創作怪談集
益川屋兵右衛門
第1話 潮騒の向こう側
N県S市にある「鏡浜」と呼ばれる海水浴場は、地元の人々の間で特別な場所だ。穏やかな波が空を映し、まるで巨大な鏡のような美しさが広がる。しかし、この場所には決して口にすべきでない、ぞっとする噂がある。それは、特定の夜にだけ現れる「鏡の向こう側の影」の話だ。
俺がこの話を初めて聞いたのは、大学時代、S市で暮らしていた頃だ。バイト先の先輩、タカシさんが教えてくれた。タカシさんは地元出身で、子どもの頃から鏡浜で遊んできた男だ。だが、彼がその話を始めたとき、いつも陽気な顔が急に曇った。
「鏡浜さ、満月の夜、潮が引くときに変なもんが見えることがあるんだよ」と、タカシさんは低い声で言った。まるで誰かに聞かれるのを恐れるように。「最初は光のいたずらかと思った。海面に映る満月の光の道の上に、黒い影が揺れてるんだ。男だったり、女だったり、子どもだったり…いろんな姿に見える。地元じゃ、それを『潮騒の向こうから来た者』って呼ぶんだ」
俺は冗談だと思った。だが、タカシさんの目は遠くを見つめ、どこか怯えているようだった。彼はさらに声を潜めて続けた。「一番ヤバいのは、その影が手招きしてくることだ。海面で、ゆっくり、こっちを呼んでるみたいに。絶対にその誘いに乗っちゃいけない。乗ったやつは…二度と帰ってこねえ」
その日から、鏡浜は俺の中で不気味な存在になった。タカシさんの話は、ただの怖い話ではなく、妙に現実味を帯びていた。まるで、海そのものが何かを隠しているような気がした。
大学の夏休み、俺はバイト仲間と鏡浜で花火をすることになった。運が悪いことに、その夜は満月が異様に明るく、海面を銀色に染めていた。潮は完全に引いていて、普段は海に沈んでいる岩場が黒く濡れた姿を剥き出しにしていた。空気はどこか重く、潮の匂いに混じって、かすかに腐臭のようなものが漂っていた。
花火が終わり、仲間たちが笑いながら片付けを始めたとき、俺はタカシさんの話を思い出し、思わず海面を見た。すると、満月の光が作り出す銀色の道の先に、確かに「何か」があった。
それは、黒い影だった。最初は漂う藻か流木かと思ったが、じっと見ていると、その影はゆっくりと形を変え始めた。まるで水面の下から何かが浮かび上がってくるように。そして、それは一人の少女の姿になった。白いワンピースはびしょ濡れで、長い髪が不自然に重そうに垂れ下がり、潮風に揺れるどころか、まるで水中で漂っているかのようだった。彼女の顔は青白く、目だけが異様に大きく、黒い瞳孔がこちらをじっと見つめていた。
少女は、膝まで海に浸かった状態で立っていた。そして、ゆっくり、ぎこちなく、こちらに手を差し伸べた。その動きは、まるで糸で操られている人形のようだった。
「おい、なにボーッとしてんだ?」
タカシさんが俺の異変に気づき、声をかけてきた。俺は震える指で海を指した。タカシさんがその視線を追うと、彼の顔から血の気が引いた。
「…見ちまったのか」
タカシさんの声は震えていた。彼は俺の腕を掴み、爪が食い込むほど強く締め付けた。「いいか、絶対に目を合わせるな。あいつの誘いに乗ったら、お前は終わりだ」
その瞬間、少女の影が、にやりと笑った。いや、笑ったように見えた。彼女の口元は歪み、歯の隙間から黒い液体が滴り落ちているように見えた。そして、はっきりと、声が聞こえた。
「…きて、おいでよ」
声は聞こえないはずなのに、頭の中に直接響いてきた。優しく、懐かしく、まるで子守唄のような声。だが、その裏には、底知れぬ冷たさが潜んでいた。俺の足は、まるで自分の意志を無視するように、勝手に一歩踏み出していた。海が、俺を呼んでいる。少女が、俺を欲している。心の奥で、何かが壊れるような感覚がした。
その瞬間、タカシさんが俺の頬を全力で叩いた。バチンという音が夜の静寂を切り裂いた。「正気に戻れ!あいつはお前を連れて行く気だ!」
痛みで意識が戻った瞬間、少女の影が変貌していた。彼女の顔は、笑顔のまま凍りつき、目がさらに大きく、黒く広がっていた。口からは黒い液体が溢れ、ワンピースの裾が溶けるように海面に広がっていく。そして、彼女の背後には、無数の影が蠢いていた。男、女、子ども…いや、人間とも言い難い、歪んだ姿のものたち。それぞれの顔が、異様な笑みを浮かべ、俺たちをじっと見つめていた。彼らの目は、空洞のように黒く、底知れぬ飢えを湛えていた。
「…おいでよ、おいでよ、おいでよ」
無数の声が重なり合い、頭の中で響き続けた。それは、まるで海そのものが俺を飲み込もうとしているかのようだった。空気が急に冷え、海面から立ち上る霧が、ゆっくりと俺たちを包み始めた。
「逃げろ!」
タカシさんの叫び声で、俺は我に返った。仲間たちも異変に気づき、悲鳴を上げながら荷物を放り出して走り出した。背後で、少女の影が手を伸ばし続けるのが見えた。彼女の指先は、異様に長く、まるで俺の心臓を掴もうとしているかのようだった。海面では、無数の影がざわめき、まるで笑い声を上げているように聞こえた。
俺たちは必死に逃げ、振り返ることもできなかった。あの夜以来、俺は二度と鏡浜には近づいていない。だが、満月の夜になると、時折、あの声が耳の奥で響く。「…おいでよ」。そのたびに、背筋が凍り、部屋の鏡を直視できなくなる。
鏡浜は今も、静かにその美しい海面を輝かせているだろう。だが、満月の夜、潮が引いた海には、潮騒の向こう側から来た者たちが潜んでいる。彼らは、優しい声であなたを誘い、永遠にその鏡の世界へ引きずり込むのを、ただ静かに待っているのだ。
※面白いと思っていただけると幸いです ☆や感想をお待ちしてます
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