第2話-1 高い壁 2 才能と絶望

1.高い壁



「よし、行くよ、あおい!」

「う、うん……」

翌日の放課後、あおいとレイナは早速、職員室を訪ねた。


レイナの底抜けの明るさとは裏腹に、あおいの心臓は緊張で早鐘を打っている。

二人で目を合わせてから、意を決してあおいは右手で三回ノックする。

「失礼します!」



結果から言えば、惨敗だった。

あおいたちの最初の挑戦は、木っ端微塵に砕け散った。

「女子で、ラグビー? 南雲さん、悪いが冗談なら他所でやってくれ」

ベテランの数学教師は、眼鏡の奥の目を細めて鼻で笑った。

「いや、うちはちょっと専門外でね。体育の授業ならまだしも、部活動となると……。怪我でもされたら、こっちの責任問題になるから」

若い社会科の教師は、申し訳なさそうに、しかしきっぱりと首を横に振る。

「気持ちは分かるが、前例のない部活、特にコンタクトスポーツを認可するのは非常に難しいんだ。学校としてもね」

教頭は、穏やかな口調ながら、その言葉は揺るぎない拒絶の響きを持っていた。

レイナが「7人制なら15人制よりずっと安全で…」とか「海外ではメジャーな競技で…」とか懸命に説明しているが、誰も本気で聞いていない。まるで、分厚い防音ガラス越しに話しているみたいに、彼女たちの言葉は空を切るだけだった。

そんな中、一人だけ違う反応を示した教師がいた。

職員室の、一番奥の隅っこ。積み上げられた資料の山に埋もれるようにして、一人だけくたびれたジャージ姿でスポーツ雑誌を読んでいた、無気力そうな顔の男。武田正人。


「……お前らか。女子サッカー部の代わりに、ラグビー部作るって騒いでる新入生は」

低い、体温を感じさせない面倒くさそうな声。

二人が「はい!」と声を揃えて答えると、武田は一度だけこちらに視線をよこし、すぐに興味を失ったように雑誌へと目を戻した。彼が読んでいたのは、大学ラグビーの特集記事だった。


「やめとけ。遊びでやれるほど、甘いスポーツじゃねえよ」

それだけ言うと、彼はもう二度と口を開かなかった。彼の背後の壁に貼られた、「諦めたらそこで試合終了ですよ」的な熱血名言ポスターが、ひどく皮肉に見えた。




2.才能と絶望



同好会申請の惨敗に、あおいは校舎裏の空き地で大きくため息をついた。

二人だけの練習場所で、あおいは教えられた通りに楕円形のボールを投げてみるが、へなちょこな回転で力なく足元に落ちる。


「あはは! まあ、最初はそんなもん!」

笑い飛ばすレイナに、あおいは少しだけムキになる。悔しい。負けたくない。その感情が、中学のバスケ部で失いかけていた、自分の原点であることを思い出させてくれた。

パス、キャッチ、簡単なステップ。顧問も部員もいない、名前すらない活動。夕暮れのグラウンドでボールを回しながら、レイナが切り出した。


「やっぱ、もうちょっと人、探さないとね。人数が増えれば、きっと変わると思うんだ」

「だよね」

「誰かいないかな、心当たり」


「うーん……」

あおいは、楕円形のボールの感触を確かめながら、脳裏にクラスメイトの顔を思い浮かべる。そして、一つの光景がフラッシュバックした。


入学式の日。サッカー部設立延期の報に、血の気の引いた顔で立ち上がった、凛としたポニーテールの少女。高梨沙耶。その手は、サッカー雑誌を爪が白くなるほど握りしめていた。


「……いる。一人、気になる子が」

あおいは、レイナに沙耶のことを話した。サッカー推薦でこの学校に来たこと。誰よりも悔しさを滲ませていたこと。


「その子だ!」

レイナの目が輝く。

「行こう、今すぐ!」


沙耶はすぐ見つかった。正面玄関脇のコミュニティーホール、そのベンチに座っていた。隣にはD組の小野寺美咲。

二人とも、それぞれスマホで何かを見ている。話をしている様子はない。表情は曇り、二人の周りだけ、空気が重く澱んでいるように見える。


「あの、高梨さん……」

おそるおそる声をかけたあおいに気付くと、沙耶は訝しげな視線を向けた。


「……何か用?」

隣でレイナが、太陽のような笑顔で切り込む。


「単刀直入に言うね! 私たちと、ラグビーやらない?もしよかったら、お友達も一緒に」


その言葉に、周囲の空気が凍る。


先に口を開いたのは、美咲だった。彼女は、沙耶を守るように立ち上がり、一歩前に出ると、震える声で言った。


「……ちょっと何なんですか。ラグビーって。…この子は、沙耶は、サッカーをやるためにここに来たんです。まあ、私もそうだけど…」

そう言いながら、美咲は沙耶に視線を向ける。


高梨沙耶は、ぐっとスマホを持つ手に力を込めたまま、俯いて固まっている。ポニーテールの長い髪が顔の前に垂れ下がり、その表情を見ることができない。

美咲が意を決したように続ける。


「…あなた達だって、サッカー部がどうなったか知ってますよね。沙耶が、どれだけ傷ついたと思ってるんですか。なのに、また……」

これ以上、親友が傷つく姿を見たくない。その悲痛な訴えが、美咲の全身から滲み出ていた。


再び、重い沈黙が落ちる。壁にかかった時計の秒針だけが、カチ、カチ、と無機質な音を立て、その場にいる全員の心臓の鼓動を刻んでいるかのようだった。

その、張り詰めた静寂を、ガラスを引っ掻くような冷たい声が切り裂いた。


「……美咲、いい」

沙耶だった。

彼女はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、何の感情も見えない。ただ、全てを拒絶する、底なしの昏い光だけが宿っていた。

