップパスで最後のボールを託した。


「レイナッ!」

そのパスは、言葉ではなかった。魂の、受け渡しだった。

ボールを受け取ったレイナの身体は、もう限界を超えていた。

だが、彼女の心臓は、まだ燃えていた。


「うおおわわああああっっっ!!」

レイナは、叫んだ。自分でも何を叫んだのか分からない、魂の雄叫びを上げて。


そして、跳んだ。


ディフェンダーの右上にわずかに空いた空間へ。

痛むはずの左肩も、焼けるように痛い脇腹も、もう感じない。

ただ、仲間が繋いでくれたこの想いを、ゴールラインの向こうへ運ぶ。

その一心だけが、彼女の身体を、重力から解き放った。


レイナの身体が、宙を舞う。


身を低くした相手の、驚愕に見開かれた瞳の上を、まるで翼を持った鳥のように、飛び越えていく。

あおいの突進を受けた相手プロップが遅れて手を伸ばす。その左にいたフッカーも阻止するべく両手を伸ばし体を張る。


だが、魂の飛翔の勢いが勝る。

命がけのダイブは、レイナの肉体と、ボールというチームの命を、ゴールラインの先へ運んだ。

そして、下半身は相手選手の上に乗ったまま、その両手は、確かにボールを芝生に接触させた。


そして、スタジアムの全ての音が消えた、一瞬の静寂。


ピーーーーーーーーーッ!

主審の腕が、力強く、天に突き上げられた。


トライ。

そのホイッスルが、静寂を切り裂く号砲となった。


「「「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっ!!!!」」」

爆発するような、地鳴りのような大歓声。

泥だらけのまま、崩れ落ちるように抱き合う、赤と白の戦士たち。


その中心で、トライを決めたレイナは、もう立ち上がれなかった。


彼女は、ただ、空を見上げていた。


電光掲示板の時計は、残り2分を告げている。




第18話 「衝撃」

(了)

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