罰なき罪
瞬遥
第1章 妻の死と、私の秘密 ①女になる朝、男に戻る夜-1
1.1.1 化粧台の前の、もうひとりの私
カーテンの隙間から朝の光が射し込む。
時計の針は、まだ午前八時を少し過ぎたところ。
休みの日は、いつもより少しだけ早起きをする。
理由は決まっている。
私はゆっくりとベッドを抜け出し、薄暗い寝室を抜け、隣の小さな部屋へと足を運ぶ。
元は書斎として設けたその部屋の壁には、姿見と化粧台が据えられている。
ここは、私が“私”でいられる場所だ。
化粧台の引き出しを開ける。
整然と並べられた化粧品の数々──
プライマー、ファンデーション、コンシーラー、ノーズシャドウ、リップ、マスカラ、ビューラー、ハイライト。
そのすべてが私の手に馴染んでいる。
この手順を覚えたのは、大学生の頃だった。
最初は安物のメイク道具と百均のつけまつげ。
笑ってしまうほど拙くて、鏡の前で挫けたこともある。
でも今は違う。
私は、女になることができる。
下着を選ぶ。
レースのトリミングが繊細な白のブラ。
下着の上から補整用のガードルを着け、パッドでヒップラインを整える。
肌に馴染ませたファンデーションは、指先ではなくスポンジで叩くようにして密着させる。
眉はあらかじめ薄く整えてあるので、あまり手間はかからない。
まつ毛はナチュラルなロングタイプのつけまつげを使い、グルーで慎重に接着する。
頬のラインに沿ってシェーディングを入れ、あご下に軽く影を落とす。
小鼻の脇にコンシーラーを叩き込んで、ほんの少しだけ華奢な印象を作る。
その一つひとつの作業が、私を変えていく。
目元の印象が和らぎ、唇に赤みが差すたびに、私は“間宮誠司”という男から遠ざかっていく。
それは、まるで皮膚の下から別人が現れるような感覚だ。
ウィッグをかぶる。
ミディアムのストレート。
少しだけ赤みのあるブラウン。
首筋にかかる髪が揺れるたび、自分の中に「聖菜」が宿るのを感じる。
──聖菜。
この名前は、誰にも教えたことがない。
SNSにも投稿しないし、女装のコミュニティにも属していない。
この姿は、私だけが知っている。
それでいい。それで十分だ。
私は女になりたいわけじゃない。
身体を変えたいとも思わないし、戸籍上の性別を変えるつもりもない。
私は私であり、性自認は間違いなく“男”だ。
でも、「男である私」とは違う、“もうひとりの私”を生きることが、たまらなく快楽なのだ。
私は椅子から立ち上がり、姿見の前に立つ。
肩を引き、顎を引く。
片足を引いて、膝を少し内側に入れる。
柔らかな目線。
首を傾ける角度。
手先の添え方。
女としての所作が、身体に染み込んでいる。
私は、そういうふうに仕込んできた。
ゆっくりと、鏡の中の“私”が微笑む。
それは、女の顔をした、完璧な嘘だった。
でもその嘘こそが、私を生かしてくれる。
私は、「演じること」にしか、本当の安心を見出せない人間なのだ。
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