第2章 潮の下の書

 翌朝、海の湿り気は昨日より濃く、空も低かった。

 私は軽く朝食を済ませると、村の中央にある小さな文書館へ向かった。

 案内看板もなく、地元の老人から道順を訊いたときは、「そんなところに何しに行くのかね」と眉をひそめられたほどだ。


 文書館というより、古い納屋を改築したような造りだった。

 入口の扉には錆びた錠前がぶら下がっていたが、鍵はかかっておらず、内部はひどく埃っぽい空間だった。


 書棚にはびっしりと古文書や帳簿、手書きの記録が積まれていた。

 役場の記録係なのか、小太りの初老の男性が一人おり、私がロンドンから来た医師であると伝えると、「観光ですか」とだけ言って、それ以上は詮索してこなかった。


 私は郷土史に興味があるという名目で、彼から「神事」「儀式」「信仰」に関する記録が残っている棚を教えてもらった。


 埃をかぶった木箱をいくつか調べるうちに、一冊の革張りの記録帳が目に留まった。

 表紙には手書きで、こう書かれていた。



 《イーリーの碑文》



 内容は驚くべきものだった。

 村の成立以前、この一帯は“別なる者たち”と人間が共に暮らしていたという伝承。

 その者たちは、夜にだけ現れ、言葉を話さず、しかし人間の子を宿すことができたとある。


 「深きものとの契約」――そう銘打たれた項には、こうあった。



 > “波の彼方から来た者に、娘を捧げること。

 > その代わり、村には魚と穀が絶えぬであろう。

 > 子が生まれし時、村は変わる。”



 ……何かの暗号か、それとも宗教的な儀式の記録か。

 しかしその筆跡は複数人によるもので、明らかに長い年月をかけて書き継がれていた。


 私は、思わず小さく息を呑んだ。


 「……まるで、“人ならぬもの”との通婚だな」



 その帰り道。

 私は浜辺の祠の前で、再び不可思議な光景に出くわした。


 5、6人ほどの村人たち――年老いた男、若い娘、少年、誰もが無言で、祠の前に並んでいた。

 彼らは手に持った木鉢から、何かを撒いていた。


 それは、鱗だった。


 魚の鱗にしては妙に大きく、銀色に鈍く光り、時折それが蠢くように見えた。

 誰も口を開かず、視線は一直線に祠の奥を向いている。


 私はその場から離れ、坂道を上って村へ戻ろうとした。


 ……が、ふと背後で「ジャリ……」と小さな音がして、思わず振り返った。


 祠のそばにいた少年が、私をじっと見ていた。

 その目はまるで魚のように濁りきっており、まばたきもしなかった。



 その日の夜、事件は起きた。


 村の裏手――崖下の磯に、死体が打ち上げられたという話が広まったのは、午後のことである。

 野次馬のように集まった村人たちは誰も口を開こうとせず、警察の姿もなかった。


 私は宿の女将に頼み込み、案内を受けて現場に向かった。


 海藻と貝殻に覆われた死体。

 性別不明。年齢も判然としない。


 ただ一つ、はっきりしているのは――その肌の一部が、魚類の鱗で覆われていたことだった。


 胸部には深く裂かれたような傷があり、そこには奇妙な粘液が付着していた。

 そして口の中には、長く絡んだ海藻が詰められていた。


 私は背筋が凍りついた。

 この死体は、人間なのか?

 あるいは……“波さま”と呼ばれる何かの、落とし子なのか?

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