第2話 招かれざる客
私はフリーライターとして、地方の古い習俗や伝承を追い求めて記事を書いている。先日、取材のために地図にも載っていないような山奥の村を訪れた。そこは、苔むした茅葺屋根の家々がひっそりと並ぶ、まるで時間が止まったような場所だった。村に着いた瞬間、どこか空気が重く、鳥のさえずりすら聞こえない静寂に包まれていた。まるで、村全体が何かを隠しているかのようだった。
村人たちから聞いたのは、「招かれざる客」という奇妙な風習だ。夜になると、各家は玄関先に小さな灯籠を一つだけ灯す。決してその灯りをのぞき込んだり、声をかけたりしてはいけないという。「招かれざる客」とは、遠い昔、この村で飢えと寒さに倒れた旅人たちの亡魂だと村の長老は語った。彼らは成仏できず、今もなお村の闇を彷徨い、灯籠の光を頼りに道を辿るという。だが、その光は単なる目印ではない。長老の目は暗く沈み、こう付け加えた。「灯籠は、奴らが家に入らぬよう、結界の役目も果たす。だが、もし光を直視したり、声をかけたりしたら…奴らは招かれたと思う。そして、招いた者を連れていくのだ」。
その夜、私は取材で泊めてもらった古い旧家の二階で、長老の言葉を反芻していた。部屋は古びた畳と煤けた柱に囲まれ、どこかカビ臭い空気が漂う。窓の外は漆黒の闇に沈み、風もないのに木々が不気味に軋む音が響く。遠くで、フクロウのものともつかない低い唸り声が聞こえた。気味が悪いと思いつつ、疲れからか私は布団に横になった。
すると、一階から物音がした。「ガタ…ガタッ」。まるで誰かが戸を叩くような、乾いた音だ。最初は風のせいかと思ったが、音は不規則に続き、次第に力強さを増していく。「ガタガタ…ガタッ!」。好奇心と恐怖がせめぎ合う中、私はそっと窓に近づき、隙間から外を覗いた。
家の前には、長老の言った通り、小さな灯籠が一つ、ゆらゆらと揺れている。その炎は不自然に青白く、まるで生き物のように脈打っていた。灯籠の向こう、闇の中に、背の高い痩せ細った人影が立っていた。男だ。背を向けたまま、じっと動かない。その姿は、まるで影絵のように不自然に平面的で、輪郭が闇に溶け込んでいる。私の心臓が早鐘を打つ。「招かれざる客」だ。
その瞬間、男がゆっくりと振り返った。顔は血の気のない青白い皮膚に覆われ、目は黒く窪み、まるで底なしの穴のようだった。口元は裂けるように歪み、歯のない笑みを浮かべている。だが、その笑みはどこか不完全で、まるで顔の皮膚がずれたような、異様なずれがあった。私は息を呑み、窓から飛び退いた。心臓が喉から飛び出しそうだった。
布団に潜り込み、目を閉じて自分を落ち着けようとした。「夢だ、気のせいだ」と何度も呟いた。だが、すぐに新たな音が耳を刺した。「トントン…」。今度は窓を叩く音だ。二階の窓だ。そんなはずはない。この部屋は二階にあるのだから。音は次第に大きく、執拗になる。「トントントン…トントントン!」。まるで、誰かが爪で窓枠を引っ掻き、這い上がってくるような音に変わった。
「ギィ…」。窓が、ゆっくりと開き始めた。錆びた蝶番が軋む音が、骨を削るように響く。私は凍りついた。布団の中で体を硬直させ、動けない。窓の向こうから、冷たい空気が流れ込んできた。いや、それは空気ではない。まるで、誰かの吐息のような、湿った冷たさだった。
「こっちへおいで…」。低い、掠れた声が聞こえた。男の声だ。だが、その声は遠くからではなく、部屋のどこか…私のすぐ近くから聞こえてくる。背筋が凍り、目を開けることすらできなかった。「トントン…」。今度は、床を這うような音が近づいてくる。まるで、長い爪が畳を引っ掻きながら、ゆっくりと這ってくるような音だ。
「こっちへおいで…」。声は今、耳元で囁く。吐息が首筋を撫で、腐臭のような匂いが鼻をついた。私は全身が震え、悲鳴を上げようとしたが、喉が締め付けられるように動かない。体が金縛りにあったように硬直し、ただ恐怖に飲み込まれていく。
ふと、音が止んだ。静寂が部屋を包む。恐る恐る目を開けると、窓は閉まっている。だが、部屋の空気は異様に重く、視界の端に何か黒いものが揺れている気がした。いや、揺れているのは私の影ではない。部屋の隅、暗闇の中に、細長い人影が立っていた。男だ。青白い顔が、じっと私を見つめている。その目は、まるで私の魂を吸い取るように、底なしの闇を湛えていた。
「招いたのは、お前だ」。男の声が、頭の中で直接響いた。次の瞬間、男の体が不自然に折れ曲がり、まるで関節が逆になったような動きで床を這い始めた。その動きは人間のものではなく、まるで操り人形が糸を切られたようにぎこちなく、しかし異様に速い。私は絶叫した。「ああああああああ!」
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翌朝、目が覚めると、私は旧家の二階の部屋にいた。窓は閉まり、朝の光が差し込んでいる。昨夜の出来事は夢だったのか。私は安堵の息をつき、一階に降りて旧家の主人に朝食の挨拶をした。だが、主人は私の顔を見るなり、眉をひそめ、こう言った。
「お客さん、昨夜は一晩中うなされて叫んでおられたが、一体どうしたんです?」
私は震える声で、昨夜の出来事を夢として語った。灯籠、男、窓からの声…。しかし、話を進めるごとに、主人の顔は青ざめ、目に見えて震え始めた。私の話が終わると、彼はしばらく黙り込み、やがて掠れた声でこう告げた。
「お客さん、それは夢じゃない。この家の二階の窓は、戦後すぐに取り壊されて壁に変わった。もう何十年も、窓なんて存在しないんだ。それに…」彼は一瞬言葉を切り、目を逸らした。「昨夜、灯籠の火が、消えていた。あの火が消えるのは、奴らが招かれた時だけだ…」
私は凍りついた。背後で、畳が軋む音がした。「ギィ…」。まるで、閉ざされたはずの壁が、ゆっくりと開くような音だった。振り返る勇気はなかった。だが、首筋に、冷たい吐息が触れた。
「こっちへおいで…」。
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