彼女はレイナたちに向き直ると、静かに、しかし刃物のように鋭い言葉を放った。


「……同情のつもり?」

それは、行き場のない怒りと、踏みにじられたプライドが凝縮された、侮蔑の響きを持っていた。


「サッカーができなくなって、居場所もなくなって、さぞかし暇だろうって?……可哀想な私たちに、代わりの『遊び』でも与えてくれようっていうの?」

その言葉は、レイナだけでなく、あおいの胸にも深く、深く突き刺さった。沙耶の唇が、嘲るように、ほんのわずかに歪む。


「悪いけど、おままごとは他所でやって。あなたたちがどんな夢を持とうが勝手だけど……私たちを、巻き込まないで」

その言葉に、レイナが何かを言い返そうとした瞬間。

隣にいたあおいが、その腕をそっと制した。


「……おままごとじゃないよ。本気」

静かな声だった。沙耶の昏い瞳が、初めてあおいを真正面から捉える。


「その目……全部終わったって顔してる」

一瞬の沈黙。

あおいは、沙耶の瞳の奥にある、消えていない光を見つめた。


「でも、あなたの悔しさは、サッカーに対して、本気で向き合ってきたからなんだよね。」


「だから、これは同情じゃない、スカウト。その本気こそ、私たちは欲しいんだ。それに、私たちの同志が増えることで、学校を動かしたいの。だから、力を貸して欲しいんだ」

沙耶の肩が、ほんのわずかに震えた。

しかし彼女は、何も答えなかった。

ただ、唇をきつく結ぶと、あおいから視線を外し、隣に立つ美咲に「……行くよ」とだけ小さく呟いた。

そして、立ち上がると、一度も振り返ることなく、廊下の奥へ消えていった。



水曜日の放課後、高梨沙耶は気づけば、校舎裏へと向かう自分の足音を聞いていた。


「別に、あいつらのことなんて……」

誰に言うでもない言い訳を心の中で呟きながら、ただ、確かめずにはいられなかった。あの二人が言っていた「ラグビー」とは、一体どの程度ものなのか。

忘れられた空き地が見える、校舎の角。壁に身を隠すようにして、そっと中を覗き込む。

そこには、柚木あおいと南雲レイナの二人しかいなかった。


「あおい、パス! もっと腰入れて!」


「う、うん……て、うわっ!」


レイナが投げた楕円形のボールを、あおいは見事に顔面で受け止めていた。芝生の上にひっくり返るあおいを見て、レイナが腹を抱えて笑っている。


「あはは! ナイスキャッチ、顔面で!」


「……っさい! もう一回!」

顔を真っ赤にして起き上がったあおいが、ムキになってボールを拾う。その姿は、お世辞にも上手いとは言えなかった。パスはよろよろと飛び、キャッチはぎこちない。傍から見れば、それはただの素人のボール遊びだ。


沙耶は、呆れてため息をつきそうになった。あんなもので、本気で部活を作ろうと?

だが、なぜだろう、二人から目が離せなかった。

下手くそなのに。無駄な動きばかりなのに。勝ち負けも、プレッシャーも、何もない。ただ、ボールを追いかけることが楽しくて仕方がないという、無防備な笑顔。

不意に、二人の会話が微かに耳に届いた。

練習の手を止め、芝生に座り込んだレイナが、空を見上げながら言った。

「セブンズってさ、サッカーとかバスケとちょっと似てるとこあんの。スペース見つけて、そこに走り込むのが大事だから。あおい、バスケやってたなら、絶対得意だって」


「セブンズ……?」

あおいが聞き返す。


「そう、7人制ラグビー。15人制よりずっとスピーディーで、一人一人の役割が超重要なんだ。だから、面白い」

レイナは、まるで宝物の在り処を語るように、目を輝かせた。


「……で、本当に全国大会とか、目指せるもんなの?」

あおいの、少し不安げな声。

それに、レイナはニッと歯を見せて、当たり前のように答えた。


「目指すに決まってんじゃん。てか、私たちが最初の道になるんだから。目指さなきゃ、始まらないでしょ」

その言葉が、沙耶の胸に、ズン、と重く響いた。


全国大会。


自分が掴み損ね、全てを失うきっかけになった、その言葉。

あの少女は、何のてらいもなく、それを口にする。まるで、世界の中心で、自分たちの物語が始まることを微塵も疑っていないかのように。


——ばかみたい……

沙耶は、踵を返した。

これ以上見ていたら、自分が築き上げた心の壁に、ひびが入ってしまいそうだったから。

だが、その耳には、二人の楽しそうな笑い声が、いつまでもこびりついて離れなかった。

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