第2話-1 高い壁 2 才能と絶望
1.高い壁
「よし、行くよ、あおい!」
「う、うん……」
翌日の放課後、あおいとレイナは早速、職員室を訪ねた。
レイナの底抜けの明るさとは裏腹に、あおいの心臓は緊張で早鐘を打っている。
二人で目を合わせてから、意を決してあおいは右手で三回ノックする。
「失礼します!」
◇
結果から言えば、惨敗だった。
あおいたちの最初の挑戦は、木っ端微塵に砕け散った。
「女子で、ラグビー? 南雲さん、悪いが冗談なら他所でやってくれ」
ベテランの数学教師は、眼鏡の奥の目を細めて鼻で笑った。
「いや、うちはちょっと専門外でね。体育の授業ならまだしも、部活動となると……。怪我でもされたら、こっちの責任問題になるから」
若い社会科の教師は、申し訳なさそうに、しかしきっぱりと首を横に振る。
「気持ちは分かるが、前例のない部活、特にコンタクトスポーツを認可するのは非常に難しいんだ。学校としてもね」
教頭は、穏やかな口調ながら、その言葉は揺るぎない拒絶の響きを持っていた。
レイナが「7人制なら15人制よりずっと安全で…」とか「海外ではメジャーな競技で…」とか懸命に説明しているが、誰も本気で聞いていない。まるで、分厚い防音ガラス越しに話しているみたいに、彼女たちの言葉は空を切るだけだった。
そんな中、一人だけ違う反応を示した教師がいた。
職員室の、一番奥の隅っこ。積み上げられた資料の山に埋もれるようにして、一人だけくたびれたジャージ姿でスポーツ雑誌を読んでいた、無気力そうな顔の男。武田正人。
「……お前らか。女子サッカー部の代わりに、ラグビー部作るって騒いでる新入生は」
低い、体温を感じさせない面倒くさそうな声。
二人が「はい!」と声を揃えて答えると、武田は一度だけこちらに視線をよこし、すぐに興味を失ったように雑誌へと目を戻した。彼が読んでいたのは、大学ラグビーの特集記事だった。
「やめとけ。遊びでやれるほど、甘いスポーツじゃねえよ」
それだけ言うと、彼はもう二度と口を開かなかった。彼の背後の壁に貼られた、「諦めたらそこで試合終了ですよ」的な熱血名言ポスターが、ひどく皮肉に見えた。
2.才能と絶望
同好会申請の惨敗に、あおいは校舎裏の空き地で大きくため息をついた。
二人だけの練習場所で、あおいは教えられた通りに楕円形のボールを投げてみるが、へなちょこな回転で力なく足元に落ちる。
「あはは! まあ、最初はそんなもん!」
笑い飛ばすレイナに、あおいは少しだけムキになる。悔しい。負けたくない。その感情が、中学のバスケ部で失いかけていた、自分の原点であることを思い出させてくれた。
パス、キャッチ、簡単なステップ。顧問も部員もいない、名前すらない活動。夕暮れのグラウンドでボールを回しながら、レイナが切り出した。
「やっぱ、もうちょっと人、探さないとね。人数が増えれば、きっと変わると思うんだ」
「だよね」
「誰かいないかな、心当たり」
「うーん……」
あおいは、楕円形のボールの感触を確かめながら、脳裏にクラスメイトの顔を思い浮かべる。そして、一つの光景がフラッシュバックした。
入学式の日。サッカー部設立延期の報に、血の気の引いた顔で立ち上がった、凛としたポニーテールの少女。高梨沙耶。その手は、サッカー雑誌を爪が白くなるほど握りしめていた。
「……いる。一人、気になる子が」
あおいは、レイナに沙耶のことを話した。サッカー推薦でこの学校に来たこと。誰よりも悔しさを滲ませていたこと。
「その子だ!」
レイナの目が輝く。
「行こう、今すぐ!」
沙耶はすぐ見つかった。正面玄関脇のコミュニティーホール、そのベンチに座っていた。隣にはD組の小野寺美咲。
二人とも、それぞれスマホで何かを見ている。話をしている様子はない。表情は曇り、二人の周りだけ、空気が重く澱んでいるように見える。
「あの、高梨さん……」
おそるおそる声をかけたあおいに気付くと、沙耶は訝しげな視線を向けた。
「……何か用?」
隣でレイナが、太陽のような笑顔で切り込む。
「単刀直入に言うね! 私たちと、ラグビーやらない?もしよかったら、お友達も一緒に」
その言葉に、周囲の空気が凍る。
先に口を開いたのは、美咲だった。彼女は、沙耶を守るように立ち上がり、一歩前に出ると、震える声で言った。
「……ちょっと何なんですか。ラグビーって。…この子は、沙耶は、サッカーをやるためにここに来たんです。まあ、私もそうだけど…」
そう言いながら、美咲は沙耶に視線を向ける。
高梨沙耶は、ぐっとスマホを持つ手に力を込めたまま、俯いて固まっている。ポニーテールの長い髪が顔の前に垂れ下がり、その表情を見ることができない。
美咲が意を決したように続ける。
「…あなた達だって、サッカー部がどうなったか知ってますよね。沙耶が、どれだけ傷ついたと思ってるんですか。なのに、また……」
これ以上、親友が傷つく姿を見たくない。その悲痛な訴えが、美咲の全身から滲み出ていた。
