シャーロック・ホームズの怪異録 VI:深きものの囁き
S.HAYA
第1章 波の村
ロンドンの喧騒を離れて数日。
心身の疲れ――いや、正確にはホームズとの言い争いから逃げるように、私は北部の漁村・イーリー・マスを目指した。
あの男の鋭い推理と不眠不休の探究心には敬服している。だが、四六時中そばにいるには、私はあまりに人間的すぎた。
潮の香りが鼻をくすぐるたび、私はどうにも眠気を感じた。
列車の揺れに身を任せながら、私はぼんやりと、車窓に映る海沿いの風景を眺めていた。
イーリー・マスの駅は簡素な木造建てで、降り立った乗客は私一人きりだった。
駅員らしき男が一瞥をくれただけで、特に声をかけるでもない。
私は小さな鞄を手に、石畳の小道を海辺のほうへと歩き出した。
村は、奇妙に静かだった。
潮風は吹いているはずなのに、樹々も洗濯物もほとんど揺れていない。
軒下で煙草をくゆらす老人たちは、私に視線を向けても、挨拶は返してこなかった。
会釈をすると目を逸らされ、まるで“異物”を見るような目だった。
「……なるほど、社交的な土地ではないらしい」
独りごちて肩をすくめ、予約していた宿へと足を運んだ。
『海猫亭』と書かれた木の看板が、ほんのわずかに軋む音を立てていた。
宿の女将は無口な中年女性で、丁寧ではあるがどこか気を許さぬ雰囲気があった。
部屋に通され、軽く荷を解いた私は、ようやく海辺へと散歩に出ることにした。
海は、鉛色に濁っていた。
風が波をなでる音はあるのに、水面は不気味なほど穏やかで、まるで眠っているかのようだった。
浜辺には小さな祠のような石造りの構造物があり、花のようなものが供えられていた。
だがそれは花ではなく、どうやら海藻と貝殻を編んだもののようだった。
誰がいつ供えたのかもわからないそれは、まるで生贄を祀る場のようでもあり、
不意に背筋が冷えるのを感じた。
「……この村では、潮が神に通じているのかもしれないな」
夕食後、私は女将に尋ねた。
「海辺にある石の祠について、あれは何か伝承でも?」
女将は一瞬だけ目を細め、それから目を逸らした。
「……あれは、“波さま”のもんです」
「波さま?」
「昔から、うちではそう呼ぶんです。海の中にいる、……よそ者じゃない何かの、名前です」
語尾は微かに震えていた。
これ以上聞くべきではないと、私の医者としての勘が告げていた。
その夜。
私は眠れぬまま、窓を開けて夜風に当たっていた。
宿の裏手には海が広がっており、波音が遠くからかすかに聞こえてくる。
だが、次の瞬間だった。
波に混じるようにして――どこからともなく、唄声のようなものが、耳に届いた。
「………………」
それは、言葉にならぬ、震えるような音だった。
誰かが遠くから、海の底から、囁きかけてくるような……そんな、不穏な旋律だった。
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