第1章 妻の死と、私の秘密 ①女になる朝、男に戻る夜-2
1.1.2 誰にも気づかれない仮面
駅ビルの地下街にある小さなカフェ。
フロアの片隅、壁際の二人席に座り、私はカップを両手で包む。
薄くベージュがかったネイルが、カップの白さに映える。
手首のライン。
ウィッグの隙間から覗く首筋。
視線を感じる。
通りすがりの男たちが、ほんの一瞬、こちらを見た。
目が合う前に逸らしていく──
それでいい。
むしろ、それがいい。
“女”として見られている。
この瞬間、私は完璧に「騙している」。
すべては計算づくの演技。
だが、それが心地いい。
私はカップを静かにソーサーに戻す。
小指を残して、他の指を揃える。
目線を伏せる角度を調整し、長めの前髪から半分だけ目を覗かせる。
鏡がなくても、私は知っている。
今、ここにいるのは「聖菜」だ。
──そして、誰もそれを疑っていない。
いつも使うトイレは、二階の婦人服売り場の奥にある化粧室。
ここは照明が柔らかく、鏡の前も広い。
個室に入るときは、ごく自然に歩き、何気ない表情でハンドバッグを抱えたまま中へ入る。
この空間で、私は「聖菜」という仮面を点検する。
ファンデのヨレ、リップの色味、ウィッグの浮き。
鏡の中に映るその姿は、冷静に見れば“女装”だと気づく人もいるかもしれない。
だが、その“気づき”が起きるよりも早く、私は女として「演じ終える」。
声も、仕草も、香りも、すべてが戦略だ。
ハンドクリームは軽めのフローラル系。
ウィッグの毛先にはほんの少し、同じ系統のヘアミストを吹きかけてある。
声帯の使い方は、すでに癖のように身体に染み込んでいる。
電話口の相手が女性だと信じたまま話を終えるとき、私はひそかに笑ってしまう。
この“嘘”は、いつだって綻びひとつなく仕立てられている。
けれど私は、どこにも属さない。
女装仲間も、SNSも、コミュニティもない。
誰かと共有することに、興味がないわけじゃない。
ただ、怖いのだ。
誰かにこの快楽を否定されることが。
誰かに「それは間違っている」と言われることが。
だから私は、孤独を選んでいる。
孤独という殻のなかでしか、この“もうひとりの私”は生きられない。
マンションに帰る途中、ふと視線が横をかすめた。
ショーウィンドウに映る自分を見て、私は思わず立ち止まる。
赤みを帯びたブラウンの髪、ベージュのトレンチコート、揺れるイヤリング、ほっそりとした顎のライン。
──見慣れた“女”の顔。
でもその奥には、間宮誠司という“男”が棲んでいる。
その事実を、誰も知らない。知ってはならない。
会社では、きちんとしたスーツにネクタイを締めている。
誰からも「真面目な人」と言われる。
文句も言わず、遅刻もせず、書類は正確で、会議でも出過ぎず、引きすぎず、ちょうどいいところにいる。
同僚の女たちが、私に微笑みかける。
「間宮さんって、やさしいよね」
──ああ、知っている。
その“間宮さん”が、どんな女を演じているかなんて、誰も想像しない。
私は騙している。
けれど、それは悪意ではない。
私は、ただ私自身を守るために“仮面”を被っているだけだ。
女装は、私にとって逃避でも、夢想でもない。
これは、完璧な舞台装置だ。
私という役を演じるために、綿密に設計された“偽りの存在”。
それは、誰にも気づかれてはいけない仮面。
だからこそ──
私は今日も、堂々と街を歩く。
“女”として。
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