未完成

鮭之実

モノクロの天使

仕事人。

もし自分のアイデンティティが何かと問われれば、少し悩んだのちに仕事と答えるだろう。決して仕事が好きなわけではない。得意かと言われればそうでもない。ただ自分にはそれしかないだけなのだと、静かに笑うのだ。

「どうか、どうかたすけてください」

「はいはい。落ち着いてくださいねー。はい、目ぇ瞑って。一瞬ですから」

いつになったら自分は解放されるのだろう。自らの首を絞めることをやめられるのだろう。これも仕事だ、生きるためだ、と言い聞かせながら今日も息をしていた。慣れてしまった動作を繰り返す日々に飽きすら感じていた。

「ほら、大丈夫」

人気のない路地にて、二つあったはずの声は一つになっていた。

「ふー…」

男は煙草に火をつけ、一服する。

夜の街では多くの影が動き回る。日向では生きることのできない、闇を抱えた者たちの活動時間である。『掃除屋』。影に吞まれ、影で生きる者を喰らう者。表沙汰にはしにくいものの後始末を“やらされる”ことを生業としている組織を掃除屋と呼ぶ。

「いち、じゅう、ひゃく、せん、まん、じゅう…。最近にしては上々か」

慣れた手つきで大量の紙切れを数える。

「コンビニ寄って酒でも買って帰るか」

満月に背を向け、重い足取りでその場を後にする。

汚れのない黒いスーツ。皴のないワイシャツ。丁寧に磨かれた革靴。くっきりと出た隈。身なりは整っている。ただ顔を見られると毎回驚かれる。おそらく社畜にでも見られているのだろう。それも相当酷いような。

「あー…。報告、報告っと」

煙草の煙を消し、携帯を触る。

急に、春風が通った気がした。

「…」

ふんわりと巻かれた髪の毛。少し崩れたリボン。泥のついた厚底の靴。目を奪われるほどの可愛さをした顔。

「こんなところで足を止めないでよ、おじさん」

「あ、あぁ。ごめんね」

自分よりは一回りも二回りも違うであろう少女に注意されてしまった。情けない。更には情けないまま謝った。

恥ずかしい。

次に顔を上げた時には少女は既にいなかった。

「…おじさん、か」

年齢には逆らえない。それでも気になるものは気になるのだ。最近は頭頂部が特に。

手元にある携帯が震える。慌てて指をスライドし、応答する。

「あ、もしもし」

左から右へと底抜けに明るい声が貫通する。

「すみません。仕事はとっくに終わってます。いやー、すいません」

緩く謝り、小言の猛攻を躱す。明らかにあからさまな様子にも何も言わないのがこの上司だった。組織のリーダーがこれだから、無駄な気苦労をせずに仕事ができているかもしれないと思い始めている。

「はい。はい。それに関しては問題ないです。はい。もちろん」

思い付きのように次の仕事が言い渡される。いつもこの調子なのだ。何も考えずに生きているのではないかと思えるほどに掴みどころがない上司だと感じる。しかし、大胆だが決して雑というわけではない。気持ちのいい大胆さなのだ。

「天使て…。それやめてくださいよ。天使って言えるような成りじゃないですから」

この業界では通名で呼び合うことが常である。たとえそれが気に入らないものだとしても。

「だから天使っていうのは、小さくて、ふわっとしてて、こう、可愛い感じの…」

そういうシュミがあったんだ。意外。

言われ放題である。反論する気も起きないので黙って聞くことにした。

「…え?あぁ、ネオンの」

唐突な話題変換に驚く。が、天使とくれば当然悪魔も出てくるだろう。

「悪魔ねぇ…。でもやっぱり、俺が悪魔の方がぴったりだと思うんですけど」

疑問の声が帰ってきたと思えば、すぐに察したような返事で塗り替えてくる。

「あぁ、そうです。一方的な認識ではあったと思いますが」

人混みで光が乱反射しているように見えた。

春風と小さな足音は既に雑踏に紛れている。

「ネオンの悪魔と遭遇しました」

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未完成 鮭之実 @y01zame

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