再び、重い沈黙が落ちる。壁にかかった時計の秒針だけが、カチ、カチ、と無機質な音を立て、その場にいる全員の心臓の鼓動を刻んでいるかのようだった。
その、張り詰めた静寂を、ガラスを引っ掻くような冷たい声が切り裂いた。
「……美咲、いい」
沙耶だった。
彼女はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、何の感情も見えない。ただ、全てを拒絶する、底なしの昏い光だけが宿っていた。
彼女はレイナたちに向き直ると、静かに、しかし刃物のように鋭い言葉を放った。
「……同情のつもり?」
それは、行き場のない怒りと、踏みにじられたプライドが凝縮された、侮蔑の響きを持っていた。
「サッカーができなくなって、居場所もなくなって、さぞかし暇だろうって?……可哀想な私たちに、代わりの『遊び』でも与えてくれようっていうの?」
その言葉は、レイナだけでなく、あおいの胸にも深く、深く突き刺さった。沙耶の唇が、嘲るように、ほんのわずかに歪む。
「悪いけど、おままごとは他所でやって。あなたたちがどんな夢を持とうが勝手だけど……私たちを、巻き込まないで」
その言葉に、レイナが何かを言い返そうとした瞬間。
隣にいたあおいが、その腕をそっと制した。
「……おままごとじゃないよ。本気」
静かな声だった。沙耶の昏い瞳が、初めてあおいを真正面から捉える。
「その目……全部終わったって顔してる」
一瞬の沈黙。
あおいは、沙耶の瞳の奥にある、消えていない光を見つめた。
「でも、あなたの悔しさは、サッカーに対して、本気で向き合ってきたからなんだよね。」
「だから、これは同情じゃない、スカウト。その本気こそ、私たちは欲しいんだ。それに、私たちの同志が増えることで、学校を動かしたいの。だから、力を貸して欲しいんだ」
沙耶の肩が、ほんのわずかに震えた。
しかし彼女は、何も答えなかった。
ただ、唇をきつく結ぶと、あおいから視線を外し、隣に立つ美咲に「……行くよ」とだけ小さく呟いた。
そして、立ち上がると、一度も振り返ることなく、廊下の奥へ消えていった。
◇
水曜日の放課後、高梨沙耶は気づけば、校舎裏へと向かう自分の足音を聞いていた。
「別に、あいつらのことなんて……」
誰に言うでもない言い訳を心の中で呟きながら、ただ、確かめずにはいられなかった。あの二人が言っていた「ラグビー」とは、一体どの程度ものなのか。
忘れられた空き地が見える、校舎の角。壁に身を隠すようにして、そっと中を覗き込む。
そこには、柚木あおいと南雲レイナの二人しかいなかった。
「あおい、パス! もっと腰入れて!」
「う、うん……て、うわっ!」
レイナが投げた楕円形のボールを、あおいは見事に顔面で受け止めていた。芝生の上にひっくり返るあおいを見て、レイナが腹を抱えて笑っている。
「あはは! ナイスキャッチ、顔面で!」
「……っさい! もう一回!」
顔を真っ赤にして起き上がったあおいが、ムキになってボールを拾う。その姿は、お世辞にも上手いとは言えなかった。パスはよろよろと飛び、キャッチはぎこちない。傍から見れば、それはただの素人のボール遊びだ。
沙耶は、呆れてため息をつきそうになった。あんなもので、本気で部活を作ろうと?
だが、なぜだろう、二人から目が離せなかった。
下手くそなのに。無駄な動きばかりなのに。勝ち負けも、プレッシャーも、何もない。ただ、ボールを追いかけることが楽しくて仕方がないという、無防備な笑顔。
不意に、二人の会話が微かに耳に届いた。
練習の手を止め、芝生に座り込んだレイナが、空を見上げながら言った。
「セブンズってさ、サッカーとかバスケとちょっと似てるとこあんの。スペース見つけて、そこに走り込むのが大事だから。あおい、バスケやってたなら、絶対得意だって」
「セブンズ……?」
あおいが聞き返す。
「そう、7人制ラグビー。15人制よりずっとスピーディーで、一人一人の役割が超重要なんだ。だから、面白い」
レイナは、まるで宝物の在り処を語るように、目を輝かせた。
「……で、本当に全国大会とか、目指せるもんなの?」
あおいの、少し不安げな声。
それに、レイナはニッと歯を見せて、当たり前のように答えた。
「目指すに決まってんじゃん。てか、私たちが最初の道になるんだから。目指さなきゃ、始まらないでしょ」
その言葉が、沙耶の胸に、ズン、と重く響いた。
全国大会。
自分が掴み損ね、全てを失うきっかけになった、その言葉。
あの少女は、何のてらいもなく、それを口にする。まるで、世界の中心で、自分たちの物語が始まることを微塵も疑っていないかのように。
——ばかみたい……
沙耶は、踵を返した。
これ以上見ていたら、自分が築き上げた心の壁に、ひびが入ってしまいそうだったから。
だが、その耳には、二人の楽しそうな笑い声が、いつまでもこびりついて離れなかった。
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